第70話 ありがとう、スポルス……
セイとマリアがネロの寝所に駆け込んだ瞬間、もんどり打ってネロが倒れる光景が、セイの目に飛込んできた。すばやく反対側に目を転じると、倒れたスポルスを抱き起こすようにして、エヴァが自動小銃を構えていた。スポルスの顔色は真っ青で、まだ命があるのかわからないように見えた。
マリアがエヴァのほうへ駆け出そうとする。しかし、すぐさまセイはマリアの腕をつかんでそれを制した。マリアが驚いてセイのほうに目をむけた。
「マリア、ゆっくりでいい。どうか、エヴァについていてあげてくれないか?」
「エヴァに?。どうみても死にかけているのはスポルスのほうだぞ」
「だからさ」
マリアが怪訝そうな表情をした。
「たぶん、エヴァはスポルスを守れなかったことに、責任を感じているはずだ。それを慰めてやれるのは、ぼくよりきみのほうが適任だと思う」
「どうやって?。オレだって……」
「エヴァを褒めてやって欲しい」
「しかし、スポルスは……」
「スポルスは自分の手でネロを討つことができた。よくやってくれたと思う」
とまどっているマリアにセイはやさしく言った。
「マリア、スポルスはもう二千年前に死んでいる人間だ。気にしなくていいんだ……。スポルスの未練は果たせた。おかげで、あのイタリアの少女、モニカは助かる……」
セイが満足そうな笑みを浮かべてみせた。
「あぁ、そうだな。任務は果たしているな……」
「うん。すごい手柄だ」
マリアがセイの意図することを汲み取って言った。
「わかった。セイ、エヴァはまかせてくれ……」
「で、おまえはなにを?」
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ネロはごろりと仰向けに転がったまま、身動きしていなかった。
セイが上から覗き込むと、ゆっくりと目を開いてセイを睨みつけてきた。最後まで、皇帝らしい、為政者らしい、威厳を保とうとしていた。
「未来……から来たとか、ウソをついている連中の仲間だな……」
「ウソはついてないけどね」
「いや、あの小娘は、ワシの作品は一編も後世に残ってないと言った。ウソだ……」
セイはネロのかたわらに膝をついて、ネロの手をとった。
「そのとおりです。あなたの作品はなにも残ってません……」
「それは焼かれたからです」
ネロの目がおどろきのあまり大きく見開かれた。
「そうなのか。あの娘は、ペテロニウスやセネカのものは残っているが、ワシのものは残っていないと……」
「彼らの作品を焼き払いたくなるほど嫉妬する人が、どれだけいると思いますか?」
セイの力強いことばに、ネロのくちびるはわなわなと震えた。目から涙がこぼれ落ちる。
「おぉ、おぉ……。そうか、そうだろう……」
ネロはボロボロと涙を流しながら、セイに訴えかけるように問うた。
「セイ……。ワシの作品は後世の者を嫉妬させたのだな……。ホメロスの詩のように……」
セイはなにも言わなかった。これ以上、嘘を重ねる必要もなかった。ただ、こくりとおおきく頷いただけだった。
ネロは満足そうな笑みを浮かべた。
「だが悔しいのぉ……」
ネロがおおきく嘆息した。
「あぁ……、なんとすぐれた芸術家がワシとともに消え去ることか……」
それが皇帝ネロのさいごのことばだった。
セイはネロが息をひきとったことを確認すると、ゆっくりとスポルス、マリア、エヴァたちのいる場所へむかった。
スポルスは床に横たわっていた。その横でエヴァとマリアが沈欝な表情で、立ったまま彼女を見おろしていた。セイが近づいてくると、エヴァがなにかを言いいかけたが、セイは手を前にだして、それを制した。今、エヴァの口から漏れでることばは、お詫びや言い訳の類いしかない。マリアがいくら骨を折って、エヴァを説得したとしても、一度自分のなかに生じた負い目は簡単に消えるものではない。
だから、あえてそんなことは重要なことではない、という突き放した態度をセイはとった。
セイはスポルスのかたわらに膝をついて、スポルスの手を握って声をかけた。
「スポルス、スポルス……」
スポルスがうっすらと目を開いた。自分の手をにぎりしめているセイに気づいて、ゆっくりと口を開いた。
「セイ……、私……、ネロを憎みきれなかった……」
「それが人間だと思うよ」
「ネロは死んだのですか?」
「あぁ。死んだよ。きみがネロを討った」
スポルスが安心したような表情を浮かべたが、すぐにセイのほうに向き直って訊いた。
「セイ。わたし、どうすればいい?」
セイはスポルスの右手の甲のうえから自分の右手を重ねた。スポルスの手をうしろから被うようにすると、セイは自分の指をスポルスの指に絡め、ぎゅっと握りしめた。
「スポルス……。キミはネロを赦してあげられるかい?」
「はい、今なら……。あの人は哀れな人だった……。若くして皇帝に即位し、その重責に他人の痛みや悲しみを思いやれる余裕がもてなかった……」
スポルスの目から涙が伝っていた。セイは左手の指先でその涙をやさしく拭ってやりながら尋ねた。
「スポルス。きみはネロがきみにしたむごい仕打ちを赦せるかい?」
「はい。神の御名において、わたしは……あの人の罪を……赦します」
ゆっくりと噛みしめるように赦しのことばを口にした、もう一点の迷いもないのだとセイは感じた。
そのとき、スポルスのからだが光を放ちはじめた。現世で眠り続けているイタリアの少女、モニカの魂が、スポルスのからだのなかからゆっくりと抜け出してくる。
「ありがとう、スポルス……」
セイが絡めた指にやさしく力をこめた。
「きみはとても男らしかったよ」
スポルスがうれしそうにほほえんだ。その笑みにはもう力強さは残っていなかったが、こころの底から満足した表情にみえた。
「セイ、ありがとう……」
スポルスは眠るように息をひきとった。とたんにそのからだから、少女モニカのからだが浮きあがった。精気が光となって、モニカのからだの周りをおおいはじめる、解放されたモニタの魂がゆっくりと天井へのぼっていく。
「マリア、エヴァ。もうぼくらも戻ろう」
セイはそう言うと、手のひらを上にむけた。ふっとからだが浮きはじめる。マリアとエヴァもおなじようにしてセイに続く。
ふいにエヴァがセイに尋ねた。
「聖さん、あなたはネロのそばにいかれて何をされていたのです?」
「ネロと語っていた。そして彼を慰めてあげていた……」
マリアがセイを睨みつけた。エヴァの表情もさっとかき曇る。
「おい、唾を吐きかけるならまだしも、どういうことだ、セイ!」
「そうですわ。あんな男に口をきくのなら、スポルスさんにもっと……」
「十七歳だったんだ……」
聖はぼそりと呟いた。
「十七歳?」
エヴァが虚を突かれて、おもわず反芻した。
「ネロがあの強大なローマ帝国の皇帝になったのは十七歳だったんだ。信じられるかい。あの時代は、ローマ帝国こそが世界そのものだった。その最高権力者についたのは、ぼくらとおなじ十七歳だったんだ。
そんなの、だれだって、勘違いするし、驕り高ぶるし、間違いもおかす……。等身大の彼は、芸術家や戦車競走の騎手に憧れた、ただの哀れな愚か者だったんだ……」
「おなじ立場に置かれれば、もしかしたら、ぼくらも同じ過ちをおかしたかもしれない……」