第8話 ギムナシオンとは
「ギムナシオンはレスリングやパンクラチオン、ボクシングなどの格闘技と跳躍種目のトレーニング場で、ギリシアではどの市にも最低ひとつはあります」
ギムナシオンへむかいながら、プラトンが説明をはじめた。
「そこにはかならずパレストラと呼ばれる体育学校が併設されていて、若者の育成をおこなっているんです。ですが、それと同時にそこは市民たちの広場であり、社交クラブのようなもので、とても活気に包まれているんです」
「体育館でなんの社交がある?。オレたちの世界じゃあ、体育館は体育館だ」
いくぶん声を弾ませて語っているプラトンに、マリアが含みも持たせず疑義を差し挟んできた。
「いえ、ギムナシオンは身体を鍛える場と同時に、学問や芸術を学ぶ場でもあったのです。ふつうの人々は、そこで旧友と昔話に花を咲かせたり、次世代の無名の選手の将来性を語りあったりしているのですが、そのかたわらで数学者は弟子と幾何学(ゲオメトリア)を論じ、哲学者は魂の不滅を説いて、理想的な社会におけるスポーツの役割を讚える講義を開いたりしていました——」
プラトンは軽く咳払いをしてから続けた。
「それだけではないんです。芸術家は練習する選手を、生きたモデルとして、デッサンしたり、彫刻の素材として扱っていました。ギムナシオンは身体も頭も感性も鍛える場所でもあるのです」
「プラトン、そこではなにか食えたりするのか?」
「マリアさん、ギムナシオンはそういう施設ではありません。そこらの屋台でなにか買っていかれますか?」
「買っていく?。おい、セイ。おまえ、金は持っているか?」
「いや、持っていない……」
セイがポケットをわざとらしく叩いてから言った。
「プラトンさん。ここのお金ってどういうものでしょうか?」
エヴァがそう尋ねると、プラトンは口のなかに手を突っ込んで、一枚のコインを目の前に差し出した。目の前の唾のついたコインに、エヴァはおもわず顔をしかめた。
「これがアテナイの通貨です」
そのコインは表面には知恵と戦術を司る守護神『アテナ』の優しく微笑んだ横顔、裏面にはアテナ神の聖鳥である『ミネルヴァのフクロウ』が刻印された銀貨だった。
「おい、プラトン、おまえ、どこからお金をだしてやがる」
マリアが嫌悪感まるだしの表情で、プラトンに言いはなった。エヴァもこの意見には全面的に賛同するところだったが、プラトンはしれっと言い返した。
「なにがおかしいのです?。お金は口のなかにいれて運ぶのがふつうでしょう」
「ふつうなのですか?。ふつうポケットとかにいれるものじゃありませんか?」
エヴァはプラトンの身につけているヒマティオンを見ながら訊いたが、プラトンは心底意味がわからないようだった。
「ポケット?。それはなんです」
エヴァは周りの人々に目をくばった。まわりを歩いている人たちは、チュニカやペプロス(上着)を着ていたが、こちらにもポケットらしいものがないことに気づいた。
「ポケット……なんてないのですね」
エヴァはおもわず天を仰ぐと、入れ替わりにマリアが訊いた。
「で、プラトン、これはいくらなんだ?」
「テトラ(4)ドラクマです」
「こちらではどれくらいの価値なんですか?」
そう尋ねながら、エヴァはプラトンの手の上から、嫌々ながらも唾でねとねとしたドラクマ銀貨をとりあげた。どうやっても顔をしかめずにおれない。エヴァは我慢して、指のはらでその凹凸を確認した。
「そうですね。1ドラクマは6オプローズ。熟練建設作業員の日当というところでしょうか。1ドラクマあれば一家四人が二、三日はゆうに暮らしていけるはずです」
「じゃあ、テトラ(4)ドラクマって結構な大金なのですね」
エヴァはそう言ってにっこり笑うと、反対側の手をプラトンの目の前に差し出した。その手のひらの上には、ドラクマ銀貨が十枚以上乗っていた。セイが驚いた目をエヴァのほうにむけてきたので、エヴァはあわてて反対側の手のひらを握って、そのなかでまたたく微細な閃光を隠した。
「あぁ、エヴァさんがお金をお持ちだったのですね」
プラトンはほっとしたような顔を浮かべたが、セイとマリアはすこし軽蔑のまじった眇めた目でエヴァを見つめていた。
やりやがったな、という視線——。
どうやら手品の種を隠し切れなかったようだった。
「あら、セイさん、マリアさん。どうされまして?。お金の係はわたしだったでしょう」
開き直ってエヴァはしれっと言ってのけたが、マリアが睨みつけるようにして言った。それはまるで半分脅しにも近い物言いに聞こえた。
「エヴァ、そうだったな。あとでオレにも渡してくれ。おまえの口のなかには、まだ何百枚か入っていそうだからな」
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※作者注 信じられないことに、お金は口に含んで運んでいたらしいです。