第161話 ソクラテスの弁明2
「あなたは利用されただけなのですよ」
「利用されたじゃと?」
ソクラテスが気色ばんだ。
「えぇ。ペルシア戦争以来、庶民にじりじりと権力を剥ぎ取られていく大貴族の代表でもあるクリティアスたちにとっては、中産階級に生まれ、高い教養を身につけ、庶民、つまりは愚民に生理的に反駁するその最右翼こそが、ソクラテス様、あなただったのです」
「彼らにとって、あなたはたのもしい理論的指導者、つまり教祖と言えたのです」
スピロはソクラテスを睨みつけた。
「ソクラテス様、あなたは自分の弟子であるクリティアス率いる三十人僭主の施政にたいして、抵抗をほとんどしませんでした。彼は無実の市民を1500人殺し、5000人を追放し莫大な財産を没収し、国民を恐怖に陥れたにもかかわらずです」
「な、なにを言う。ちゃんと抵抗はしておるわ」
「最後の最後になって、ささやかな抵抗をしただけでしょう。筋金入りの民主派の人々が命を捨てて抵抗したような勇敢さも、外国に遁れて武装蜂起を目指すような潔さもなかったではないですか」
「ちがうのじゃ。『神霊』がわしに忠告したのだよ。政治にはかかわるなと、かかわると長生きできない、とな」
ソクラテスはスピロを指さしてから、話を続けた。
「昔、アルギヌサイの海戦のあと海に漂う戦死者の亡骸を集めなかったという理由で、十人の将軍を同時に裁こうとしたことに、わしはたった一人反対したことがある。それは複数の市民を同時に裁くことができないという法に逆らう判決だったからじゃ。
だがそのせいでどうなったと思うかね。
もうすこしでわしも同罪として裁かれそうになったのじゃ。
いや、まだある。そのあとで権力を握った独裁者どもが、サラミスのレオンを捕まえよと命令してきたときも、わしはこれを拒否したのじゃ。もしその政権がはやくに倒されなければ、わしは命を奪われていたじゃろうて」
「なるほど……。ですが、その前にさかのぼれば、アルキビアデスが主唱し、民間の議決を取り付けて強行したメロス島の掃滅に際しても、そのほかの民衆とおなじように黙りこみ、敢然と反対しなかったではないですか。
それでもあなたは『真実の人』と呼べるのですか?。
アルキビアデスは中立を宣言したメロス島の三万人もの人々を虐殺、女性と子供は奴隷に売り払ったのですよ。何の罪もない人をです。
そこにどんな正義があります?」
「あなたがアテナイを理想の国家に導こうとしたのなら、命を賭して、アルキビアデスに、それがあなたの恋人であったとしても、堂々と反旗を翻すべきではなかったのですか?」