第13話 アリストパネスとの邂逅
スピロ・クロニスにはプラトンは機嫌がよく見えた。
自分の性的嗜好がみんなにおおっぴらになったことで、逆に足枷がとれたのか、さきほどまでの切羽詰まったような表情はまったくない。
「セイ、もしきみがこの世界の人間なら、すごくもてていたんですがねぇ」
プラトンがセイにむかって言った。だがその口調は軽口めいて、性的ななにかを臭わすような含みがまったく感じられなかった。
セイはどう接していいのかわからず、マリアやスピロたちのほうへ助けを求めるような目をむけていたが、あいかわらずマリアとエヴァは目を伏せていたし、ゾーイは辺りをきょろきょろしていたので、目が合わなかった。
セイはスピロにほうにも助けを請うような目をむけてきたが、自分の役割は果たせたはずなので、それ以上深入りしようとは思わなかった。
「プラトン、きみはいつ宗旨替えをしたのかネ」
柱廊の横にたたずんでいた男が、ふいに声をかけてきた。
スピロはそれがすぐにだれかがわかった。峻厳な顔立ちでありながら、どこか斜に構えたような雰囲気をもっている。
喜劇作家アリストパネス(アリストファネス)(45歳)——。
プラトンがすこし狼狽えたような顔を見せた。さきほどまでの浮かれたような雰囲気は一気に消え去った。
「アリストパネス、それはどういうことだね?」
「ふぅむ。なにネ。きみのうしろに引き連れている少年・少女がずいぶんキテレツな衣装をしているのでね。もしや劇作家でも目指そうとしているのではないかと思ってネ」
スピロは自分たちがからかいの対象にされてむっとしたが、そのままアリストパネスを注視するにとどめた。
アリストパネスが皮肉めいた目つきをプラトンのほうに向けてきた。
「きみもむかしは悲劇詩人を目指していたのだろう。ぼくは知っているよ。すでに三大悲劇詩人のアイスキュロス、エウリピデス・ソポクレスもいない今、好機かもしれんがネ。だが、彼らは超えるのは難しいよ。わたしは自作の『蛙』の中で彼らの批評をやったことがあるから、彼らがいかに才能あったかわかっている」
アリストパネスはプラトンの肩に手をおいて、諭すように言った。
「ぜひ喜劇にしたまえ。権力をあげつらい、庶民がすっきりとするようなものをネ。哲学などという詭弁を振りかざすより、よっぽど世の中の役に立つ」
「我が師、ソクラテスを揶揄するようなものが、どう役にたつというのです?」
「それはわたしの戯曲『雲』のことを言っているのかネ」
「そうですよ。あなたはあの戯曲のなかでソクラテスを、汚い身なりでうろついて、ほら話を吹きまくる詭弁術学校の校長に仕立てて、馬鹿にしたではないですか。しかもマキナー(役者を宙吊りにして登場させるためのクレーン)で空中に吊り上げたりして。でたらめばかりだ!」
スピロはそれを聞きながら、そのときの光景を想像した。
スピロは幼いときに両親に連れられてゾーイと一緒に、ディオニュシア劇場の跡地に行ったことがあった。
ディオニュシア劇場は、アクロポリスの南麓の平らな場所を利用して建てられた大型野外劇場で、丘の斜面には「テアトロン」と呼ばれる石のベンチでできた観客席が設置され、半円形の舞台「オルケストラ」が見おろせるような設計になっていた。二万人近くが収容できる大きさでありながら、最後列の席まで声が届くように音響を考慮されていたとのことだった。
一番奥に高い壁が堂々と屹立し、うしろや横から大型クレーン「マキナー」を使って、役者を中空に出現させていた。その壁は崩落や破損があるが、今でもその片鱗はみてとれる。
「マキナー」は本来、すべての紛争を収拾する『神』が降臨するシーンで使うのだが、アリストパネスは戯曲『雲』のなかで、天にまで昇ったあげく『太陽は灼熱された鉄の球だった』などと、世迷い言をわめく奇人として、ソクラテスを貶めるためにこれを使っていた。
「でたらめ……か……。だが本当のこともあるのではないかネ……」
プラトンから抗議を受けても、アリストパネスはすこしも動じることはなかった。
「昨今の若者が親や目上も敬おうともせず、人の揚げ足ばかりをとるようになったのは、いつの時代からだと思うかネ。アテネの黄金時代、ペリクレスの頃から流れ込んできたソフィストたちの入れ知恵がそのきっかけなのではないのかネ?」
「哲学とはそういう詭弁術ではありませんよ」
「ほう。弱論を強論に、邪論を正論にすりかえることを教えているのかと思ったがネ。それよりも、わたしはソクラテスに劇を邪魔されたほうを問題にしたいネ。『雲』の上演中に、当人がたちあがって『本物これにあり』とシレノス(半人半獣の森の神)のような顔で叫んでくれたのだ。おかげで劇は台無しになってしまった……」
(※醜男のソクラテスはシレノスによく似ていて、よくそう揶揄されていた)
「そんなにたいした劇でもないでしょうに」
気がつくと、スピロはこころに思っていたことを口走っていた。うしろで黙ったまま、成り行きを見守っていたセイとゾーイが驚いた顔を、顔を伏せていたマリアとエヴァですら思わず顔をあげ、スピロを見つめていた。
そのひと言は、予想以上にアリストパネスのプライドを傷つけられたらしかった。プラトンを押しのけるように、スピロの元に歩み寄ると威嚇するような口調で訊いてきた。
「失礼な。きみは誰かネ」
「わたしはスピロ・クロニス……」
スピロはわざと芝居がかった仕草で、上を指さしながら続けた。
「未来から参りました」
「未来から……」
アリストパネスはそう一度呟いてから、ぷっと吹き出した。
「これは愉快だ。プラトン。きみには喜劇を書く才能があるようだネ。今まで見たことも聞いたこともない題材じゃないか。もしかして天空から舞い降りてきた『神』という設定なのかネ。ならば『マキナー』を使って、ど派手に見せるといい」
「ばかばかしい。|デウス・エクス・マキナー《機械仕掛けの神》など……」
スピロがそのアイディアを一笑に付したが、アリストパネスはスピロにむかって、先ほどより強い口調で怒鳴った。
「演者は口をださないで欲しいネ。わたしはプラトンに言っているのだよ」
スピロはこのプライドが高いだけの下品な喜劇作家が、たちまち嫌いになった。語尾をことさらにあげる、人を上から見下したようなしゃべり方も気に入らない。その気持ちがどうも顔にでたらしく、ゾーイが心配そうな顔をむけてきた。
だが気に入らないものは、気に入らない——。
「大ディオニュシア祭で最下位だった作家が、なにを偉そうに言うのでしょうか?」
スピロはアリストパネスの顔をじっと覗き込むと、念を押すようにして続けた。
「ですよね。ソクラテスを揶揄したこの『雲』は、すこぶる評判がわるかった……」
「それは、ソクラテスが邪魔を……」
アリストパネスがあわてて弁解をしようとしたが、マリアのばか笑いがそれを邪魔をした。
「うわははははは……。なんだよ。最下位って。どうしたら、それで一流作家面できるんだ?」
「あ、いや……」
アリストパネスはそれ以上、なにも言えなくなっていた。だが、スピロは手を緩めるつもりはなかった。
「見慣れない服を着ているから、わたくしたちを劇団員と決めつける短絡思考。もしあなたがそれでも喜劇作家を標榜しているとしたら、そこから産み出されるものは表層をなぞった、浅薄なものでしかないでしょうね」
「な、なにを言うのだ。『未来』から来たなどと嘯く輩に、わたしの作品のすばらしさなどわかるわけがない」
アリストパネスは精いっぱいの虚勢をはってみせた。
「いや、アリストパネス。これはどうも本当のことのようなのだ」
「本当のこと?。まさかプラトン、きみもソクラテスのように『太陽は灼熱された鉄の球だ』などと言い出すのではないのかね」
「いや、わたしも信じられなかったが、どうも本当のことのようなのだ。彼らは、我が師、ソクラテス様が罪に問われて死罪をうけると警告にきたのだ」
そのことばにマリアが反応した。
「おい、プラトン。だれがソクラテスのためにきたと言った。オレたちは別の目的でここにきただけだ。ソクラテスが死刑になるのはたまたま知っていただけだ。たまたまな!」
「ま、試験にでるしね」とセイがひと言添える。
「待ちたまえ、プラトン。きみは本当にこんなへんてこな子供たちのことを信じているのかネ。だとしたら、これこそ喜劇じゃ……」
「まぁ、へんてこ、とはずいぶんな言い草ですわね」
ついにはエヴァまでがアリストパネスの攻撃側にまわった。あわててアリストパネスがその場を取りつくろおうとなにやら抗弁をしはじめた。
スピロは嘆息した。
こんなところでこんな三文喜劇作家を相手にしている場合ではない——。
スピロはゾーイに声をかけた。
「ゾーイ。見せつけてあげなさい」
「わぉ!、お姉さま。やっちまっていいのかい?」
「お願いします」
あとはゾーイに任せることにした。ゾーイは右手を前につきだし、手のひらを地面にかざすような仕草をはじめた。
とたんにビクリとからだを震わせて、アリストパネスが黙り込んだ。あわてて自分の足元をじっと見つめる。顔をあげこちらを見るアリストパネスの顔は、驚愕のあまり強ばっていた。プラトンにすがるような目をむける。
「プラトン……」
「どうしたのです。アリストパネス?」
アリストパネスは無言のまま、自分の足元を指さした。
アリストパネスのからだは浮いていた。石畳の床から、わずかに30センチほどだったが、彼にとってはまるで天空にでも飛ばされたような気分なのだろう。スピロが予想してたよりも、はるかに怯えているようにみえた。
「どうです、アリストパネス様。神になったご気分は?」
「か、神……。ど、ど、どういうことか?」
「未来からきたへんてこな少年少女の、力をすこしだけ徴して見せただけですけど?」
「こ、これは、き、きみらの仕業なのかネ?」
スピロはそれには答えず、背後でアリストパネスのからだを浮遊させているゾーイに見えるように、人さし指をくいっと上にはね上げた。ゾーイがそれに呼応して手を上にあげると、ぐわっとアリストパネスのからだが勢いよく上がった。もうすこしで天井に頭がつきそう、というところまで浮きあがると、アリストパネスの顔は完全に蒼ざめていた。それでも作家の矜持なのか、すこしばかり上の空間からスピロを指さして叫んだ。
「き、きみらは、いったい何者なのだぁ」
「何者……。そうですね……」
スピロはアリストパネスに怒りをぶつけられて、肩をすくめながら言った。
「|デウス・ヴォット・マキナー《機械いらずの神》といったところです」