第69話 ボクシング開始!
タルディスはレスリング(パレ)に負けないほど、ボクシング(ビュクス)も強かった。
最初の相手の選手はすばしっこく、タルディスの繰り出すパンチから逃げまくってばかりでいた。古代ボクシングではリングのような囲いがないため、パンチを避けようと思えば、絶対にパンチが届かない間合いまで逃げることができた。タルディスはそうさせまいと、走っていってはパンチを出すが、それを避けるためさらに遠くへ逃げようとする。
時間が無制限でテン・カウントもないため、やみくもに拳をふりまわして暴れたあげく、両腕に力がはいらなくなり、逆襲をしかけられて負けてしまう試合もよくあった。相手の選手はおそらくそういう試合に持ち込もうとしていると思われた。
しかし彼があまりに中央から離れすぎたのが運の尽きだった。うしろに逃げようとしたところを、審判が杖で選手の膝のうしろを押さえて、それ以上下がらないように制止した。
彼が驚いて集中が切れたところをタルディスは見逃さなかった。足がとまってタルディスのパンチング・レンジ(射程距離)にはいった彼になすすべはなかった。
勝負は一瞬でついた。
観客たちは昨日のペンタスロンに続く、タルディスの活躍に胸のすく思いで声援を送っていたが、誰もが今日の主役が彼でないことを知っていた。
ロードス島のエウクレス——。
彼はネメア大祭・イストミア大祭・ピュティア大祭をも制するディフェンディング・チャンピオンだった。今回オリンピックを制することになれば、四大会制覇の称号『ペリオドニコス(周期の勝者)』の栄光を手にすると、誰もが期待をしていた。
だが、彼が注目の的だったのは強いというだけではなかった。彼の祖父、そして父親もオリンピックのボクシングで優勝しており、親子三代にわたっての優勝が果たされるのではというのが話題になっていた。
そしてなによりも、その血筋が人々の関心を集めていた。エウクレスの祖父はかの詩人ピンダロスによってその戦績を褒め称えられるほどの英雄で、全ギリシア的大祭を何度も制して、その威厳と栄光は神に等しいとされた英雄ディアゴラスだった。
12ベキュス(2メートル20センチ)の巨漢だった祖父の血を受け継ぎ、エウクレスも11ベキュス(2メートル)もある巨漢だった。あまりに圧倒的なパワーとディフェンディングで、相手に一切の反撃を許さず、常に自分が好きなときに試合を終らせることができると評判でもあった。
そして一回戦はまさにその通りになった。相手の若い選手は滾る思いを拳にこめて勇敢に立ち向かったが、パンチを二回ブロックされたあと、その剛腕一撃であっけなく倒された。彼は数メートル吹き飛ばされて、ぴくりとも動かなくなった。
だが、そのあとの試合は観衆たちの期待通りとはならなかった。
二回戦と三回戦は対戦相手が現れなかったからだ。ボクシングの対戦の組み合わせは、くじびきで決められるため、絶望的な組み合わせになった選手は直前で逃げることがよくあった ふたり続けて棄権が続いたことで、怒張した観客のボルテージは行き場をうしない、今にも爆発しそうになっていた。誰もがその興奮のはけ口を捜していた。
そしてその標的になったのは、決勝まで勝ち上がってきたタルディスだった。