第42話 タルディス活躍す
タルディスは確かに強かった。
目覚めたばかりのタルディスは自分が最終種目のレスリングで、ヒッポステネスと対峙していることに面くらっていた。おそろしい形相で睨みつけてくる相手と、周りから注がれるおそろしいほど熱い視線にとまどい、目があちこちに飛び移っていたので、それは間違いない。
だが、自分は無意識のなかで勝ち進んで、いまここにいるのだと思い直したのだろう。砂場をぐっと踏みしめた。とたんに目の色が変わったのがわかった。
夢にまでみた『ペンタスロン』の決勝の場に、今、立っている事実を受け入れた一種の『居直り』。「なぜ?」も「どうやって?」も、いまさらどうでもいいという、いい意味での『観念』のようなものが感じられた。
タルディスはただただ目の前のヒッポステネスに集中していた。
「自信にあふれている目だ」
セイは知らず知らず呟いた。
「あたりまえですわ。決勝戦なのですから」
エヴァが答えるともなく反応したが、スピロは強いことばで言った。
「自信にあふれてもらわなければ困ります。セイ様がからだを張ってもぎ取ったものなのですから」
一戦目は組み合った瞬間に決まったといってよかった。
まずはフェイントをかけて牽制しようとしたヒッポステネスは、タルディスに腕をとられたかと思うと、そのまま背中から地面に叩きつけられた。ヒッポステネスの体躯はふわりと宙に浮かされたかと思うと、そのまま地面に大の字になっていた。あまりのスピードに観衆はどよめくばかりで、観声をあげる余裕もなかった。
だが、二本目もあっという間で、しかも鮮やかだった。一本目を先取されたことに焦ったヒッポステネスが力づくで押さえつけようとしたところを、タルディスは体を入れ替える形で、そのまま自分の力へとしてヒッポステネスをひっくり返した。それを避けようとヒッポステネスは空中であがいた。だが、肩や背中への接地は避けられたが、腰が地面に落ちるのをとめることまではできなかった。
今度は機を逃さず、アテナイの市民やタルディスを応援している観衆が湧きたった。もう観客は興奮も高揚も押さえつける必要はなかった。これが本日の試合の最終決戦。体力も気力も使い果たしてやるといわんばかりの盛り上がりがそこにあった。
三戦目がはじまったとき、ヒッポステネスは息があがって肩が上下していた。スタディオン走の疲れが抜けきれてないところに、いいようにあしらわれ空回りさせられたのだから当然と言ってよかった。タルディスがしだいに自信にあふれ、落ちつき払ってきていただけに、その対比はあからさますぎるほどだった。
ヒッポステネスの顔を見ただけで、声を聞いただけで、体も心も萎縮させられた、あの気弱なタルディスはそこにはもういなかった。
だが、ヒッポステネスはなりふり構わず反則をしかけてきた。タルディスが足払いをしかけた瞬間、ヒッポステネスがその足を掴んだ。片脚になってバランスを崩したタルディスの首にヒッポステネスは肘打ちを打ち込んできた
続けざまの反則——。
観衆のなかから『反則だ』という声があがったが、審判はまるで示し合わせたように、それを無視した。
反則の足取りと、殴打によろめいたタルディスは、そのままフォールを決められた。
今度はヒッポステネスを応援する観衆たちのほうからおおきな声が湧き上がる。
またなにか、妖しげな力が働いているのはたしかだった。
セイは全員に聞こえるように言った。
「みんな備えてくれ。また何者かの手で不測の事態が起きようとしている」
「心配するな。オレはすでにそなえている」
マリアの自信にあふれた返事に上を見あげると、微女は右腕を天空にむけてつきあげているのがわかった。その手のひらには、すでに黒い稲妻がバチバチと光をはなちはじめていた。
「そんなものを使わせないで、勝ってもらいたいものですね」
スピロがじっと戦況を見つめたまま呟いた。
「タルディス様が自分で勝ったと実感してもらわねば、魂は昇華してくれないかもしれませんからね」
「お姉さま。大丈夫さぁ、タルディスの旦那はかならず勝ってくれますって」
ゾーイが力強い口調で言い切った。そのために精神力を削りに削って、タルディスを目覚めさせた。という自負もあるのだろう。
四本目が開始され二人が手を組み合った。
ヒッポステネスがタルディスの腕をとったが、タルディスは腰を落として投げられまいと身構える。ぐっと頭が沈む。だがその顔にむけてヒッポステネスが打撃まがいの手をくりだす。しかも、そのままタルディスの目に指を突っ込むような行動を起こした。タルディスはからくもその手をぐっと抑え込んで阻止した。
観衆がまたも叫ぶ。
「反則だ!!」
だが審判にはそれがまるで見えていない、すぐ脇で見守っているはずなのに何のアクションもおこそうとしない。
ヒッポステネスの顔がにやりとゆがんだ。