プロローグ
「どうしたんだお前、その白髪……!」
浩太はリビングに入ってきた妹の変わり果てた髪色を見るなりそう言った。
戌亥霧果は少々やんちゃな性格ではあるものの、根は真面目でこれまで優等生としての生涯を歩んできた。
学校の試験では常に優秀な成績を収め、学級委員にも率先して立候補する今どき珍しいほどの善良生徒である。
だが、彼女は中身だけでなく外側、すなわち顔立ちやスタイルも整っており、男子生徒の憧れの的だった。
特に艶のあるロングの黒髪は霧果の象徴ともいえる存在だ。しかし、浩太の視界に入りこんだのは昨日までの清楚さを失った紅みがかった白髪である。
「これは桜色って言うの! おばあちゃんみたいな言い方やめてよお兄ちゃん!」
「いや、白でも桜でもいいけどよ……。お前の学校髪染めは校則違反だろ。しかもそんな派手な色、学校行く前に親父に絞られるぞ」
「不良の兄に説教なんかされたくないわよ。どうせ今日も喧嘩してきたんでしょ? シャツに血ぃついてるし」
「やべ、おふくろに見つかる前に捨てとかないと……」
優秀な妹とは対称的に兄は学業もおぼつかない放蕩息子だった。
不良といってもタバコや酒に溺れているわけではないが、毎日のように誰かと喧嘩しては傷ついて帰ってくる。
だが喧嘩の相手は力無き弱者ではない。むしろその逆だ。
弱者を虐げる強者を見つけては、一人で戦いを挑んで完膚なきまでに叩きのめす。
その手段は褒められたものではないが、彼の信念自体は間違ったものではないので両親もあまり強くは叱れない。
霧果はそんな兄の姿を見て素直に馬鹿だな、と思う。
そんなことしなくても日本という法治国家に住んでいる以上、警察や弁護士、果てはマスコミを使った社会的制裁でどんな悪でも手痛い一撃を加える事が出来るのだ。
霧果には浩太の生き方がまるで理解出来なかった。
学が無いからと言って暴力に頼り、守るべき弱者を恐れさせるその矛盾した姿に。
自分は絶対にこんな無様な存在にはならない。正義の味方気取りの無法者には。
およそ3時間前までは、そう思っていた。
◇
「……え?」
繁華街の路地裏に5人の男が倒れ伏している。
派手な髪色に顔の至るところに開けられたピアス穴。いわゆるストリートギャングという存在だ。
その傍らで、一人の少女がガタガタと怯えている。霧果と同じブレザーの征服を身に纏ったツインテールの女子高生。東条ミカ。
彼女は中学からの付き合いであり、テスト前は図書館で勉強会を開いたり、休日にはショッピングモールに遊びに行く霧果にとって一番の親友だった。
帰りの途中、霧果はギャングたちに捕まるミカの姿を見つけた。ミカは目に涙を溜めながら周りに助けを求めていた。
しかし、通行人は関わりたくない一心で彼女の訴えを無視した。警察に通報する素振りすらみせない。
ミカは霧果の存在に気付ておらず、霧果にはその場を逃げ出すチャンスがあった。
ミカに見つかれば名前を呼んで助けを乞われ、ギャングたちの獲物が一匹増えてしまうだろう。
だから、霧果は目を逸らし、一歩後ろに下がった。
(そ、そうだ、お兄ちゃんを呼ぼう。お兄ちゃんならこれくらいの人数余裕で……!)
忌み嫌っているはずの兄の暴力を頼ろうとするほど、霧果は混乱していた。
そもそも今から兄を呼んで間に合うものだろうか? 相手は大人だ。もし車を使ってミカを連れ去られたら勝ち目がない。
葛藤している霧果の耳に紙鉄砲のように鋭い音が聞こえてきた。
それがギャングの一人がミカにビンタした音だと気づくのにそう時間はかからなかった。
泣きわめいていたミカの顔が、腫れの赤と血の引いた青の二色に染まる。
そんな親友の姿を見て、霧果の中で何かが切れた。
そこまでは、覚えている。
そこで霧果の意識は一旦途切れ、次の瞬間には5人のギャングは湯気を噴いて倒れていた。
ミカの怯えた視線が突き刺さる。自分を襲おうとしたギャング、ではなく。そのギャングを炭化させた霧果に対して。
「なにこれ……。電気……? なんで私の身体から?」
「い、いやあああああああああああっ!」
ミカは自分を救った親友に礼も言わずに走り抜ける。
当然だ。霧果は今、人を殺したのだ。
今さらのように、肉の焦げる臭いが霧果の鼻を衝く。
「う、うぉぇええええええっ!」
手段はわからないが、自分が人を殺したという事実を察した霧果は酔っ払いのように吐瀉物を地面にぶちまける。
焼死体の異臭と胃液の臭いが混じり、さらなる吐き気が込み上げるが霧果はそれを抑えて顔を上げる。
「……え?」
霧果の目の前には大きな窓ガラスがあり、光の反射で自分の姿が映されている。
今まで大事に伸ばしてきた自慢の黒髪が、紅みがかった白に染まっていく様子が霧果の目に留まった。
◇
「うっ……ひぐっ……! お兄ちゃんの真似なんかするんじゃなかった……! お兄ちゃんの馬鹿ぁぁぁぁぁあああああああっ!」
決して浩太のせいというわけではないのはわかっているが、それでも霧果は寒空の下、町を見渡せる高台の柵を掴みながらそう叫んだ。
あの後霧果は浩太の予想通り髪を真っ白に染めた事で両親に叱られた。
誰かに迷惑をかけるような非行ではないため、比較的優しめな口調ではあったものの、夕方の出来事で精神を摩耗していた霧果にとっては家を飛び出して逃げたくなるほどの苦痛だった。
今まで優等生として生きてきた霧果が初めて犯した罪、殺人。
いくら親友を助けるためとはいえ、明らかに超えてはいけない一線を超えてしまった。
どうしてあの時警察を呼ばなかったのだろう。
どうしてあの時周りの大人を頼れなかったのだろう。
後悔の言葉が頭をぐるぐると駆け巡る。
「明日からどうしよう……。ミカになんて話しかければ……」
そもそもミカは明日学校に来るのだろうか。
今日の出来事で霧果を怖がって不登校になってしまうのではないか。
最悪の場合、ネットに『戌亥霧果は雷を使い人を焼き殺す化け物』なんて情報を流される可能性もある。
「そう言えば、なんだったんだろ。あの雷。私の身体から出てたし、髪も変な色になっちゃったし……意味わかんない」
罪の重さに気を取られて、その時に起こった不可思議な現象を今まで忘れていた。
人間の身体から致死量の雷撃を放ち、一瞬のうちに髪の色が変わる。そんな非現実的な出来事が霧果の身に起こっていたのだ。
霧果は周りを確かめる。深夜0時。人はいない。
意識を右手に集中させ、公園の公孫樹に手のひらを向けた。
秋になると大量の銀杏を落とすこの樹を霧果は嫌っており、これなら実験台にしてもいいかと判断した。
すると、驚くことに霧果の全身が紅く発光し、轟ッ! と力強い雷鳴と共に公孫樹は炭の塊になった。
「は、ははは……」
あまりに異常な光景にもはや笑いしか出なくなった。
きっと兄に見せたら大層羨ましがることだろう。あの愚兄は子どもの頃からヒーロー番組が大好きだった。
彼が何かしらの力を手に入れたら、きっとヒーローを自称し始める事だろう。
「おやおや、晴れだと言うのに雷鳴が聞こえたから来てみれば、これは大参事ですね」
突如聞こえた男の声に霧果はビクッと身を震わせた。
周囲に人がいないのは確認したはずだが、何故かそこには白衣を纏った眼鏡の男性が立っていた。
言葉から察するに霧果が力を使ったところは見られていない。そう踏んだ霧果は慌てて言葉を紡ぎ出した。
「あ、う、そ、そうですよね~! 私も散歩中にいきなりピカッってなって、眩しってなって、ドカーン! ですもん! ビックリしましたよ~! ままま、まさか雲も無いのに雷が落ちるなんて~! いやー怖いなー! また異常気象が起きる前に私も帰らなきゃ~!」
「その心配は無いですよ。貴方がちゃんと力を制御出来ればね」
バッチリ見られていた。
霧果の額には先ほどとは比にならないほどの汗が流れており、何か言い訳をしようと口を開閉している。
そんな霧果とは対称的に、白衣の男は酷く落ち着いていた。
焦げた公孫樹に手を当て、何かを読み取ったような表情を浮かべる。
「ふむ……自力で覚醒しただけあって質のいいエーテルだ。だけど、これじゃあまだまだ人間の領域。怪人態に成るためには更なるエーテルの投与と調整が必要、と……」
白衣の男は公孫樹と霧果を交互に見ながら何かをブツブツと呟いている。
逃げた方が吉か、それともなんとかして誤魔化すべきか。悩んでいる霧果に向かって男は歩み寄っていく。
「夕べの不審死事件。犯人は貴女ですね?」
「――――っ!?」
心臓を冷えた手でわしづかみにされたような悪寒が霧果を襲う。
逃げても無駄だ。弁解も不可能。この男は真実を全て知っている。
「あ、ぁ、あの……!」
震える唇を必死に動かし、倒れるように両膝を地面についた。
「だ、誰にも言わないでください……! お願いします! 私に出来ることなら何でもします! 家からお金盗んできます、足りなければ、か、身体で払います! だだ、だから、この事は誰にも……!」
それは人生初めての土下座だった。
普段の霧果だったらこんな恥ずかしい恰好プライドが邪魔して出来ないだろう。
しかし、聡い霧果には自分を待ち受ける悲惨な未来が容易に想像できた。
16歳にして前科一犯。穴の開いたガラス越しに見える家族の顔。法廷で相見える怒り狂った遺族。雷の力に目を付けた研究所の手術室。犯罪者相手に行われる拷問のような実験の数々。
その痛み、苦しみ、恐怖が、霧果の最も近くまで迫ってきていた。
「いいですよ。黙っててあげても」
「ほ、ほんと、……いやぁぁぁぁぁああああああっ!?」
言葉に釣られて顔を上げると、そこに白衣の男の姿はなく。代わりに白い肌の怪人がギロリと霧果を睨んでいた。
「元々貴女を国に引き渡すつもりはないのです。せっかくの素材だからな。絶対に逃がさん」
「ば、化け物……! 助けて! お兄ちゃん! 助けてぇぇぇぇぇぇ!」
「兄がいるのですか。素質が遺伝するのか定かではないが、そちらも少し注目しておこう」
酸素を失った血のように紅黒い光が白い怪人から放たれ霧果を包み込む。
「ひ、あ、ああああああああああああああっ!」
身体に入り込む謎の光に恐怖する。
痛みはない。むしろ気持ちいい。だからこそ、怖い。
(も、もうこうなったら、一人くらい増えたって……!)
霧果は再び右手に雷を溜めて怪人に放った。
そう、力を使ったのだ。Z-LEADのエーテルが体内に残留している状態で、自らの意思で力を使った。
それに呼応するように紅黒いエーテルが全身を駆け巡り、急速に遺伝情報を書き換えていく。
紅黒い皮膚、ハットを深く被った頭部、肩甲骨から生える無数の触手。
クラゲの生物模倣、ゼリーフィッシュ・バイヤードが爆誕した。
「へ……? なに、この手。……っ!?」
霧果は異形に歪んだ自分の姿を確認するより先に、身体の自由を失った。
見えない手に全身を抑えつけられているような感覚。視界には先ほどまでいなかったはずの紫の怪人が映っている。
「それではフォックス……、いや、今は昇格してリゼルだったな。後はよろしく頼みますよ」
「承知致しました。ゼドリー様」
右手、左手、顔全体に計三つの目を持つ狐の怪人が霧果を睨んでいる。
特に額の目、これを見ていると、なんだか意識が遠のいていくのだ。
「貴女はバイヤードとして覚醒したのです。否、新しく生まれた、というべきでしょう。劣等種としての記憶はさっぱりとなくなり、貴女は愚かな人類を間引く存在となるのです」
薄れゆく意識の中、戌亥霧果はここで死ぬのだと察した。
もはや恐怖する余力も無い。
(最期に、ミカを守れ、てよかっ……た……)
それが『人間』戌亥霧果としての最後の記憶。
だかこの時の彼女には知る由もなかった。
この2年後、業を背負ってまで守った親友を、自らの手で殺して皮を被る事になるなんて。





