第100話 徳にせよ悪徳にせよ彼に勝る者はいない
そんなエヴァの様子を横目に見ながら、スピロはいくぶん声色を落としてから続けた。
「彼は弁舌の才能にも長けていて、他者を言い負かしたり、民衆を扇動することにも優れていました。その実力で彼は若くして政治家となり、そしてアテナイ軍の司令官にまで昇りつめるのです」
スピロはそう語ったかと思うと、眉をゆがめて唾棄するように言い放った。
「ですが……。アルキビアデスは将軍として遠征に赴きながら、祖国アテナイを敵国スパルタに売ったのです」
「お姉さま、おかしくないかい。そんなヤツが人徳も優れてたっていうのは?」
「いいえ。アルキビアデスは『徳にせよ悪徳にせよ彼に勝る者はいない』と言われています。むしろ『悪徳』において卓越していた……というべきでしょう」
質問したゾーイが合点するように頷いた。
「彼はペロポネソス戦争で、アテナイとスパルタの講和が結ばれようとしたとき、主戦論を主張して戦争を再開させ、総司令官として無謀きわまりないシチリア遠征を強行しました。ところが、ヘルメス神の柱像を破壊した容疑と、神への祭儀を冒涜した嫌疑がかけられると、彼は敵国スパルタに亡命し、アテナイの内部情報を流して対抗方法を伝授したのです」
「それでどうなったんだい、スピロ」とセイが先を促した。
「精鋭部隊数万人と軍艦三百隻をうしない、アテナイは再起不能となって、最終的にペロポネソス戦争での敗戦へとつながっていきました」
「なるほど、あのとき、アルキビアデスさんが現れたとたん、みんなの態度が変わったのはそういうことなのか……」
セイがあのときスタディオンを包んだ不穏な空気を思い出しながら言った。
「いずれにしても『戦車競争』に出場するからには、戦車の御し方を練習しなければなりません」
「大丈夫だよ、スピロ。今回こそ未練の力が使えるはずだ」
「そう簡単にはいかないのです」
「簡単じゃない?」
「あなたがからだを休めている合間に、わたくしたちはセイ様を戦車競走で勝利させる方法を探るため、競馬場に行って参りました」」
そう言うとスピロはパピルスを机の上にひろげて簡単な絵を描いた。それは競馬場を簡易な形で示したもので、30cmものさしのような縦横比の横長の長方形。そのほぼ真ん中に点が打たれ、さらに一番右端部分にも点が打たれている。
「競馬場は全長1Kmほどで、トラックは約600メートル、幅は70メートル弱、スタディオンの三倍の距離を12周(約15キロメートル)するのがこの競技です。この競技の一番の難点は、180度で方向転換をしなければならない折り返し地点です。ここを回るのには高等なテクニックを要しますが、この折り返しを23回行わねばなりません」
「23回……」
とても不吉な番号のように感じて、思わずセイはその数字を口のなかで転がした。
「とくにここです」
スピロがそう言いながら、スタート地点とは反対側の端、奥のほうの点を指さした。
「この東側の折り返し点は数えれきれないほど事故が起きています」
「事故って……。じゃあボクはどうすればいい?」
「この世界で与えられるスーパーパワーを使えば、おそらくセイ様は戦車を造作もなく操れることでしょう。ですが、この折り返し点はそうはいきません。180度を折り返す文字通りのヘアピンカーブは、熟練した御者ですら手をやきます。ある大会では優勝した一台しか完走できなかった、というほどです」
「それは未練の力が使えても厳しそうだな。どうすればいいスピロ」
「はい。まずは今から競馬場に行って、馬の乗り方を練習をしにいきましょう。教えてくれる御者頭が待っているはずです」
スピロがそう提言すると、マリアとエヴァのほうにむかって声をかけた。
「マリア様、エヴァ様はどうされます?」
「スピロさん、そこにはアルキビアデス様はいらっしゃらないのでしょう?」
「おそらく……」
「じゃあ、ここに残っていますわ。タルディスさんの警護のためにね」
エヴァが警護の志願申し出た。スピロはマリアをみて「マリア様はどうなさいます?」と答えを促した。マリアはかったるげにセイのほうをちらりと見てから言った。
「オレもエヴァと一緒にここにいるよ……」
「服を着ているんじゃあ、興味ねぇからな」