第152話 セイの胸に怒りがこみあげてきた
「さあ、急いでください」
老練の御者がセイを促した。
セイは無言で二人に頷くと、手綱をうちふるった。
二台の戦車のあいだをゆっくりとセイの戦車がすりぬけていく。しだいに歓声が高まっていくのが聞こえてきた。おそらく観客席からは先行する戦車を、セイが追い抜いていっているように見えるのだろう。
今度はさらに前の二台があけてくれた隙間に、自分の戦車を通り抜けさせていく。その途中でその戦車の御者をかいま見た。右側の卸者は体がやたら細い男であった。病気なのではと思うほど頬がこけている。左側の卸者はとても若い男だった。見た目だけでいうなら、セイとほとんど変わらないようにすら感じられる。
馬があいだを通り抜け、戦車が横に並んでいく。両側の業者たちの顔が、手を伸ばせ届くほどの近さに近づいてくる。ふたりの御者はさきほどとは違い、声をかけてはこなかった。が、左の若い御者がセイの方へ笑顔を投げかけてきた。
セイはいたたまれない気持ちになった。
誰もがこの四年間必死で、このオリンピックのために猛烈な訓練を積んできたはずだ。力及ばずともここまで身につけてきた自分の力を、思う存分にふるいたかったに違いない。いや、もし優勝の栄光を勝ち取ることができたら、奴隷から解放され、自由と希望の日々へ一歩踏む出すことができたかもしれない。
だが主人のアルキビアデスの命令は絶対だ。
そしてその命令をくだすことになったのは、タルディスへ囁いた悪魔のひと言が原因だ。
かれらの希望を悪魔が囁きひとつですべて無為にした——。
この大会で、セイが……、自分が優勝しなければならないなどという、ふざけた条件を、タルディスに吹きこんだがために、この人たちはもう二度とこないかもしれないチャンスを、見も知らぬ自分のために譲らねばならないのだ。
こんなに理不尽な話はないだろう。
セイの胸に怒りがこみあげてきた。
弱い立場の人に苦しみをしいようとする悪魔に……。そしてそれに対して、打つ手がない自分に対して……。セイはぐっと下唇をかみしめて、若い卸者と細身の卸者の戦車の間をゆっくりと通り抜けていった。
口をひきむすんでなければ、感情が爆発してしまいそうだった。
だがいまは我慢の時だ——。
それは絶対だとわかっていた。ここで自分が感情に流されれば、今までやってきたことが水泡に帰す。なによりも現世のジョー・デレクの魂を救うことができなくなる。
だからいまは我慢の時……。今は——。