第26話 タルディスは不意打ちを喰らわなければ強い男なのだ
「やられました!」
スピロが叫んだ。
「ちいっ、このタイミングってえのかい」
ゾーイが悔しそうに奥歯を噛みしめる。
マリアの心にその叫びが突き刺さった。自分が守らねばならなかったタルディスが衆人監視の前で被害にあったのだ。
タルディスは不意打ちを喰らわなければ強い男なのだ——。
それなのに、不覚にも、不意打ちを喰らった。
どんなに悔やんでも、悔やみきれない——。
あれほどスピロやゾーイにむかってへらず口を叩いていたのに自分もしくじったのだ。一瞬の隙をつかれたとか、まさかこんな場所で、とか言い訳などできない。
「くそう。セイ、すまねぇ」
マリアはうつむいたまま歯の隙間から言葉をしぼり出した。
「いや、マリア。よく防いでくれた」
セイの予想しない返事に、マリアは驚いて顔をあげた。セイがプラトンの肩の上にのったマリアに顔をむけていた。
「どういうことだ?。セイ」
「マリア、きみの吹かせた風の力のおかげで、槍がすこし横にずれたみたいだ」
「直撃は免れたみてぇだぜ。マリアさん」
ゾーイがほっとした表情で言うと、スピロが気を引き締めるように言った。
「ですが、油断できませんわ。直撃していたら即死しているかもしれない強さでした」
「でもタルディスさん、起きませんわ」
エヴァが、倒れているタルディスの元に審判長と医者らしき人物が、駆け寄っていく様子を見ながら言った。タルディスの脇に屈みこんで診断をしている医者を、スタディオン中の観衆たちが固唾をのんで見守っていた。
「えーい、じれってえな。ヒポクラテスさんはどこかにいねぇのかい」
ゾーイが痺れを切らして呟いた。
「ゾーイ、静かになさい。まずは見守りましょう」
スピ口がゾーイをたしなめたが、彼女はまだ落ちつかずそわそわとした様子のままだった。
急にスタディオンが静まりかえったせいで、デカルトの命題に額をつきあわせていたソクラテスとプラトンがふと我に返った。
「ど、どうしたんじゃ。この静けさは……」
「タルディスさんが事故にあったんです」
エヴァがソクラテスに言った。
事故じゃねえ——。
マリアは思わずエヴァのことばを訂正しそうになった。だがここでそれを口にしてしまったら、ますます自責の念にかられる。
「タルディスさんが事故に?。なにが起きたのです?」
まるで頭上のマリアにさらなる責め苦を負わせるように、我にかえったプラトンが再確認を求めてくる。
スタディオンでは、タルディスの元に屈みこんでいた医者が手をあげて、医療班らしき集団にむかって合図をしていた。
「くそぉ。あれはどういう意味なんだ」
医者の曖昧なジェスチャーの意味がわからず、マリアを苛立たせる。つい、誰に尋ねるでもなく悪態じみた物言いで吐き捨てた。
それをスピロが汲み取って返事した。
「マリア様ご安心を。どうやらタルディス様は気絶しているようです」
「気絶?。死んだわけじゃないんだな」
「えぇ。ありがたいことに。ですが……」
スピロは絶望的という表情で、マリアを見あげてきて言った。
「残念ながら、棄権ということになりそうです……」
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「冗談じゃねぇぞ!」
マリアがひときわ大きな声で叫んだ。セイは自分の失態がこの状態を引き起こしたことに対する、マリアなりの自分への憤りだとわかった。
「マリアさん、起きちまったことはしかたがないだろ。あきらめやしょう」
ゾーイがマリアを慰める。が、かなりうしろむきの発言だったので、むしろマリアに逆効果になった。
「ゾーイ、てめぇ。さっさと諦めてンじゃねぇぞ」
「いや、そう言われてもねぇ……」
「ここで棄権しちまったら、タルディスの未練が晴らせねぇままで終わっちまう」
「要引揚げ者のジョー・デレクさんの魂を現世に戻せませんわよ」
エヴァがみんながわかっていることを、わざわざ口にした。マリアが敏感に反応する。
「エヴァ、そんなことぁわかってる。全部オレのせいだ」
「いえ、そういうつもりでは……」
「みんなもそう思ってンだろ。だから……」
「いい加減にしなさい、マリア!」
スピロがひとことでマリアを黙らせた。それほどに力強いひとことだった。
「そんなこと1ミリも思っていません。誰もです。すでに失敗をしたわたくしたちに、あなたたちを責める権利もありませんし、まだ万策尽きたわけではありません」
その迫力にあのマリアが威圧されていた。ごくりと唾を飲み込む。
「まだ、策があると言うのかい?」
セイがスピロのほうに顔をむけると、スピロはふいにセイの両手をとった。美しい瞳をうるませて、懇願するようにセイを見つめてきた。セイは一瞬、相手が男だというのを忘れて、胸が高鳴りそうになった。
「な、なんだい、スピロ……」
「ここからはセイ様にお願いせねばなりません」
スピロは背伸びしてセイのほうに顔を近づけてから言った。
「タルディスさんのなかに入ってください」
うつくしい顔を間近に近づけられて一瞬、スピロがなにを言っているのかわからなかった。いや、まともに聞いていてもたぶん意味がわからなかっただろう。
「スピロ、きみがなにを言っているのかわからないんだけど……」
「そうだ、スピロ。説明しろ」
スピロに一喝された呪縛から解けたマリアが声を発した。
「セイ様、なんとなくお気付きになっているのではないですか?。わたしたちが意識がない人のからだに憑依できるってことを……」
「憑依……って、まさか……」
「わたくしは一度やったことがあります」
「やったことがある?。スピロ、きみが?」
「えぇ。マリー・アントワネット様が突然気をうしなってしまって。そのとき、やむにやまれず憑依したんです」
「マリー・アントワネット……にですか?」
エヴァが驚きをあらわにした。
「たいしたことはしておりませんわ。ただひとことしゃべっただけです。『|パンがなければブリオッシュを食べればいいのに《Qu'ils Mangent De Labrioche!》』とね」
「あの有名なセリフをスピロさんが?」
エヴァがさらに驚きをあらたにして言った。
「えぇ。フランス革命を起こさないようにするためにね」
「え?。だって、あのことばでフランス革命が起きたのでは?」
「まさか。マリー・アントワネットはそんなこと言ってません。あとからの創作です。だから言ってみたんですけどね」
スピロは当然とばかりに、しれっと言ってのけた。
「で、スピロ、どうすればいい」
セイは知謀家のスピロのことばにしたがってみることにした。
「ありがとうございます、セイ様」
スピロが握りしめていたセイの手に、ぎゅっと力をこめてきた。
「わたくしたちは、この世界ではしょせん精神体です。だからつよく願うだけでいいのです。それだけでタルディス様の中に憑依できます」
セイはスピロの力強い思いを汲み取った。
「よし、やってみよう」
「待て、セイ。その前にこれを見ろ」
マリアが右手の手のひらを上にむけて力をこめてみせた。手のなかに、ふわっと黒い雲が浮かびあがった。が、瞬時にして霧消した。
「どうやら、あいつが気絶している間は、おまえが『未練の力』と呼んでいるあの力、あの特別な力が一切使えなくなるらしい……」
スピロが握った手を離しながら、セイに申し訳なさげな目をむけて言った。
「そうなんです。あなたは、これからただの高校生『夢見・聖』の等身大の力だけで、このオリンピックを勝ち抜かなければなりません」