第156話 撃て——の合図だった
その瞬間スピロがエヴァのほうをみて、首をクッと横にひねった。
撃て——の合図だった。
エヴァは一瞬ためらった——。
それはほんの一瞬だったが、トゥキディデスに動く隙を与えてしまった。エヴァが引き鉄を絞ったとき、銃弾がとらえたのはトゥキディデスの左肩と左腕だけだった。強烈な銃撃音とともに左肩から腕が吹き飛んだ。だが、頭を吹き飛ばせなかったことで、トゥキディデスが反撃に転じた。
驚異的なジャンプ力で円卓を一気に飛び越える。
アッと思ったときには、トゥキディデスはエヴァの目の前に着地し、強烈な力でエヴァの銃をはじき飛ばした。肩にかけていたベルトがはずれて、機銃が床をすべっていく。
「ふ、その武器がなければなにもできまい」
トゥキディデスがエヴァを睨みつける。その目はすでに人間のものとは思えないほどつりあがり、口元はこめかみ近くまで裂けている。そしてその足は獣のようだ。
「ミス・スピロ、お見事なお手並みだ。だが、だからと言って、わたしがおまえたち人間ごときに簡単にやられると思うな」
『トゥキディデスの悪魔』は背後にいるスピロにむかって叫んだ。
スピロはこちらに心配そうな目をむけていたが、ほかの賢人たちは正体を現したトゥキディデスに呆然として、ただ立ち尽くしているだけだった。
「エヴァ様をどうするつもりです?」
「スピロ、おまえはこの女がいなければ、なにもできまい。おまえには特別な能力などなにもないからな」
スピロがぐっと唇を噛みしめるのが見えた。
なぜ言い返さない——。
エヴァは目の前に対峙している『悪魔』より、スピロのその態度に心とらわれた。
「おまえたち能力者がおれたちの正体を感じるのとおなじように、おれたちもおまえたちの正体を感じることができる。目の前のこのおんなには『能力』の臭いを感じられるが、ミス・スピロ、あんたからはなんにも感じない——。『能力』の臭いをなにも感じないのだよ」
が、すぐに顔をあげると、トゥキディデスの悪魔をにらみつけた。
「なぜ、ターゲットを変えたのですか?。タルディス様からセイ様に……」
トゥキディデスの悪魔は奥の寝室を指さしていった。
「あたりまえだろう?。本来のわたしの任務はそこにいるタルディスを優勝させないこと。だが無名の選手のくだらぬ未練など取るに足らない仕事だ。だが、そこにおまえたちが現れた。だから退屈しのぎに邪魔してやることにした……が、どうだ、とんだ大物が現れた——」
「セイさんのことですね?」
エヴァはトゥキディデスの悪魔に言った。
「あぁ、そうだ。わたしには過ぎた『獲物』だ。だが、これほどの『悪運』に恵まれるとは『魔王の思し召し』だと考えた。だからあのセイを葬る作戦に変えたのだ」
「本当はとっくにタルディス様の未練は晴らされていたのでしょう?」
スピロが強い口調でトゥキディデスの悪魔に問うた。
「察しがいいな。そもそもあの男タルディスの未練は、最終日の表彰式で戴冠して晴らされるものだ。だからわたしはそこにつけこんだ。タルディスの口から違う願いを言わせることで、あたかも『未練』が書き換えられたように思わせたのだよ」
「ウソをつかせただけ……ですか。やられました。みごとな視線誘導です」