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ぼくらは前世の記憶にダイブして、世界の歴史を書き換える 〜サイコ・ダイバーズ 〜  作者: 多比良栄一
ダイブ4 古代オリンピックの巻 〜 ソクラテス・プラトン 編 〜
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第39話 スタートラインへ

「スタートラインへ」


 審判員が位置につくように合図をした。目の前に張られたスターティング・ゲートのロープにさらに強いテンションがかけられピンとまっすぐになる。

 選手たちがスタートラインに並びはじめると、会場を包む空気感が変わった。人々の願いや想いが詰まった、どうしようもなく避けがたいほどの圧力だ。


 それが優勝にリーチがかかったアテナイのタルディス、つまりセイにむけられたものか、大会連覇をもくろむ英雄ヒッポステネスへの逆転を願ったものかはわからない。もしかすると、ここでの一勝で優勝への望みをつなげられるほかの選手たちへの期待かもしれない。

 だが、ひりひりとする重圧感が、次第に選手たちの体を縛りつけようとしているのは確かだった。


「セイ様、いいですか?」

 スピロが耳元でセイに確認を求めてきた。

「たぶん会場がまた騒然とするよ」

「そうですわね。近代オリンピックの第一回大会とおなじようにね」

「でも、それで優勝できたんだったら、それを再現させるしかないね」


 セイは大きく息を吐くと体を沈みこませ、三枚のブロックで構成されたスターティング・ブロックの一番手前のブロックに足を乗せた。もう片方の足は一番奥のブロックの端の溝にしっかりとかける。そして両手を肩幅に広げ、手前の足と横並びになる位置にセットする。

 とたんに会場がざわついた。

 ほかの選手が立ったまま少し前にかがみ、両足をほぼ揃え、両腕を伸ばしてスタンバイしているのに、セイひとりだけがその場にしゃがみ込んでいたからだ。


「おい、あいつ何やってんだぁ」

「タルディス。今から走るんだぜ。なぁに座りこんでいるんだ」

「はは、腰でも抜けたのか!」

 会場のいたるところから野次が飛び交い始めた。さきほどまで選手に足枷(あしかせ)のようにまとわりついていた。あの張りつめた緊張感がしだいに薄れはじめる。


「スピロ、きさまの言うとおりになったな」

 あたりかまわずあがる観衆たちの大声を聞きながらマリアが言った。

「えぇ。それで構いません。第一回近代オリンピックでも、ほかの選手が従来の『スタンディング・スタート』で走り出すなか、金メダルをとった、トーマス・バークはただひとり、だれも見たことのない『クラウチング・スタート』をおこなったんです」


 審判員が手を挙げると一瞬にして観衆が静まりかえった。

 審判長がうなずいた。


「ポダ・バラ・ポダ(位置について)」

 伝令が号令をかけたのち、スタディオンに響き渡るほどの大声で叫んだ。

「アベテ!(スタート)」


 スタートの号令とともに、スターティング・ゲートのロープが地面に落ちた。

 それは群衆にとって歓喜の一瞬だった。


 が、その瞬間、セイのからだだけが弾丸のように飛びだしていた。他の選手が一歩目を踏みだした時には、セイはすでに三歩目を踏み込むところだった。


「速い!」


 プラトンが思わず叫んだ。

 大半の観衆も同じことを思ったはずだったが、あまりに唖然として声が口元にのぼってくることがなかった。

 セイは他の選手を完全に置き去りにしていた。

 スタンディング・スタート対クラウチング・スタート。

 2300年後におこなわれた『第一回近代オリンピック』の短距離走の決勝戦が、そこに再現されようとしていた。


 圧倒的な距離の差。

 我をわすれていた観衆は、ふいに声をとりもどした。

 観客の叫び声が雷のようにスタディオンの空気を切り裂き、周辺の野原にいる羊を驚かせる。

『いけぇ!、セイ』

 マリアの声が耳朶(じだ)を打つ。

『優秀しちゃってください。セイさん』

 エヴァも負けじと声を張りあげる。

 だが、スピロの声は悲鳴を思わせる、ヒステリックな警告だった。

『セイ様、ダメです。全力を出しすぎです!』


 セイはハッとした。

 スタートで誰も寄せつけないダッシュをものにした。

 そして渾身の力で腕をふり、脚を蹴り出し、おのれの上限いっぱいまでの全速力で駆けている。

 が、それが間違えていることに気づいた。


 これは100メートル走じゃない——。


 すでにセイは100メートルの位置を指し示す計測ボルトに届こうとしていた。

 これが100メートル走なら、完全にぶっちぎり優勝だ。


『あと100メートル、残ってます』


 セイはふいに体がずんと重たくなるのを感じた。

 地面から生えた見えない手が脚にからみついたかのように足取りが重たい。うまく足を前に繰りだせない。先ほどまで自分の背中を押していたはずの歓声が、今度は前から投げつけられる石飛礫(いしつぶて)のように感じられてきた。


 前へ!

 あとたった数十メートル!。


 目の前にゴール・プレートが迫ってくる。あと十数歩踏み出すだけでいい。それだけでこの勝負は終わりだ。

 が、その瞬間、すぐ右隣から風が吹いた——。気力を滅するような荒々しく狂暴な風。

 その風がセイの視界に入ってきた。


 ヒッポステネスだった。

 

 あのスタートの遅れを、致命的な差を、この土壇場で詰めてきたのだ。

 セイには横に目をむける余裕などなかった。あいかわらずマリアやエヴァたちの声援とも悲鳴ともつかない声が聞こえていたが、耳を傾ける気力もなかった。

 ただ、すぐ隣の脅威を感じとるしかなかった。感じとって感じとって、なんとかねじ伏せるしかなかった。

 

 セイがゴールラインのブロックを踏みこえた瞬間、会場のボルテージは未曾有(みぞう)の盛りあがりに(たけ)り狂っていた。

 セイはゴールを駆け抜けるやいなや、その場に転がるようにして倒れこんだ。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、酸素を欲した肺が、もがき苦しんでいた。頭が朦朧(もうろう)として、耳がキーンとなる。

 だが、かすんだ目で見あげた先に、こぶしを突きあげたヒッポステネスの姿があった。セイとおなじように背中で息をして、いまにも倒れそうだったが、それでも顔に勝者の誇りを歯を食いしばって浮かべていた。


『くそぉぉぉぉ』

 耳元でマリアの悔しさとも怒りともつかない嘆きの声が爆発した。


 その瞬間、セイは負けてはならない種目を落としてしまったことを知った。

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