第162話 ソクラテスの弁明3
その問いかけにその瞬間を感じ取ったエヴァが、持った銃を構え直したのだろう。背後かちゃりという金属音が聞こえた。
スピロはソクラテスに近づくと、ソクラテスの目をのぞき込むようにして糾弾した。
「そのとき、あなたの『神霊』は、あなたに『危険なことに口を出すな』と助言したのでしょうか?、それとも『見ず知らずの三万人の命なんかで、自分の評判を落とすな』と告げてきたのでしょうか?。
プラトン様はソクラテス様を人間のなかでもっとも高貴で、もっとも思慮深く、もっとも正しい人だった、と述べていますが、本当はそうではないですよね。
あなたは『不敬罪』で死刑になると予告された瞬間から、『神』の名前や逸話をことさらに口にして、そう思われないように画策しようとしていたのですよね。クリティアスやアルキビアデスのときとおなじように、ただただ『保身』をはかっただけに過ぎません」
そこまで言ってもソクラテスは座ったまま微動しなかった。だがその表情は硬くこわばっていた。そこには賢人ソクラテスではなく、ただの哀れな老骨があるだけだった。
「ソクラテス様、あなたがあのときヒッピアス様におっしゃった通り、たしかに『真実の人』と『偽りの人』は同一のようですね」
プラトンが席をたちあがり、ソクラテスのかたわらから身をひいた。その禿頭をうしろから見据えながら、おろおろとした口調でスピロに尋ねた。
「ならば……、ならば、我が師、ソクラテスは……、今ここにいるソクラテスは『悪魔』なるものに乗っ取られた『傀儡』だと、そうおっしゃるのですか?」
スピロの目の端に、エヴァが銃をソクラテスの頭に定めたのが見えた。
「まさか……。ここにいるソクラテス様は、家族を一顧だにせず働きもしない、ただの穀潰しでしかありません。
なにごとにも疑い深く、過度の自尊心を抱く、わたくしたちの世界では『猜疑性パーソナリティー障害』と呼ばれる精神の病を抱えた病人です。しかも、家庭の問題、国家の大事となると都合よく目をそらし、なにかにつけて『無知の知』というキラーフレーズを振りかざして、常日ごろから説く『真実』をうやむやにする、卑屈で矮小な老人でもあります。
さいわいなことに『悪魔』の甘言なんかに耳を貸さない頑迷さも持ち合わせています。しかもあれだけ論理的説明をしても、『神霊』の存在にしがみつく。
そんなどうしようもない老人が悪魔であるものですか」
スピロは顔だけをあげて、プラトンにむかって言った。
「だってそうでしょう、プラトン様……」
「あなたが悪魔なのですから——」