第145話 ヒポクラテスの弁明2
スピロに顔を近づけられたヒポクラテスが叫ぶ。
「それがなぜ、わたしに関係がある?」
「関係がある……?。いえ、関係がないから不自然なのです。こういう推理はなりたちませんか。あなたの『ヒポクラテス全集』から『アテナイの疾病』の記述がまるごと抜け落ちているのは、ペリクレスの診察をしたことで、アルキビアデスとのつながりができたことを知られまいとしたと……」
「そうなのか?」
おもわずトゥキディデスが呟いた。まるでスピロの推理は破綻がなく、歴史学者をも受け入れさせたような印象をみなに与えた。全員がヒポクラテスに目をむける。
「いや、トゥキディデス。ちがう」
ヒポクラテスは否定したが、トゥキディデスは呟くように続けた、
「だが、そなたがもしあのときアテナイに赴いたというのなら、アテナイの最重要人物であるペリクレスを診なかったはずはない。そしてアルキビアデスにも当然会ったはずだ。あの男は養子であったとはいえ、十五年もの間、彼の息子であったのだから……」
トゥキディデスの説明は完璧だった。スピロはそれをうけてヒポクラテスに言った。
「そうなのです。でもヒポクラテス様はアルキビアデスを知らないという。となれば、やはりヒポクラテス様は『アテナイの疾病』で人々が死んでいくなか、アテナイに足を踏み入れなかったということです」
ソクラテスがはたと膝をうって立ちあがった。
「いや、待て、思い出した。たしかアテナイがヒポクラテスに感謝の決議をしたはずじゃ。。これは史料の裏付けはある……」
「はい、ソクラテス様、もちろん存じています。ヒポクラテス様が弟子たちを各地に派遣したことに関する感謝の決議。たしかにアテナイに残されています」
「ならば……」
「ですが、そこにもヒポクラテス様自身が診察したという記述はないのですよ」
ヒポクラテスがスピロを睨みつけた。
「だったらどうだと言うのです。わたしが良い医者ではなかったと責めるのですか?」
スピロはヒポクラテスの鋭い視線に首をかしげた。
「責める?。なぜそんなことを。だってあなたはまぎれもなく『名医』ですから……」
あまりにも明け透けな褒め言葉に、ふいうちをくらってヒポクラテスが唖然とした顔になった。
「あなたの記した『警句』にこうあります。『良いことをするか、できなければ少なくとも悪いことはするな』と。また『薬で治せない病気は刃物で治せる。刃物で治せない病気も火で治せる。火でも治せない病気はお手上げである』とも……。そう、『アテナイの疾病』は『お手上げ』だったのですよね。だからあなたはアテナイに近づかなかった」
スピロはもっとも残酷に聞こえるように声を細めた。
「なぜなら『危険な患者の病気に感染して死なない』ことは、名医の条件のひとつだったからですよね」