第95話 この男こそが希代の人たらしアルキビアデス
「タルディスの容体はどんなものなのかね」
ふいにイアトレイアによく通る声が響いた。
自己嫌悪とともに、悪魔の正体に考えをめぐらせていたスピロは、その声につられて思わず顔をあげた。
耳をあたたかく包み込むような安心感のある太い声色、それでいながら思慮深さに裏打ちされたよどみない滑舌。一度耳にしただけで、人を惹きつける魅力のある声の主を目で追った。
その姿を目にしたとたん、スピロは一瞬、美の神が舞い降りたのかと錯覚した。ひと目見ただけでだれもが二度見せずにはいられない整った容姿。『知性』の鎧をまとい、そのうえから『品位』のベールを羽織っているかのような典雅な身のこなし——。
「おぉ、アルキビアデス」
ソクラテスが手を挙げてその男を呼んだ瞬間、スピロはハッとしておおきく目を見開いた。ふいに夢見心地から目が覚める。
アルキビアデス——?。
瞬時になにか不安な気持ちが胸にこみあげてくる。
アルキビアデスはソクラテスの姿を目にすると、うれしそうな顔ですぐに近寄っていった。プラトンは苦虫を潰したような顔でソクラテスのそばから離れ、トゥキディデスとアリストパネスは明らかな嫌悪感を顔に浮かべてから、横たわるタルディスの元にいった。顔を覗き込を装って顔を合わせないようにしているようだった。
近寄ってきた二人に気づいて、タルディスを診察していたヒポクラテスが顔をあげたが、アルキビアデスの姿を認めると、こちらも治療に専念している風を装いはじめた。
だが、スピロはただただ驚いていた。
アルキビアデスのすぐ横にセイがいる——。
どういうこと——?。
スピロの頭のなかに、大量の疑問符が一斉投入された。なにかがおかしい、と直感したが、なにが、どう、どうしておかしいのかわからない。
疑問符の束がスピロの脳のなかで徐々に、『知恵の輪』のように絡み合いはじめた。だが考えれば考えるほど、容易にははずれそうもない形状につながっていく——。
そんな気分がせきあげてきて、気持ちだけが焦っていく。
「スピロさん、セイさんと一緒にいるあの殿方はどなたです?」
エヴァがスピロの思考を邪魔するように訊いてきた。
一瞬だけイラッとしたが、エヴァの声色にせがむようなニュアンスが感じられて、スピロははっとした。
エヴァがうっとりとした目でアルキビアデスを見つめていた。あの男はイアトレイアに現れるやいなや、エヴァを虜にしようとしている。
あたりまえだ。自分も惹きつけられそうになっているのだ。
この男こそが希代の人たらし、アルキビアデスという男なのだ——。