第15話 ソクラテスとの邂逅
「先生、あなたこそ、こんなところで。お願いしますから、揉め事は勘弁願いますよ」
「揉め事じゃと。プラトン、わしがいつ揉め事を起こした?」
「ここはオリュンピアのギムナシオンですよ。だれに出くわすかわかりません」
「それが良いのだ。今ここに、ギリシア中の哲学者や法律家、弁論家、数学者、医者らが集まっているのだ。たまには旧知を暖めたくてな」
「今も言い争いをされていたではないですか」
「ヒッピアスのことか?」
「えぇ、ソクラテス様。あのような志が低い者はまとも相手にしないほうが……」
「まぁ、そうだな。あのような権力者と金持ちにへつらうヤツの考え方は、いくら知識に恵まれていようと、わたしの考える理想の都市の構想にはなにひとつ寄与しないしな」
「いずれ、わたしが著作であの男を貶めてやりますよ」
「ま、あやつの功績は、聖オリュンピアの雑記録をまとめあげて、このオリンピックの第一回からの歴史を編纂したことくらいだろうて」
ソクラテスはそこではじめてプラトンの背後にいるセイたちの存在に気づいたようだった。
「プラトン。そこにいる男の子と女の子たちはおまえの連れか?」
「えぇ、そうなんです、先生。この子たちは『ニッポン』という聞き慣れない国から来たというのですが、見ての通り大変変わった服装をしているだけでなく、ずいぶんおかしなことを話すのです」
「おかしなこと?」
「はい。彼らは未来のことを語るのです」
「未来のことを?。プラトン、おぬしはそれを信じたのかね」
「はい。それがどうしたものか、信じてしまいました。これはもしかしたら『ダイモニオン』ではないのでしょうか」
「ふむ。『ダイモニオン』……か……」
ソクラテスはそう呟くと、セイに尋ねた。
「そなたらは未来のことを語ると聞いたが、なぜ知っているのかね」
「おい、ソクラテス。まず人にものを尋ねるときは、名乗るものだろうが。それにさっきから言っている『ダイモニオン』とかいうのはなんだ?。人のことをよくわからない名前で呼ぶンじぇねぇ」
マリアがソクラテスのえらそうに見える態度に苦言を呈した。が、ソクラテスがそれに言及するより先に、スピロがそれに答えた。
「マリアさん。『ダイモニオン』というのは、ソクラテス様が時折、神霊より受け取られるという超自然的な、神的な御徴のことです。幼少時代から聞こえていたと言いますよ」
「声が聞こえる?。ソクラテス、おまえ『電波系』かよ。完全にブッとんでやがるな」
「なにわけのわからんことを言っておるのじゃ、この幼子は?」
「幼子じゃねぇ、マリアだ。次、ガキ扱いしたら、てめぇが毒をあおる前に殺すぞ」
「毒をあおる?。それはどういうことかね」
「あ、はい。それが……あなたが……、ソクラテス様が罪に問われて毒杯をあおって自死されると……彼らは申すのです」
プラトンが気が進まない様子でソクラテスに説明した。が、彼は顔色ひとつ変えなかった。衝撃を受ける内容にもかかわらず、涼やかな目でスピロのほうを見て問うた。
「で、なんの罪でかね?」
そのソクラテスの目。マリアが投げかけた疑問なのに、その回答を知るものをすぐに見極め、ためらいもなくスピロに目をむけた。セイにはその目に宿っているのは『虎視眈々』と言うべきたくらみ。どんな回答をしても、さきほどのヒッピアスのように、ねじ伏せてやろうと待ち受けているのだとすぐにわかった。セイは自分にむけられているわけでもないのに、心の奥底がひやりとするのを感じた。
「不敬罪ですわ。邪神を導入して青少年を堕落させている、と」
「このわしがかね。アテナイにずっと尽くし、この国を理想の国家に導くため、清貧をみずからに強いてまで若者に『知恵』を授けておるというのにかね?」
「あなたが貧乏なのは、あなたが働かないからでしょうに。生業の石工(彫刻家)に身を入れずにいつも広場をほっつき歩いて……。乳飲み子をかかえる三児の父親としての自覚がなさすぎです」
スピロがソクラテスの主張を一喝した。
「なんだよ、ソクラテス。おまえ、偉そうにしているが、ただの『くずニート』じゃねぇか」
幼子扱いされたの意趣返しなのだろう。マリアがすかさず揶揄する。
「あれでは奥様のクサンティッペさんが可哀想すぎます」
ふだん温厚なエヴァでさえ怒りをぶつけていった。
「あいつは悪妻なのじゃ」
「ソクラテス!。恥ずかしくないのですか!」
スピロは威圧するように声を張った。あのていねいなことば遣いはなりをひそめ、すでにソクラテスを呼び捨てにしている。
「クサンティッペさんはあなたより40歳近くも若い、良い家の出のお嬢様だったのですよ。あなたがポテイダイア攻囲戦やデリオンの戦いで『重装歩兵』として従軍していた時は、まぁ、身分もつり合ったかもしれません。ですが、今は稼ぎのひとつもないただの老人です。クサンティッペさんが悪妻になったのは、あなたがただただ、無能な穀潰しだったからです」
スピロに加勢するようにゾーイとエヴァがソクラテスを非難しはじめた。
「おうおう、ソクラテスさんよ。あたいら女をなんだと思ってやがるんだい」
「あなたの妻なら、どんなに度量がおおきい女性だって『悪妻』になりますわ」
最後は当然のことながら、マリアが悪態をつく。そこに男であるセイの出番はない。
「ソクラテス。てめぇ、家族も養わずほっつき歩いて、なんかえらそうなことばを後世に残してやがったな」
マリアはうつむきかけたソクラテスの顔を下から睨みつけた。
「『とにかく結婚しなさいぃ。良妻なら幸福になれるし、悪妻なら哲学者になれるぅ』……ってか!。このろくでなし野郎。オレたちの世界なら、裁判でソッコー離婚ものだ」
女性陣の集中砲火を浴びて、なおもソクラテスは弁論でねじ伏せようとした。
「この国を理想の国家に導くための『知恵』を若者に授けている『真実の人』としての行いが、神がわしに課した責務なのじゃよ。わしはデルフォイの神託で天命をさずかったのじゃ。そんな使命を帯びた夫をもった妻は……」
スピロはソクラテスの口元に無理やり指を押しつけて、黙らせると強い口調で言った。
「恥を知りなさい、ソクラテス。
あなたの説くことばは、単なる揚げ足取りに過ぎません。相手の知らないことを論って、あげくに『無知の知』というお決まりのフレーズで相手をやり込めているだけです。それがどれほど愚かで卑怯な行為と思われているかも、気に留めずにね。
そもそも家族を理想に導けない者が、なぜ国家を理想に導けるような、大言壮語を語れるのです。
まず、あなたがやるべきことは、まっとうに働いて『お金』を家族に授けることです。『知恵』などという曖昧なものではなく」
「お金じゃと。金銭をいくら積んでも、そこからすぐれた精神が生れてくるわけでは……」
老人がなおも弁論術を駆使して、スピロをねじ伏せようとしたが、スピロはひと言のもとに切って捨てた。
ソクラテス自身のことばをもってして——。
「ソクラテス曰く、『真の賢者は己の愚を知る者なり』、です」