第122話 折り返し点をまわれ
セイの位置取りはやや後方となった。
みずから狙ったわけではなく、ほかの御者たちの駆け引きに巻き込まれ、流れにまかせていたらそうなったというところだ。
横に一台の戦車が並び、うしろではおそらく五台ほどの戦車が前を伺っているようだった。最初の折り返し点が見えてくる。右側の観客席のほうへ一瞬目をむけると、タラクシッポスの祭壇が確認できた。と、並走していた戦車の御者も、祭壇のほうへ目をやったのが見えた。
やはりみな恐怖しているのだろうな——。
セイはスピロから科学的に合点のいく説明を受けていたが、この時代の人々はこころの底から『呪い』を信じていただろう。得体のしれない恐怖に飲み込まれて、パニックから事故を起こした人も少なからずいたはずだ。
セイの馬車が折り返し点にさしかかる。
正面の観客席がどんどん近づいてくる。思ったより近く感じられ、そちらに一瞬吸い寄せられて飛び込んでしまうのでは、という気にとらわれる。その群衆のなかにマリアがいるのが見えた。マリアは誰か背の高い人に肩車をしてもらっているらしかった。マリアが手をふる。
セイは内側の馬の手綱をひきしめ、外側の馬はゆるめて、からだをいくぶん内側に傾けながら、折り返し点を曲がろうとした。だが御者台にはなんの緩衝材もなく、地面の凹凸の振動をじかに受けるため、バランスが安定しない。
『くっ。外側にひっぱられる——』
と、そのとき、戦車が突然内側にすっと動いた。引っ張られるという力ではなく、遠心力で外側にむかった車体の脇に、なにか見えない壁のようなものが現れ、それに車体が沿うたという印象。
その反動で結果的に真横に動いたような感触になった。
すぐにマリアの仕事だとわかった。
マリア、いいぞ——。
セイは心のなかで呟いた。これでまず一回目の折り返しはうまくいった。
だが後続の戦車も折り返し点を曲がりおえ、セイの戦車のうしろに続く。どうやら最初の折り返し点は、すべての戦車が無事に通り抜けたらしかった。だが、うしろから追い上げてくる戦車のことを気にしている余裕はない。
手綱を打ち振り、セイは直線コースで速度をあげていく。
やがて目の前に次の折り返し点が迫ってきた。
セイは折り返し点にさしかかってきたところで、ぐっと手綱に力をいれた。今度は真ん中の二頭の馬ではなく、外側の二頭の引き馬の内側の一頭の手綱のテンションだけを強めた。
一番内側の一頭がすこし速度を落とし、外側の馬が先行する形で、折り返し点に突っ込んでいった。
ゾーイ、浮かせろ!——。
セイがこころのなかでそう叫んだとき、外側の車輪がふっと浮いて戦車が斜めに傾いだ。激しく揺れる振動は一瞬おさまる。セイはその瞬間をとらえて内輪側に移動すると、戦車のサイドの柵から身を乗り出すようにして体重をかけた。わずかに浮いていた外輪がさらに持ち上がる。
そのままひっくり返るのでは、と思うほどの傾斜。観衆たちからどよめきがあがる。
ハングオンだ!、ゾーイ、頼む。
『セイさん、まかせておくれよ』とゾーイが請け負う声が頭に響く。
セイが体重をかけ戦車は片輪になったが、その内輪を支点にして、四頭の馬がきれいなカーブを描いて曲がっていく。見たことのない鮮やかなコーナーリングに、観衆たちのどよめきが、感嘆の色を帯びてさらにもう一段階大きくなる。
コーナーを回り切ったところで、ゾーイがいる観客席の場所がわかった。
ゾーイの姿は人の壁に埋もれて見えなかったが、そのすぐ上空に紫色したすこし晴れやかな雲が逆巻いていた。こちらに未練の力を送り込んでいる証拠だ。
2周目——。残り11周。