第63話 ペテロニウス?——
スポルスの手を引き、廊下へ抜けると、広間から聞こえていた、剣と剣がが噛みあう音が聞こえなくなった。エヴァはふりむいてスポルスに訊いた。
「ネロはどこです?」
スポルスはまだ息を切らせていた。悪魔の前を全力で駆け抜ける真似をしたのだから当然だ。だが、スポルスは苦しい息の下から「あそこです」と言うと、奥にある扉を指さした。エヴァはさらに走らせるのは過酷かと罪悪感をおぼえたが、そのまま速度を緩めず扉の前まで一気に走った。
ネロの部屋はその時代、もっとも力を誇った国の為政者のものらしく、荘厳かつ豪華であった。壁や柱廊、部屋を飾る調度にいたるまで、流麗な彫刻がほどこされていた。その中にはギリシア文明の影響を色濃くしたレリーフまである。
ベッドのそばの椅子にネロが座っていた。ネロはスポルスとエヴァの姿を見て、驚きの声をあげた。
「ス、スポルス……。どうやってここまで……」
「主のお導きによって参りました」
「主、だとぉ。この世で一番えらいのは、唯一、ローマ帝国の王のみ、つまりこの皇帝ネロだけだ」
「いいえ。人間ではおよびつかない、不思礒な力を主は使わせます。人間ごときは、主の足元に及ばないのです。ここにいるエヴァさんも、その主によって使わされたのです」
ネロがエヴァに視線を移した。
「そ、その女、み、見おぼえがあるぞ。そ、そうだ。パオンを倒したおんなだ」
「あら、お見知りおきいただき光栄ですわね、皇帝陛下。まぁ、今から死んでいただきますので、どうでもいいですけど……」
「な、なにぃ。どういうことだ」
「なんとも飲み込みのわるいこと……。わたしたちあなたを始末するために、わざわざここまで来たんですよ」
そう言うと、エヴァは手元の自動小銃で、ネロの真上の天井部分を一掃した。パパパパという激しい銃声が響いて、銃弾で削り取られた破片がネロの上に降り注いだ。ネロはあわててその場から飛び退くと、エヴァの手元を指さしながら叫んだ。
「な、な、なんだ!。それは……」
「これは今から2000年後の武器です。遠くから簡単にあなたを殺せますわ。でもあなたを殺すのは、スポルスの役目。わたしはそれを見ているだけです」
そう言われて、ネロがエヴァからスポルスに視線を移した。
「わしを、この才能の固まりのわしを殺すつもりか、スポルス。おまえの信じる神の中に芸術の神はいないのか。いるはずだ。ならば、私の才能をこの世から消し去ることを決して許すはずなかろう」
「私を殺そうとしたくせに!」
スポルスは威嚇するように、手にした短刀を両手でぐっと前に突き出して言った。
「お、おまえを殺そうとぉ?。わしが愛するおまえにそのようなことを、するはずはあるまい」
「アッピア街道であなたの兵に襲われました」
ネロが息を飲むような仕草をした。エヴァはネロが自分の身に覚えがないことを指摘されて、驚いているのかと思った。
だがちがった——。
ネロは顔をいびつに歪めた。清々したという表情で、にやりと笑ってみせた。
「なんじゃ、ばれておったか」
殊勝な真似で逃げ延びようとしていたはずが、突然開き直ったような顔つきになった。その顔は小心者の肥満男ではなく、ずる賢く企みに満ちた為政者の顔つきだった。
「仕方ない。その続きをここでやるかな」
「ペテロニウス!」
ネロが背後にむかって声を放った。
ペテロニウス?——。
エヴァは聞きまちがえたのだと思った。こんな場所に彼がいるはずはないし、もしいたとしたらセネカの命を受けているのだ、ネロ討伐側の人間としてすくなくとも一太刀を浴びせているはずだ。
だがネロの背後から現れたのは、まごうことなくペテロニウスだった。
だが、その背丈は人間のゆうに倍はあった。先ほどのミノタウロスと同程度の背丈だったが、その四肢はどの筋肉は隆として盛り上がり、まるで筋肉そのものも、別の生物であるかのようにビクンビクンと動いていた。
「ペテロニウス……さん」
エヴァの口から名前がつい漏れでていた。だが、彼がペテロニウスであったことの名残りは、知性をかんじさせる目と、端正に整った鼻筋ほどしかなかった。すぐにエヴァは彼がどうなったか悟った。
「スポルスさん、残念ですが、ペテロニウスさんは、先ほどの悪魔ウェルキエルの手で、化物にされてしまったようです」
スポルスは声もださず、ただ両手に握ったナイフの先端を見つめていた。エヴァはスポルスの背中を軽くなでながら言った。
「私、あの化物と戦います。スポルスさん、あなたはそのあいだにネロを倒してください」
それだけ言うと、エヴァは手をおろして自動小銃の銃口を床に触れさせた。すかさずその銃口の先で足元にくるりと円を描く。30cmほどの円弧。その軌跡をなぞるように、何回かくるくると円を描く。やがてその軌跡の縁に沿って、大理石の床に溝のようなものが刻まれはじめると、その円の中に黒い雲がわき出してきた。
エヴァはすっと屈みこむと、その床に出現した暗雲に手を突っ込んだ。なかからするすると長い砲身が引っぱり出されてくる。
それはロケット・ランチャーだった。
エヴァはランチャーの筒を肩に乗せると、ペテロニウスにむかって叫んだ。
「ペテロニウスさん。すぐにその悪夢、終わらせてあげます」




