第126話 ヒポクラテスとの問答3
「もうひとつの『謎』は、ヒポクラテス様、あなたに関することです」
スピロはヒポクラテスを真正面から見すえて言った。
「それはヒポクラテス様、あなたの残した膨大な書物『ヒポクラテス全集』の中に、この『アテナイの疾病』が一切でてこないということなのです。不思議ではありませんか?」
「それはたしかにおかしいな」
ヒポクラテスより先にトゥキディデスが声をあげた。
「わたしとヒポクラテスはほぼ同年代だから、『アテナイの疾病』がおきた時は、まだ30歳代の働き盛りだったはずだ。ギリシアの者でこの惨事を知らない者などいないし、医学を志した者ならそれに言及しないなど考えられない」
「そうなのです。経験と記載を重視しておられるヒポクラテス様がこのような希有な災厄に遭遇して、診察をしないなどは考えられません。ましてや『二度なし現象』など、研究対象になりうる事例が報告されているとなればなおさらです」
「たまたまヒポクラテスの耳にこの疾病の話が届かなかったのではないかな?」
今度はヒポクラテスの代わりにソクラテスが擁護してきた。
「そういう説もあります。ですが、ヒポクラテス様の弟子にあたる医者や看護師は、現地に赴き、おおくの人々が命を落としています。疾病が終息するまでヒポクラテス様が知らなかった、とは思えません」
「現地が遠くて行けなかったのではないのですか?」
プラトンがおずおずと意見を述べると、即座にソクラテスが否定した。
「そんなわけないじゃろう。当時ヒポクラテスが住んでおったテッサリアとアテナイはそんなに遠く離れておらんわ。それに親友のデモクリトスが病気と知らされたときには、コスからアブドラまで急行しているのじゃ。テッサリアとアテナイ間の二倍の距離をな」
「ですよね。なのに、ヒポクラテス様は、病気が蔓延するアテナイに足を踏み入れようとしなかった。なぜです?」
すると今度はアリストパネスまでもが加勢にくわわってきた。
「スピロさん。あなたが言う『ヒポクラテス全集』から、『アテナイの疾病』の記述部分だけが抜け落ちたのではないかね。わたしの戯曲もずいぶん残欠があって、残っていないと言っていたではないかね」
「そういう説もあります。全集の編集時に抜け落ちたのではないか、という……。ですが、これだけの厄災、その部分だけがすっぽり抜け落ちるものでしょうか?。もしそれを割愛したとしたら、割愛しなければならない理由があったのではないですか?。たとえば、ヒポクラテス様、あなたにとって、いえヒポクラテス派にとって知られたくないことが……」