第159話 悪魔の一人に逃げられました
マリアが黙り込んだ。
ゾーイは気軽に軽口を叩いてしまったせいで、マリアの気嫌をそこねたのではないかと心配した。
「そうだとよかったんだがな……」
一瞬ののち絞り出すような口調でマリアが言った。
「あいつには、セイには、かがりっていうガールフレンドがいる。セイのことを信じて現世でずっと待っている女だ。かがりはどんな時でもセイのすぐ近くにいて、苦しみや悲しみも共にしてきた。たぶん今もセイの近くでまんじりともせず待ってるだろうよ」
「マリアさん、でもその子は待ってるだけなんだろ。何もできずに。だったら、一緒に戦ってるマリアさんのほうが有利なんじゃないのかい」
「いいや。1%も望みがねえよ。セイのことを信じて、信じて、なんにもせず、ただじっと待ってられるんだぞ……」
一瞬、声が詰まりかけたように感じたが、マリアはさばさばとした口調で言い切った。
「勝てっこねぇだろ」
ゾーイはマリアになんと答えていいかわらかず、ことばをかけあぐねた。が、その時、頭の中にスピロの声がとびこんできた。
「ゾーイ、申し訳ありません。悪魔の一人に逃げられました。おそらくそちらに向かってます。対処してください」
「悪魔がこちらにやってくるってぇ……。いったい誰なんだい?」
「トゥキディデスです」
ゾーイはボクシングの観戦のとき、自分が警護したときのことを思い出した。ヘロドトスと比肩するまでもなく、本当の歴史家であると称賛したときの嬉しそうな姿が目に浮かぶ。
だが、あれが悪魔憑き、だったとは……。
ゾーイはすこしショックを受けている自分に気づいたが、それを押し殺してスピロにむかって尋ねた。
「じゃあ、お姉さまたちも、こっちへもどってきて合流してもらえるのかい」
「いえ。そうはいきません。もうひとりの悪魔をいぶり出してからです」
「もうひとり……」
「ゾーイ。そちらは任せます。頼みましたよ」
ゾーイがスピロに聞きただす間もなく、スピロは声をかけてきたとき同様に、一方的に連絡をとざした。
「おい、ゾーイ。なにがあった?」
マリアがおおきな思考でゾーイに問いかけてきた。突然、思念がとぎれたことで、なにかがあったことを察したらしい。マリアの嗅覚にはほとほと恐れ入る——。
「お姉さまから言伝があったのさ。今から、そっちに悪魔の正体を現したトゥキディデスがいくから、ふたりで相手してくれってさ」
「なんだ、ひとりだけか。じゃあ、ゾーイ、おまえは手を出すな。オレひとりで充分だ」
「しかし、ふたりで……」
「今ので失恋したことを思い出して、むしゃくしゃしてんだ。ゆずれ!」
「じゃあ、なにかい。ストレス解消にやつらを壊すってわけかい」
「壊す?。いいや、どっちかというと撃滅だな」