第38話 なにがオリンピックだ。市内の運動会程度じゃないか
「セイ様。雄叫びをあげるほどではないですよ」
勝利に酔いしれているセイの耳元でスピロが、シビアな現実をつきつけてきた。
「7メートルは現在の高校生の平均値程度です。勝てたのは、あなたが数千年後の跳び方を知っていたこと、それに体格がほとんどのギリシア人よりも大きかったこと。それだけです」
「あぁ、わかっているさ。スピロ」
「でも、よく跳んでくれました」
スピロがセイの高揚を冷静かつ的確にクールダウンさせ、次の競技にむけて鼓舞させようとしているのがよくわかった。
だが、上からマリアの意地悪な声が飛込んでくる。
「よく言うぜ。こいつ、跳んだ瞬間、どれだけはしゃいでいたか見せたかったぜ、セイ。がっつりと『男』まるだしで、雄叫びをあげていたからな」
「マリア様。よしてください」
自分の勝利に全員が色めき立った様子がわかってきて、ついセイの口元も緩んだ。
だが、スピロは気を緩めようとしなかった。ある意味、これであとがなくなったことを。セイとおなじようにわかっているようだった。
「セイ様、勝って当たり前なのですからね。この当時のアテナイの人口は10万人、しかしそれらのほとんどは奴隷で、オリンピックの参加資格のある『市民』はそのうちのたったの1万人ちょっと。二番目のスパルタでも9000人程度です。さらにそのなかの成人男性だけとなれば、大騒ぎするほどの人数ではありません」
「おいおい、スピロ、最初から言っておけよ。なにが『オリンピック』だよ。こんなのちょっと大きな市内の運動会程度の規模じゃねぇか」
「まぁ、そう言ってしまえば、身もふたもありませんが……」
「なんですか、それは……。まったく現代のオリンピックと見劣りしない盛大な大会だから、さぞや多くの人が参加しているのだとばっかり思っていましたわ」
エヴァがすこしあきれたように言った。
「ですが、それでも精鋭ばかりです。幼い頃からたゆまぬ努力を重ねた者が、ここまできているのです。分母が少ないといって、侮ってはいけません」
スピロは自分自身に言い聞かせるように、強い口調で言った。
だが、マリアはとても楽観的な口調で、セイを励ましてきた。
「さぁ、次の『駆けっこ』でさっさと決めちまおうぜ」
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係員の指示でスタートブロックに集められた選手は上位の八人だけだった。
そこには槍投げで二位になっていたアルカディアのオイティメネスや、幅飛びで好記録をだしたテッサリアのキオニス。そしてもちろん優勝候補のヒッポステネスもいた。
上位八人だが、ヒッポステネスが一種目、タルディスつまりセイが二種目を勝ち取っているため、残りの者には後がない。セイが勝てば優勝が決定してしまうし、ヒッポステネスがとれば決勝への望みがなくなる。だがこの種目『スタディオン走』をとれば、すくなくとも最終種目のレスリングへ最後の望みを託せる。
スタート・ラインの前に立ったセイは、胸の高さにロープがピンと張られていることに気づいた。フライング防止のためと思われたが、ゴールではなくスタートラインにロープが張られていることに驚いた。
よく見るとロープの両端には固定された木のアームがあり、そのあいだにロープが渡たされていることがわかる。今はそのアーム部分が起立されていて、選手たちの胸元あたりの位置まであがって固定されている。
どういう構造か不思議に思ったが、うしろをふりむいたとたんに合点がいった。
両側の木のアームに渡されたロープは、自分たちの背後にも伸びていて係員がそれを引っぱっていた。つまり、スタートの合図とともに係員が手をはなすと、テンションがとけ、選手の目の前にあるロープが地面に落ちるという仕組みなのだ。
セイはつぎにそれぞれに割り振られたコースを確認した。
ヒッポステネスは真ん中寄りの5番、セイ=タルディスはその隣の4番目だった。
それぞれの選手たちは膝の屈伸をしたり、小刻みにその場で足踏みをしたりして、最後のウォーミングアップに余念がなかった。オリーブ油を塗り込んだ胸を力強くたたいて気合いをこめている選手もいる。
セイはそんな緊張感のある様子から目を背けるように、すぐ足元の地面を見た。
スタート・ラインには石灰岩でつくられたプレートが直線に並べられており、十五センチ幅ほどの石畳が2〜3センチほどの厚み分地面より浮きでていた。ラインというよりスターティング・ブロックというほうが正しそうだった。三枚のプレートで構成されたスターティング・ブロックの間には隙間があり、その溝につま先をかけてスタートするらしかった。
セイは反対側、西側にあるゴールラインを見つめた。そこもスタートと同様にブロックが埋め込まれているため、ほんのすこし地面から浮いている部分が見える。だが、セイにはその場所がやけに遠くに感じられた。
炎天の灼熱に地面が揺らめいてみえるせいだろうか。
「やけにゴールが遠く見えるな」
セイが呟くと、スピロが非難めいて言った。
「セイさん。あたりまえの話です。この『スタディオン走』は『1スタディオン』を走る競技ですよ」
「1スタディオン?。100メートルじゃないのかい」
「1スタディオンは約200メートルあります」
「200メートル?。なぜ、そんなに距離があるんだ?」
そう食い下がるにセイに、マリアが大声でどなってきた。
「セイ、そいつもまた『神話』だ。文句なら、自分の足の長さを使って、この場所の距離をきめたっていう『ヘラクレス』に言え!」
「ですが、あとひとつですわ、セイ様。絶対に落とさないでください。これに勝てさえすれば、タルディス様の『未練』が晴らされます」
スピロの哀願するような口調を聞いて、エヴァがそれに続いた。
「セイさん。この短距離走を落としたとしても、まだその次が残っています。あんまり気負わないようにしてくださいな」
エヴァはそれを打ち消すように、スピロの圧力を和らげるようなことばをかけてきた。気持ちはありがたかったが、セイにとって、それはむしろ重く感じるものだった。
「エヴァ、この種目……、短距離走を落とすことはできないんだ」
「あら、どうして?。セイさん」
「ぼくはレスリングなんてやったことない。タルディスさんの一番得意種目と言われても、古代ギリシア式のやり方はまったくわからないんだ。これまでの競技のようにスピードや知識やノウハウでどうなるものじゃない。技術やスキルがないと勝てない……」
セイは腹に力をこめて、不退転の気持ちをことばに乗せた。
「つまり、ぼくはこの短距離で勝利するしかない」
「セイ、おまえの百メートルの記録は?」
脇からマリアが聞いてきた。
「たしか高校一年の時で十二秒くらいだったけど……」
「ふむう。速くはねぇが、遅いわけでもねぇか」
「いえ、それで充分ですわ」
二人のやりとりにスピロがわってはいった。
「1896年から始まった近代オリンピックの、第一回大会の100メートルの優勝タイムは12秒ジャストでした。近代でも当時はその程度優勝できたのです」
「じゃあ、21世紀の高校生レベルの力でも、古代オリンピックなら勝てるかもしれないんですね」
「いや勝てるかも、じゃなくて勝てるだろ」
エヴァのことばにマリアがすぐさま反応した。
「ええ、たぶん。それにその時、金メダルをとったトム・バークという人は、ほかの誰もやらなかった走り方をして勝ったんです。それをつかえば勝てるはずです」
「ほかの誰もやらなかった走り方?」とエヴァが尋ねた。
「えぇ。今じゃあ、常識の走り方です」