第109話 勝つために卑劣な手を使わないことを誓う
太陽が真上にあがるころになると、競馬場は観衆ですずなりになっていた。
石段の観客席や巨大なオベリスクがあったローマの壮大な競馬場とは違い、競馬場は自然を最大限生かしていた簡素な造りだった。騒々しい観客は傾斜の急な芝の土手に立ち、観客席とトラックを隔てるのは最前列に設えられた、壊れそうな木の柵だけであった。
長さ580メートル、幅64メートルのトラックは、のちのローマ帝国時代のように両側のトラックを完全に分断する豪壮な分離帯が築かれてはおらず、両端の折り返し地点に標柱が一本づつ立っているだけだった。
柱の上には戦車競争の神『ペロプス』に」冠を捧げる妻『ヒッポダメイア』のブロンズ像が乗っており、戦車の衝突に耐えるほどの強固な作りになっていた。標柱と標柱のあいだには祭壇や捧げ物、彫像が並べられ、過去の勝者と悲劇を記念した小さな戦車や車輪が数えきれないほど並べられていた。
人々がわれさきに場所とりにいそしんでいる時、評議会場で、プロテレイアという大掛かりな供犠が営まれていた。
ここではまず審判団が公正な審判をおこなうことを宣誓し、出場する馬と選手たちを厳密に審査した。
選手たちが審査をうける暗い小部屋の中央には松明があり、選手が顔をあげると、正面に厳粛な顔をして審判たちが並んでいる。
そのうしろに『ゼウス・ホルキオス(誓いの神ゼウス)』の像がそびえてたっていた。ゼウスの両手に握りしめられた銀色の稲妻は、パウサニアスにして『邪悪な者は恐怖で心臓を突き刺されるかのようだ』と形容されるほどの威容に寄与していた。
その神の像の足元には生け贄の豚から切り取ったばかりの、肉汁や値がしたたり落ちる分厚い肉の塊が捧げられている。
その横にある石板には、『偽りの宣誓をしたものは打ちのめされて灰になる』と刻まれていた。ゼウスの前の階段に進み宣誓する瞬間を選手たちは一生忘れたなかったはずだ。
彼らは勝つために卑劣な手を使わないことを誓う。
そして、魔術を使わないことを誓う。
続けて審判もゼウスの前へ進みでて、おなじように誓った。
公正な審判を下して、選手の秘密を漏らさないことを——。
その誓いの儀式が終わると、選手と馬たちは競馬場へとむかい、いよいよレースがはじめることになる。
審判席は北側の丘の西の端にあった。すぐうしろはスタディオンの土手で、紫色のローブを着た審判員たちはそこから入場してきた。十人の審判員が横並びで土手の上に姿を現すと、観衆たちの興奮が歓声となっておおきく広がった。審判員たちはその喧騒を自分の身に感じながら、順番にゴール脇にある専用ボックス席に座っていった。
まずは子馬の二頭立て戦車による競争からはじまった。これは二大会前から導入された新しい競技で48スタディオン(9216m)を走るものだった。ホメロスの時代では、実際の戦争でも使われた二頭立て戦車を、競争用として復活させたものだった。だが、年齢制限なしの馬が競う四頭立ての戦車と比べると迫力に欠け、あまり人気はあがらなかった。
だが、人々はメインレースになる四頭立ての戦車をすこしでも良い席で観戦しようと、はやくから場所取りしているため、当然、この少々退屈なレースにも付き合わざるを得なかった。それでも賭けの対象にしている人々が、力のこもった応援をしていたので、次第に盛りあがりはじめた。
そして、いよいよ、セイが出場するメインレース四頭立ての戦車の開始時間となった。