第154話 トゥキディデスの弁明2
「スピロさん。さきほどから、あなたは自分が勝手に間違えたにもかかわらず、わたしになにか責任があるかのように言っている。どういうことかね?」
トゥキディデスが不満げに言った。
「いいえ。わたしの勝手な思い込みです。あなたがここにいるのは、27年間にも及んだペロポネソス戦争のすべてを描いた『戦史』の最終巻を売り込みにきた、と思い込んでいたのです」
スピロがそう煽るように言うと、ソクラテスがいたわるように言った。
「そうか。ついに書き上がったのじゃな。たしかアテネ海軍のシチリア遠征の失敗のあとまでしか書かれておらんかったからな」
「えぇ。どうやら、『新作』が書き上がったようなのです」
そうスピロが肯定すると、ソクラテスはトゥキディデスの肩に手をやって言った。
「じゃが、アテナイの裏切りものだったアルキビアデスの活躍や凱旋、総司令への就任など、そなたは書きたくなかったのではないかな……」
トゥキディデスはソクラテスの問いかけに答えようとしなかった。
「トゥキディデス様、どうなのです?。著書のなかでデマゴーグであるクレオンを排斥しようとしたほどですから、おなじデマゴーグであるアルキビアデスを英雄として描くことには、すくなからず抵抗があったのではないですか?」
「それとも、アルキビアデスは別ですか?」
「な、なにを言う。あの男のせいでアテナイが力をうしなったのはたしかなのだ。あの男を許すことなどできるはずがない」
「では、アルキビアデスの凱旋を描くなど、とても耐えられなかったのではないですか?」
スピロがトゥキディデスに詰め寄った。すると援護とばかり、アリストパネスがスピロにむかって声高に叫んだ。
「ミス・スピロ。トゥキディデスは歴史の記述を通して、なにがただしいかを人々に知らしめようとする高潔な男なのだよ。このわたしが喜劇を通して、人々を啓蒙するようにネ。そんな男がアルキビアデスの栄光を、気持ちよく描けようはずがないと思うがネ」
その剣幕に気圧されたようにスピロは、頭を垂れ、トゥキディデスに詫びをいれた。
「トゥキディデス様、たいへん申し訳ありませんでした。あなたのように、なによりも正確を重んじる『歴史家』が、自分の好き嫌いで、記述に曇りが生じるなど、あるはずもないのに、失礼な物言いをしてしまいました」
トゥキディデスはスピロの謝罪に、気にするなというように手をふった。スピロはそのジェスチャーをみて言った。
「では、アルキビアデスの凱旋も、さぞや史料を吟味して、客観的につとめて記述されたのでしょうね」
トゥキディデスが気がなさそうに頷いた。
「あぁ、そうだな」