第146話 ヒポクラテスの弁明3
「なぜなら『危険な患者の病気に感染して死なない』ことは、名医の条件のひとつだったからですよね」
その残酷なことばに、ヒポクラテスの顔が引きつったように見えた。
「スピロさん。いくらなんでも侮辱がすぎます」
プラトンが我慢ならない、とばかりに横から声を挟んできた。スピロは反論してきたのがプラトンであったことに驚いたと同時に、腹が立った。
「プラトン様、あなただけは、わたしをとやかく言う資格はありませんよ」
「わたしだけは……?。どういうことです?」
「あなたとヒポクラテス様は資性的に医療観があまりにちがいます。あなたは自著『国家』のなかで、病気に付き添う流儀の医者を否定しています」
「病気に寄り添うなということかね?」
ヒポクラテスが驚きを素直に口にした。
「えぇ。プラトン様は自著でそう述べています。善き秩序のある国では、怪我や局部的な病気は仕方がなくとも、一生治療が必要な病人は当人にも国にも役に立たない者なのだから、治療をほどこす必要はない、と……」
「なんと、プラトン。それはちがう。医術とは病人から病患を除去し、その苦痛を減じることだ。もっともらしい理論や学説を頼りにおこなうものではなく、実地におこなった行為から理論や学説を導きだしていくものなのだ。さらに言うなら……」
ヒポクラテスは怒りにも似た情熱で、プラトンを懸命に説諭していた。その迫力におされて、さすがのプラトンがおもわず後ずさりしかかっている。
スピロはそれ以上聞く必要はなかった。
あぁ、この男はほんとうに心の底からの医者なのだ——。
スピロはヒポクラテスに真摯な目をむけた。
「ヒポクラテス様!」
ヒポクラテスの弁舌を腰折れさせるほどに強く名前を呼んだ。ヒポクラテスがおどろいてふりむいた。
「今、わたくしはあなたがほんとうに偉大な医者であったことを確信できました。いままでの非礼をお許しください」
スピロはこころからの謝意をしめした。
「あなたの功績は『病気』を緻密で客観的な臨床姿勢から科学的に対処しようとしたこと』と言われています。それまでの無経験からくる畏怖から、病気を神懸かりにしてきた、妖術師、祈とう師、山師のたぐいを排除した——。ですが、それだけではありません……」
スピロはソクラテスとプラトンを真正面から見据えて続けた。
「ヒポクラテス様のもっとも特筆すべき功績は、実は医学を哲学から分離したことなのです。しかもこのソクラテスとプラトンの時代に……」