第106話 戦車競争の『選手』は選ばれし者
やがて白々と空が明るみはじめると、今度は競馬場は様相を一転させはじめる。
今度は華やかに着飾った貴族たちがあいさつを交わし、使節や外国の高官も極上の盛装で集まってくるようになる。貴族に帯同した高級娼婦は美しさに磨きをかけ、高価なシルクの服をまとい、きらびやかな宝石を身に付けていた。たちまち競馬場はファッションショーさながらの様子をみせはじめた。
このレースでは御者ではなく、馬と戦車の持ち主が勝者になる。それは全ギリシアに名前を轟かせる栄誉であったため、参加する『選手』はその瞬間のために、持ちうる贅をつくして備えていた。
ただ、持ち主として戦車競走に参加することは、誰もができることではなかった。それが四頭立ての戦車であればなおさらだった。
まず馬の飼育のための広い広場、寝るための馬小屋、飼育員は必須であったし、馬主が戦車に乗るのでなければ専任の御者、そして獣医も必要だった。
戦車の製作と維持にかかる費用も相当なものであっただろうし、専門的なトレーナーを置いているところは、さらに費用がかさんだ。
持ち主はレースが開催されるたびに、船の輸送をおこなう派遣団を組織しなければならなかった。四頭立てであっても常に補充の馬も用意し、飼料のストック、車の予備部品も運ばねばならない。このときは御者や飼育員のほかに、馬を戦車につなぐことに長けた皮細工師、賄いのためのコックなども一緒に乗船する。
最寄りの港から競技場まで輸送する荷馬車、宿泊用のテント、寝具、料理の食材、調理道具ももちろん必要で、レースごとに膨大な費用がかかった。
そしてなによりも、戦車所有者のライバルたちとのつきあいのための、交際費もすくないものではなかった。
古代オリンピックにおいて、戦車競争の『選手』は、別の意味でも選ばれし者しか参加できない競技だった——。
アスコット競馬が社交場とされる何千年も昔から、競馬とファッションは切り離せない——。
ゾーイはその様子をみながら、ひとりごちた。
ゾーイはセイとふたりで早朝から馬たちの元へやってくると、遮眼革』を作成して、馬たちの顔に取り付けていた。この時代にないものだけに、ほかのポリスの御者たちがなにをしているのかと、興味深そうに見ていたが、それに構っている余裕は、ゾーイにもセイにもない。
「セイさん、記憶を頼りにエヴァさんに召喚してもらったけどねぇ、ちょっと派手すぎるんじゃないかい」
「いや、心配ないさ。馬たちも嫌がっている様子もないし……」
「スピロがこれが必要だと言うし、それのためにマリアに秘策を授けたってことだから、それに賭けるさ。ところでゾーイはなにかスピロから特別に言われたことはないのかい」
ゾーイはおおきく肩をすくめてみせた。
大袈裟かと思えるジェスチャーになったが、実際それくらいの気持ちがこもるほど、なにも授けられなかったのも確かだった。