第59話 トゥキディデスとの対話3
「トゥキディデスさん。アテナイを支配したスパルタは今でも憎いかい?」
ゾーイはふいうちとも言える会話の切り出しで、トゥキディデスの先手をとった。
「あぁ、憎いとも。だから昨日、スパルタのヒッポステネスをアテナイのタルディスが破って優勝したことがどれほどうれしかったことか」
その表情をゾーイがつぶさに確認した。感情をあらわにした瞬間に『悪魔の証』を晒すかもしれなかったからだ。
「ペロポネソス戦争に勝利したスパルタには傀儡の寡頭政権を押しつけられ、経済も破綻し、知識人も次々に粛正された。わたしも一度は参戦したのだ。憎んでも憎みきれんよ」
「でもスパルタは強かったんだろう?」
「あぁ、彼らは強かった。生まれたときから、その鍛えられ方は尋常ではないからね」
トゥキディデスがため息をついてから話を続けた。
「スパルタでは赤ん坊が生れると、厳しい検査があって、ひ弱な子供はタユゲトス山の中かアポテタイの淵から海へ投げ捨てられると聞いた。7歳で親元から引き離され、成年になるまで家畜並の扱いで、酷烈なまでの訓練を強いられ一流の兵士になるのだ」
トゥキディデスのスパルタへの思いが熱を帯びてくる。
「だがその兵士の性質は実に愚鈍で用心深い。ただ愚鈍と見えるのは、無用な知恵や芸を身につけず実践で自己鍛練にいそしんだ賜物、用心深く感じるのは己れを抑制する沈着な分別だけどね。
テルモビュライの戦いや、今回のペロポネソス戦争を持ち出すまでもなく、とても強固な国だよ」
「でも、そのスパルタはしばらくして、あっけなく滅んじまうんだよ……」
ゾーイはスピロに教えられたとおり、トゥキディデスに非情な事実をつきつけた。
トゥキディデスが一瞬、ことばに詰まる——。
が、すぐに達観したような口調で言った。
「それはどんな栄華を誇った国であっても最後はあるものだ。世の理りだよ」
そう言ったものの、トゥキディデスの興味は尽きないようだった。
「ところで……。その……、スパルタはどうして滅びたのかね。まさか、またペルシアと合いまみえたのかね、それともほかの都市に攻め込まれたのかね?」
ゾーイは苦笑いを浮かべて言った。
「まさか。スパルタは強さを求めるあまり、赤ん坊の選別を激化しすぎちまってねぇ、人口が激減してしまうのさぁ。最後は数百人ほどになって滅びちまったってさぁ」
トゥキディデスの息を飲む音が聞こえた。
「まさか……。そんな馬鹿げたことで、滅びたのか……」
「あぁ、ほんと嘘臭い話だろ。正気の沙汰じゃないねぇ」
トゥキディデスは力なく横に首をふって「信じられない」と呟いた。それは真の歴史家の矜持として、そのような話を鵜呑みにできない、ということなのか、案外にそんなものだという歴史の皮肉に合点がいったのかわからなかった。
「未来じゃあ、厳しい躾けのことを『スパルタ教育』と呼んでるけどさぁ、悲しいねぇ、もうそこに名を残すだけになってるんだよ」