第118話 怪鳥ハリュピュイアのごとく
ゲートの準備が整うと競馬場に一瞬にして静けさが舞い降りてきた。
スタートの瞬間を固唾を飲んで見守る観衆たちは、みな三角形の形をしたスタートゲート『アフェシス』の先端を見つめていた。
この先端の標柱に設置されていた青銅のイルカの飾りが下に落ちて、三角形のゲートの中心部にある祭壇の上に鷲の飾りが飛び上がるとスタートの合図だからだ。
審判席で審判長がたちあがり、その手のなかにあるハンカチを高々とあげる。
数万人もの人々の緊張がその一枚の布に一気に集中する——。
審判長の手からハンカチが落ちた。
係員がただちにレバーを引くと、イルカが下に落ち、鷲が頭を起こしたのを合図に、パタパタとアフェシスが動き出した。ブロンズのラッパの響きとともにゲートが順番に開いていく。それはまさに巨大な仕掛け時計のようだった。
ゼンマイ仕掛けの留め金が外れ、待機する四十台の戦車が後方の両端のゲートから、一度に二台づつ次々と飛び出していく。
かつての詩人たちが比喩で、『槍のように』や『怪鳥ハリュピュイアのごとく敏捷で』と例えられる圧巻の光景だった。
セイはその瞬間をゲートのなかで待っていた。うしろのほうから馬の駆ける足音が次第に近づいてくるのがわかる。戦車同士を仕切る枠の横の板が震え始める。馬の脚が地面を蹴る振動が徐々に近づき、そして何台も多層的に音が重なりはじめる。
セイは正面をみた。
仕切られたブースの正面には停止綱が張られていたが、その先にあるトラックの光景は見通すことができた。ゴゴゴゴという地鳴りがすぐそばまで迫ってきていた。
その瞬間、目の前の停止網が下に落ちた。
手綱を振り叩く。
四頭の馬が地を蹴りだし、戦車がすごい加速でブースを飛び出す。
その瞬間、左側からとてつもなく威圧感のある轟音が、一気にセイに襲いかかってきた。セイはその方向にちらりと視線をくれた。
そこに横一線に広がって、走る十輛以上の『戦車』の姿があった。もうもうとした砂ぼこりを巻きあげ、数十頭もの馬の脚が地面を蹴りつけながら走っていく。馬は荒い鼻息でよだれを垂れながし、興奮を剥き出しにしていたが、御者はそれを落ち着かせようともせず、逆に鞭をいれる者すらあった。
車輪は馬の足音に負けじとカタカタと乾いた音を響かせ、どこかの馬具がカチャカチャと耳障りな高音を辺り構わずまき散らしていた。