第7話 不潔の祭典 オリンピック
「ソクラテス?。あの毒杯をあおって『悪法も法なり』と言った哲学者の?」
セイがその名前に思わず反応した。
「ちょっとお待ちください。どういうことです?。なぜ我が師が毒杯を……」
「気にすんな、アリスト……、いや、プラトン。ちょっと口を滑らせただけだ、未来の話をな」
プラトン(28歳)の顔が驚き一色でいっぱいになった。
「未来の……。いや、それより、マリアさん、なぜ、わたしの『背中の広い』というあだ名をご存知なのです?」
「知ってるさ。おまえも試験にでるからな」
「試験……。いや、しかし……意味が……」
「プラトンさん、ところで、この悪臭はなんですの?」
エヴァがまごつくプラトンの気をそらすように、さきほどまでの三人の揉め事に話を戻した。
「あ……、えぇ……。エヴァさん。この悪臭はみんなの体臭ですよ。なにせ、みなこの炎天下を各地から何週間もかけて来てるのですから。わたしもアテナイからオリュンピアまで二週間かけて歩いてきましたしね」
プラトンは相変わらず頭が混乱したままのようだったが、手直な答えにとりあえず飛びつくことにしたようだった。
「おい、不潔すぎるだろう」とマリアが腹立ちまぎれに言った。
「致し方ありません。ここでは水は大変貴重なものですから。特別待遇の招待客と選手は浴場やプールを使えますが、それ以外の人はそんなものは使えません。まぁ、それに加えて糞尿の臭いが混ざっているから……」
「不潔なんてもんじゃねぇな。おまえたちの世界は」
「どうしようもありません。オリュンピアのそばに流れているアルフェイオス川もクラデオス川も夏場、干上がっていますからね。今は両方ともただの野外トイレと化していてね。おかげで延々とハエやブヨが湧いて出てくる」
「オリンピックなんだろ。衛生面なんとかならねぇのか」
そう言うなり、我慢できずにマリアは自分の鼻をつまんだ。
「あきらめてください。この臭いもオリンピックの名物なのですから。このオリュンピアのかぐわしい松林や野花の香りでも打ち消せませんよ」
「それにこの煙も堪えられません」
エヴァがそこらで料理をはじめている連中を、恨めしそうに見ながら言った。
屋台に加えて、みな勝手気ままに火を起こして、料理をはじめるものだから、あちこちから煙が漂い、灰が吹き上がり、それらが蔓延した場内は、どこにいても目が痛かった。
「堪えてこそのオリンピックですよ。これでも今は夕方だからまだいい。明日からの大会中は炎天下に立ちっぱなしなのです。しかもこの臭いはさらに強烈になるのですからね」
「ちょっと待て。このオリンピックは観客にも我慢比べの競技を強要するのか?。まるで不潔の祭典じゃねぇか」
「うははは。マリアさん、なかなかおもしろいことを言う」
プラトンはマリアの心の底からのクレームに、大笑いで返してきた。
「実際、オリンピックの劣悪な環境は巷間に知れ渡っていますからね。ある富豪が言いつけを守らなかった奴隷に『オリンピック観戦にいかせるぞ』と脅したっていう話もあるほどでね」
「そんな罰ゲームみたいなイベントなのに、なぜ、みんなここに集まるんです?」
セイは額に浮きでた汗を手で拭いながら訊いた。するとプラトンはセイの背中に手をやって、諭すように言った。
「セイさん、それは、人類最高のお祭りだからですよ」
「ギリシアには四大競技大祭とされるものがあります。ポセイドンを奉るコリント地方の「イストミア大祭」、ゼウスの娘 ネメアを奉るネメア地方の「ネメア大祭」、アポロンを奉るデルフォイ地方の「ピュティア大祭」、そしてヘラクレスを奉るオリュンピア地方の「オリュンピア大祭」。ですがこの四年に一度開催されるオリュンピア大祭は別格なんです。この大会のためには、すべての戦争は停戦される決まりです。それほどまでにギリシア人はスポーツを溺愛しているんです」
プラトンはよどみなく説明すると、思い出したように質問を投げ掛けてきた。
「あなたがたは、テルモピュライの隘路を守るため、20万ものペルシア軍をたった300人で戦ったスパルタ軍の話はご存知ですか?」
「ちょっと待って。なんか、そんな映画があったような。300人対数十万の戦い……」
セイがそういうと、エヴァも思い出したらしく、その話に追随した。
「あぁ、そんな映画ありましたね。見てはないですが、たしか『300』っていうそのものずばりのタイトルでしたわ」
「あの戦い、本当はスパルタ軍を率いていたレオニダス王は祖国に援軍を要請したのですよ。ですが、そのとき援軍に向かわせるはずの数万人の兵が、ここオリンピュアに集まり、レスリングの決勝戦を見に来ていたのです。そのせいでスパルタ軍は善戦むなしく負け、王は討ち死にしました」
「嘘でしょ。自分の国の存亡や王の命よりも、スポーツ観戦が優先するなんて……」
エヴァが唖然とすると、プラトンは得意満面の様子で言った。
「それほどギリシア人はスポーツを大切にしているのです。まぁ、勝ったほうペルシア軍のクセルクセス王ですら、自分がオリンピックに助けられたことを知って、愕然としたと言いますから、他国からみれば非常識なのでしょうね」
「わたしには、ギリシア人というのは、スポーツ廃人としか思えません」
「まぁ、神への領域に近づく行為です。他国の人間になんと言われてもしかたがないでしょう」
「となると、オレたちが探すべきは、この大会の選手の可能性が高いな」
マリアが鼻をつまんだまま言った。
「なるほど、たしかに可能性が高い。まずは選手たちを探すことにしよう」
セイは一も二もなく賛成した。どこから手をつけていいのかわからないのだから、ほんの小さな可能性でも飛びつきたいというのが正直なところだった。
「選手たちを?。なるほど、もしかしたらソクラテス様もそこにいるかもしれない」
「それはどこです?」
「ギムナシオンですよ」
プラトンはセイの肩を抱くようにしながら、施設内でももっとも広い面積の建物を指さした。