第34話 円盤投げ決着!
その中でセイに最後の試技の順番がやってきた。
マリアがプラトンの肩の上から前に乗り出すようにして叫んだ。
「おい、なんとかして、さっきのヒッポステネスの記録を抜け!」
観衆たちから余裕の笑いと、蔑むような目がマリアのほうに向けられた。
マリアはかまわず続けざまに応援をしようとしたが、群衆から頭一つ抜きでていたはずのからだが下に沈んでいくのに気づいた。あまりの観衆の圧力にプラトンがたまらず、からだを折り曲げて、マリアの姿を群集の中に隠そうとしていた。
「プラトン、てめえ、なに勝手なことを!」
「マリアさん、あまり失礼なことを言うと、私どもも人々から叱責されます。ご勘弁を」
「セイは、いやタルディスは何とかしてくれる」
「そう言われましても、今、目の前で百年近く前の記録が大幅に更新されたのですよ」
「それでも応援するのが、オリンピックではないのですか?」
エヴァがあまりにも達観したようなもの言いをするプラトンに食ってかかった。だが、それを諌めるようにソクラテスが答えた。
「エヴァどの、我々もアテナイの市民じゃから、アテナイ代表のタルディスを応援したい。じゃが、今回はさすがに……のぅ……」
セイは円盤の緑に指をかけた。
最後の一投——。
バルビスに進み出る。だが、周りはざわついていた。まだ先ほどのヒッポステネスの新記録の興奮が醒めやらない。リズムを添える笛の奏者も、先ほどの一投で自分たちの役目が終ったとでも思っているのか、少々おざなりな吹き方になっている。
セイが円盤を構えると、とたんに野次が浴びせかけられてきた。
「どうせ勝てないんだ。無理して変な方向に投げンなよ」
「今度は人が死ぬぞぉ」
「次の走り幅跳びに力を残しとけぇ。ま、どうせ勝てないけどな」
セイはそんな野次には耳もかさず、風の向きに神経を研ぎ澄ませた。さきほどから風が強まっているのを感じた。向かい風——。
「はやく投げねぇと風が強くなるぞ」
「風が強くなりゃ、へんなとこに飛ばずにすむから助かるぜ」
バルビスで微動せずにいるセイを揶揄する声が聞こえたが、セイはその風を待っていた。
陸上部の友人が教えてくれたことばを、頭の隅々から片っ端から引っ張り出して反芻する。
『逆風の時のほうが揚力が働いて円盤は飛ぶんだよ——』
『投げる瞬間は肩の位置より10cm前が理想なんだ。肩よりもうしろで投げたら、高さも距離もでないからね——』
『スナップで回転を与えて、円盤を風に乗せるんだよ——』
セイは目を開くと、かなたに見える神殿の屋根の一点に集中した。
あの神殿が目印だ。
回転半径はおおきければおおきいほどいい——。セイは四本の指を均等に円盤に這わせると、大きく腕を伸ばしてからだを四分の三回転ひねった。
初速が大事——。セイがねじったからだを高速でねじ戻す。からだを回転させながら、軸足である左足を踏み出す。
ここがパワーポジション——。一番力がためこまれる瞬間。まるで弓弦を引き絞って静止した状態のような、すべての力が解き放たれる間際の一瞬。
と同時に、地面反力で上半身の力を、下半身に余すことなく伝える。地面を踏み抜かんばかりの力強いステップが、白い砂をはね上げ、コマの芯のように回転する。
下半身だけを前に前に先行させ、その捻りきった体躯の反動を上半身に伝える。その捻りが解放されると、両足が宙に浮いた。
目印の神殿の屋根が、目の端からすっと切りこんで見えてくる。ここが真後ろ。
角運動量(回転の勢い)を減じることなく、腕に、手に、指先に伝えていく。
「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
セイはのどが裂けんばかりの雄叫びとともに、指先が焦げそうなほどの摩擦を円盤に与えて、腕を振り抜くようにして円盤を射出した。
その時、四万の観衆は、見たこともない物体が羽をひろげているのを見た。
天空を滑空していくかのように高くまで伸びていく放物線——。
それがなにかわからなかったが、八万個の目はただただそれを追い続けた。
だれもがまばたきひとつできずにいた。
まるで時がとまり、そのなかでこの浮遊物だけが動いているかのようですらあった
ドンと音がして円盤が地面の砂をはね上げた。
誰もが夢を見ているかのように呆然とした面持ちで、荒々しく地面に舞い降りてきた物体を見つめていた。
「80キュービット(約三十六メートル)!」
審判が高らかに告げたが、競技場はただただ静まりかえっていた。
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「やっと、前に飛んだぁぁ……」
セイはかろうじて咽から絞り出した程度のか細い声でそう言うと、へなへなとその場にへたり込んだ。およそ勝者の姿には見えない。
そこへ大声で檄が飛んできた。
「おい、ちったぁ勝者らしくしろ!」
声の主はマリアだった。沈黙に包まれた競技場全体に響くような声。やけに耳に痛く響いた。セイは群衆の壁の上からひょっこり頭を覗かせているマリアにむけて、親指が立てて見せた。
それを見たマリアがさらになにか言いたげに口を開きかけた刹那——
競技場が瞬時に沸きたった。それまでの嘲りや怒号はその数倍の賞賛となって、セイが憑依しているタルディスの一身に土砂降りのごとく降り注いだ。
夢にまでみた記録更新を目のあたりにして興奮していた人々は、その数分後に今度は夢想だにしないほどの圧倒的な記録を見せつけられたのだ。
「セイさん、なんともすごい記録を出されましたこと。さすがです」
エヴァがセイの顔をのぞきこみながら褒めそやした。その横でプラトンとソクラテスは、ほかの観客と一緒に感情の高ぶりに身をまかせて、雄叫びのような声援をタルディスにむけて送っていた。
だがスピロは冷静に状況を見つめていた。
「セイ様、お見事です。ですが、これはたいした記録ではないことをお忘れなく」
「おい、スピロ。素直に喜べや」
「円盤投げの世界記録は70メートルをゆうに超えます。セイ様が投げたのはたかだか40メートルです」
「は!、厳しいヤツだな」
「投げ方がちがうのです。古代オリンピックは『力』で投げますが、近代オリンピックは『遠心力』と『揚力』で飛ばします。もっと圧倒的な飛距離の差があっても良いほどです」
「でも2400年前の人類に勝ちましたわ」
スピロの冷静な分析などどうでもいいとばかりにエヴァがはしゃぎ声をあげた。
「まだ一種目ですよ」
「わかってるさ。スピロ。あと2種目、勝って優勝しなきゃ、タルディスさんの『未練』を晴らせない」
セイは立ちあがると、観客にむかって手をあげて声援に応えた。こちらを睨みつけているヒッポステネスが、ちらりと目の端にはいったがセイはあえて無視した。トラウマがどこかに潜んで、こちらの目論見を潰そうと狙っているはずだ。
もしかしたらヒッポステネスがその悪魔かもしれない——。