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抱える大きさは語りきれないだけのこと。

 

 女子列の自己紹介が終わった頃、測ったように授業終了のチャイムが鳴った。教師のこういった時間配分は本当にすごいと思う。

 また五分を挟んで。諸注意や持ち物検査は終わった。クラス内による交流会も終わった。ならば残りの一時間は何をするのだろう。


 ざわり。廊下側の女の子たちがそわそわと落ち着かない様子で窓を見ている。誰かいるのか?

 チャイムが鳴って、明野が教壇に立った。



「三時間目の授業です。三時間目はみんなで校内探索をします。AからEまで各クラス二人ずつで班を作って、五、六年生のお兄さんお姉さんに案内してもらいましょう。それじゃあ、入ってー」



 扉が開いて、前後ろとざっと四十名程の男女が入ってきた。小学生なんて皆同じようなものだと思っていたが、こうして見ると意外と体格の差がある。教室は広々としているので、四十人入ってもまだ余裕があるようだ。

 どうやら、これからAからEまで二名ずつ、一年生だけで合計十人の班を作って、そこに五年生一人六年生一人を追加、計十二人で校内を回るらしい。男子には男子が、女子には女子の上級生が付くようだ。

 今日は一年生のみの授業日だった筈だから、この四十名の男女たちはわざわざこの時間の為だけに登校してくれたのだろう。ご苦労様だ。

 ちなみに、ここ、華奥学院はマンモス校だ。一クラス約四十名。一学年の合計人数は二百を越える。そこから、中等部での男女分けを経て一定に減る――かと思いきや、中等部外部入学、所謂中学お受験のおかげでそうでもない。高等部とは違って、中等部は外部からの受け入れを声高に声明しているのだから。



「こんにちは」


「あ、こんにちは」



 ぼう、とお兄さんお姉さんに引かれて、一部引いて廊下へ飛び出していくクラスメイトたちを眺めていると、一人の少年に声を掛けられた。

 さっぱりと切られた黒髪が美しい少年だ。六年生だろうか。色っぽい涙黒子を持つ彼の顔造形は、子供ながらに整っていると思わせる。素直に綺麗だ。これはイケメンになる。というかもうイケメンだ。



「まだ誰にも声かけられてない? よかったら一緒していいかな?」



 爽やかに笑う少年に肩を抱かれる。ちなみに、真っ先にペアを求めてくると思われた祁答院はトモナガに拉致されて行ったのでもうこの場にはいない。その他のクラスメイトたちは、笑顔の一つも浮かべない依流の仏頂面を見て怯えて逃げていった。



「名前聞いていい? 僕は大道寺(ダイドウジ)。こっちは瀬長(セナガ)



 涙黒子の少年――大道寺の後ろに、眼鏡をかけた少年がいた。此方も既に出来上がった顔立ちをしている。美少年二人からお声がかかるとは……流石、精巧人形と名高い依流の美貌だ。鼻で笑ってしまいそうだ。



「僕はきのみやいずるです。よろしくおねがいします」



 笑顔を返すこともなくただ頭を下げる俺に、二人は一瞬呆けると、困ったように笑った。



「いずるくんか。いずるくんは人見知りなのかな? それとも僕の顔がこわい?」



 気を遣っておどける大道寺に、ここは穏便に、無理にでも笑うべきなのかと頬の筋肉を引き攣らせたその時。



「だいどうじお兄さん。せながお兄さん。ぼくもごいっしょしていいですか」



 空気に触れる鈴みたいな透き通った声。振り返らずともわかった。



「ほしなくん……」



 幼稚園や保育園を抜けたばかりにしては大人っぽいクラスメイト。ほしな、りょうくんだ。



「ほしな……ああ、もしかして保科靜(シズ)の」


「はい。いつも姉がおせわになっております」



 ペコリと頭を下げたホシナは、上級生たちの前へと立った。



「たしか、涼しいのにすいの方で凉だったか。……ああ、ごめん。まだわからないね」


「いえ、だいたいのかんじはわかります。たもつにきょうかのか、にすいのすずしいでほしなりょうです。よろしくおねがいします」



 保つに教科の科、にすいの凉しいで保科凉(ホシナリョウ)……上手い紹介だ。姉に教わったのだろうか。そして大道寺のこの口振りからして、華奥学院初等科の在学児童に保科の姉がいるのか。



「もう漢字がわかるのか。さすが保科の弟だな。なら、僕は大きい道の寺で大道寺、こっちは浅瀬の瀬に長いで瀬長だよ」



 再び、保科と俺へと目線を合わせて紹介された。丁寧な人だ。ノリもいい。これは慕われるだろうな。



「いずるくんは……」


「くるのほうのきのみやで、いらいのいにながれるです」


「来る……来宮依流くんか。依流くんも自分の漢字がわかるんだね。今年の一年生はゆうしゅうだな」



 誉めるように頭を撫でられ身じろいだ。俺の周りの大人は、良くも悪くも依流を子供扱いしようとはしないので、何だか新鮮だった。



「それじゃあ、Bクラスへ行こうか」



 手を取られて保科共々廊下へ向かう。

 ――視線。足を止めた。教室内にクラスメイトは殆ど残っていなくて、障害なく寄越される視線の先を辿れた。

 ――やっぱり。

 明野先生が俺を見ていた。

 悪意とかは感じないけれど……本当になんなんだ。


 明野の視線から逃れるようにして保科と並ぶ。ああ、そうだ。



「ほしなくん、お姉さんいるんだ」


「え? あ、うん。いま四ねんせいだよ」



 俺から話し掛けられると思っていなかったらしい。少しだけ、名の通り涼やかな瞳を瞠若させた保科は、ふんわりと笑って答えた。

 四年生ならば歳は三つ違いか。この年で中性的な美貌を持つ保科の姉だ。それは美しいに違いない。



「……仲、良いの?」



 呟いて、自分で驚いてしまった。こんなことを聞いて何になるというのか。……依耶との兄弟ごっこの手本にでもするつもりか。



「えっと、うん。なか、いいよ。がっこうのことも、しずがおしえてくれるんだ」



 ちょっとだけ照れ臭そうにはにかんだ保科は、前方を歩く大道寺たちを一瞥すると、内緒話をするように顔を寄せて耳へ手を当ててきた。



「あのね、いずるくん」



 本当に、なんと表現すれば良いのだろう。

 彼の声は心地好すぎる。ただ名を呼ばれただけなのに、甘えられたような、甘やかされるような、そんな不思議な響きを持っている。

 うっかり聞き惚れながらも首を傾けて。

 大道寺と瀬長が目だけを寄越して面白そうに見ている。保科は気付いていない。



「上のがくねんの人はね、お兄さんお姉さん、てよばなきゃいけないんだって。わすれたらおこられるんだよ」



 クスクスと、愉快だと笑いに乗せて告げる保科に、音もなく近付いていた影が肩へ巻き付いた。



「――て、靜が言ってたって?」


「わっ、だいどうじお兄さん!」


「こわいなあ。靜のことだから、僕たちのことボロクソ言ってそうだ」



 親しみの見える呼び方に、彼と保科の姉、シズが知り合いであることが読み取れる。

 六年生と四年生がどうすれば知り合いになるのだろう。クラブとかだろうか。



「靜はかしこいからね。サロンでもいつもみんなの先生役だよ」


「さろん?」


「あれ、サロンの話はまだ聞いてなかった?」



 鸚鵡返しにした保科に、「サロンっていうのはね……」と説明を始めようとした大道寺を、止めたのはこれまで影のように添っていただけの瀬長だった。



「大道寺、B組ついたよ」



 開放された扉にBのプレートが埋められている。

 あれ。大道寺“お兄さん”じゃないのか。まさか彼の方が六年生か?



「ん? ああ、ごめんごめん。二人の友達はいる?」



 顔だけをひょっこり扉から覗かせて、B組内を見渡す。友達とはいっても、出だしが遅れた為にもう児童は殆ど残っていない。そんな中。



「あのこ……」



 保科が教室の一角を指した。茶色い髪だ。旋毛が見える。一人だけ席に座ったまま俯いている。

 隣にはB組の担当教師らしき男が立っていた。



「お友達?」


「ううん。しらないです。どうしたんだろう」



 ただ気になっただけらしい。――確かに、気になる。体調が悪いのだろうか。それとも参加する気がないのか。そんなの俺だってサボりたい。



「佐藤先生」



 大道寺が真っ先に目を向けたのは、少年ではなく隣の教師だった。

 明野とは違い大柄だ。けれど、垂れた目と絶妙な微笑が穏やかな印象を与えていた。例えるなら、童話の中の森のクマさん、といったところか。



「その子、どうしたんですか? 具合悪いなら保健室つれていきますよ?」


「ああ、大道寺か。いやな、うーん……そうじゃなくて、……人見知りが激しいみたいなんだ。誰に声かけられても頷いてくれなくてなあ」



 みんな気にかけてくれたんだけど。そう苦笑する先生だが、座る彼はまるで聞こえていないかのように俯いたままだった。



「こんにちは」



 大道寺がにこやかに少年の顔を覗き込む。少年は答えない。



「お名前聞いていい? 僕は大道寺だよ」



 少年は答えない。すっかり困ってしまった面々は、縋るように佐藤を見上げた。



「あー、朝霧七瀬(アサギリナナセ)だ」


「あさぎりくん! どんな字かなー?」



 再び大道寺が構うが、やはり少年は答えない。というか反応がない。まさか寝てないだろうな。

 懸命に返答を得ようと奮闘している大道寺たちを尻目に、暇になった俺は目だけで少年を観察していた。

 根元まで綺麗な茶髪だ。天然物なんだろうな。視線を下げる。――あ、児童証。児童証には朝霧七瀬の名と共に仏頂面の写真があった。今と同じ茶色の髪に明るい緑の目。外国の血が入っているようだ。名前は純日本人なのに。確か入学式の時にも緑の目の子供と会ったな。あの子は黒が強かったけど。

 児童証は膝の上に少年の両手と共に乗っている。というか握り込まれている。よく見れば微かに震えている。おい、怯えてないかこれ。



「ねえ」



 ビクリと朝霧の肩が震えた。聞こえてはいたのか。



「目を、きにしてるの?」



 再び、肩が震えた。これは肯定と取っていいのだろうか。



「きれいだとおもうよ」



 素直に、そう思った。写真でこれだけはっきりとした色が映っているのだ。直に見られたならばどれほど美しいことだろう。



「きれいだよ」



 大道寺たちが何のことだと俺を見て。先生も不思議そうに俺を見て。


 あ。



「……あ、ぼん?」



 ――緑色が俺を見た。


 ていうかぼんってなんだ。



「きれい?」



 きょとりと、真ん丸の緑が俺を見上げている。本当に綺麗な色だ。緑がかってるとかじゃない。純粋な緑なのだ。



「うん。きれいだよ」



 言葉の意味を理解したらしい大道寺たちも、肯定を込めて頷いている。



「…………」



 やっぱり不思議そうな顔をした朝霧少年は、ふわふわと宙へ手を伸ばした。……ん? 俺に向けてるのか?

 そっと身を寄せてみる。……んん?

 髪を触られた。物凄く見られている。髪で遊ばれている。楽しそうだ。――あ、もしかして。



「おそろいってこと?」


「おそろい!」



 パァと笑顔が弾けた。

 なんだろう。同類判定された気がする。この学院では茶髪なんてそこまで珍しくもないだろうに。これまで、天然の茶髪を持つ所為で肩身の狭い思いでもしてきたのだろうか。



「お、いずるくんには心開いてくれたみたいだね」



 全敗中だった大道寺が嬉しそうに此方を見ている。佐藤もこれで安心だとばかりに息を吐いていた。――あー、この流れは。



「それじゃ、B組からはアサギリくんだね!」



 そうなりますよね。



「もう一人は……」


「いや、いいよ。元々このクラスは三十九人だから。朝霧の性格的にも少ない方が落ち着くだろ。どうだ? 朝霧」



 朝霧は頷いた。――俺の腰にへばりつきながら。



「カナちゃんがみたらしっとしそうだね」



 保科が心底楽しそうに笑っている。この子、穏やかそうに見えて実は愉快犯か。



「よろしくね、アサギリくん。――て、ありゃ」



 朝霧は、握手を催促する大道寺から逃げて俺の背へと回っていた。

 A組からは無愛想故あぶれ者の来宮依流。B組からは極度の人見知りらしい朝霧七瀬。この調子では、時間的にもクラスの残り者たちが集まることになりそうだ。――なんて、思っていたら案の定。



「よーし、Eクラスまで集まったね。さあみんなで自己紹介しようか! 僕は六年A組の大道寺」


「五年C組、瀬長」


「えーぐみのほしなです」


「……えいぐみ、きのみや」


「…………」


「…………」


「…………」



 喋らない。誰も喋らない。どころか視線すらも合わない。見事にコミュ障な子供たちが集まってしまった。これには大道寺も苦笑するしかない。

 A組からは来宮依流と保科凉。B組は朝霧七瀬。C組も、仲良し三人組が三人でついていってしまった為にあぶれた天宮理音(アマミヤリオ)一人。D組からは有馬航平(アリマコウヘイ)沖一心(オキイッシン)。最後、E組は木下陽(キノシタヨウ)井田川和昌(イダガワカズマサ)。以上八名。クラスの残り者と聞かされても納得の無愛想っぷりだった。

 なお、この調子で自己紹介などができる筈もなく、全員に児童証を提示させた結果、把握できた名前たちだ。



「じゃあとりあえず、どこか行ってみたいとこある人ー? おっけー、なしだな! じゃあてきとーに連れてっちゃうからねー」



 とうとう大道寺も諦めの境地に入ったらしい。校内探索は殆ど大道寺の独断によって進められた。が、協調性はなくとも反抗もしない子たちだ。朝霧が俺から離れないだとか、沖が図書館を気に入りすぎて動かなくなっただとか、細々としたアクシデントはあったが、まだ、比較的まともに進んでいた気がする。――天宮が突然立ち止まり泣き出すまでは。



「リ、リオくん? どうしたの? あ、お腹痛くなった?」



 あまりに突然のことだった為、教室へ引き返す途中の廊下で右往左往してしまう面々。天宮もまた、朝霧同様全く話さない子だったので、原因を推測しようにも難しい。

 どうにも立ち行かなくなってしまった大道寺は、タブレットのような物を取り出してどこかへ連絡を取り始めた。


 え、なんだそれ。子供に持たせるようなもんじゃないだろ。生前の『俺』だって初めてケータイ買って貰えたの中学入ってからだぞ。お坊っちゃまに生まれた今だって、普通のキッズスマートフォンなのに。

 思わずブルジョワと一般家庭との格差に愕然としてしまったその時、聞こえた。――聞こえてしまった。か細い声が。


 シッコ、と呟いた天宮の声が。


 天宮の小さな手は、シャツの裾を握り締めながら心做しか股を押さえているように見える。膝小僧は擦り合わされ、何かから耐えるように力んでいた。


 シッコ……。そしてこの仕草……。

 脳裏に、かつて幼い頃の妹がやらかした数々の粗相の内のある一つが浮かんで、サァ、と蒼くなった。


 おいおい……トイレトレーニングどうなってんだよ。



「あまみや! こっち」


「えっ! いずるくん!?」



 大道寺が通話に意識を向けている間に、天宮の手を取って走った。今度は、突然手を放された朝霧の方が泣き出しそうな顔をしていたが、構っている余裕はなかった。

 確かこっちに……こっちにあった筈だ……! ――トイレが!



「うえっ、ひっ、く、ぅ……しっごぉぉ……っ」


「わかった、わかったから! たのむからもらすなよ!?」



 柔らかな口調を心掛けていた外面を取っ払って男子トイレへ向かう。ああ、くそ。スリッパだと滑る。逸そ脱いでやろうか。

 漸く見えた青い男の子マークの扉。授業も終わりに差し掛かっていた為、用を足している教員や児童がいる筈もなく、無人のそこで便器の前へと天宮を立たせた。



「もれちゃうぅぅ」


「ならズボンぬげ! はやく!」


「でぎないぃぃぃ」


「ああ!?」



 すっかりパニックになってしまっているらしく、ボタンとファスナーが上手く下ろせない様子だった。



「――~っあー、もう!」



 しゃがみこんで、天宮のズボンへと手を掛ける。何が嬉しくて男のシモの手伝いをしてやらなくてはならないのだ。妹の世話をしていた経験があるとはいえ、男と女では勝手が違う。


 ズボンを下ろして。パンツをずらして。


 ――ジョロロロロロ。



「……はー……」


「うっ、うえ……っ」



 間一髪。制服を一日目で台無しにする惨事は避けられた。――他人の男のちんこを便器に向かって支えるなんて珍妙な体験をするはめにはなってしまったが。



「なんでだまってたんだよ」



 天宮は答えない。返ってくるのは、ヒック、ヒック、といった嗚咽ばかりだ。驚きやらショックやらが混ざって涙が引っ込まなくなってしまったらしい。



「はずかしかったのか?」



 子供に有りがちな理由を聞いてみると、小さく頷かれた。だからって……。

 そんな会話をしているうちに小の方は引っ込んだらしく、幼い性器がへにゃんと力をなくしていた。



「あとはもう自分でできるな?」



 再びコクンと頭が揺れるのを見て、彼のそれから手を放した。


 ――それにしても。

 彼のこの容姿に、股に男の証がついているという事実に凄まじい違和感がある。

 というのも、天宮理音という少年は、それはもう完璧な美少女顔だったのだ。制服が男子用であることが不思議なくらいだ。どころか、ズボンを履いていても女の子に見える。今はこうして彼の象徴を見てしまったおかげで性別の疑いようはないけれど、仕舞われてしまうとやっぱり女の子に見える。中性的とかいう問題じゃない。

 ふわふわで内側へと巻き付いた黒髪は、女子の言うボブカット? とやらに見えるし、瞳も大きくて睫毛も長くて、このまま成長していけば誰もが振り返る清純派美少女になるだろうことが予想できる。男だが。

 なんだってまあ、男に生まれてしまったのか。神様の悪戯とは時に残酷である。――訂正。神様は常に残酷だ。



「いずるくーん。大丈夫ー?」



 外から大道寺の声が聞こえた。わざわざ追い掛けてきてくれたらしい。何処と無くのんびりと聞こえる声色が腹立たしいが、迷惑を掛けてしまったことも事実。身形が整った天宮を連れて扉を出る。



「おー、間に合ったんだ。よかったよかった。よくトイレがまんしてるってわかったね」



 待ち構えていた大道寺がゆるりと笑う。他の人間はいない。先程の場で待機しているのだろうか。



「そういうしぐさしてたので」


「へえ。そんなのわかるんだ。あ、そっか。たしか来宮さん家は男兄弟だったっけ。じゃあ弟がいるんだね。通りでしっかりしてるわけだ」



 ――弟。その単語に柄にもなく動揺した。


 依耶のことなんて、ちっとも思い出してない。我が儘を言う姿も、駄々をこねる様子も、トイレを我慢する仕草だって、連想する先にあるのは全て『妹』だった。――依耶の子供らしい姿なんて、殆ど見たことないのだから。



「さすがだね。お兄ちゃん」



 大道寺に褒美とばかりに撫でられて、思わずはたき落としてしまった。気持ち悪い。無性に叫び出したい気分だった。

 微妙な空気になってしまったそこに、駆け足の音が近付いてくる。瀬長だ。



「とりあえず、みんな教室おくっといたぞ」



 俺と天宮以外の一年生は瀬長の案内によって教室へ戻されたらしい。ご苦労様、とだけ瀬長へ掛けた大道寺は、何事もなかったかのように俺を見た。



「うーん、とりあえず、……そのままじゃ教室に戻れないよね」



 え?

 わけがわからず無防備に大道寺を見上げた俺に、苦笑した彼は俺のズボンの裾ら辺を指して。


 ――あ。


 天宮のズボンは守られたが、俺のズボンは一日目にして洗濯行きになってしまったらしい。

 依流の小さな手では支えきれなかったか……。



「替えとか持ってきてないよね? 初日で体育があるわけないし。ここから保健室はちょっと遠いか。近いのは……」



 大道寺が再びタブレットを取り出した。思わず凝視してしまう。俺の視線に気付いた大道寺が、ああ、これが気になる? とタブレットの画面を掲げた。AからEまでの色付きのボタン枠があった。



「今回、教師の目から離れて行動するにあたって、六年生みんなに配られたんだよ。タッチ一つで君たちの担任の先生につながるから」



 個人の私物ではなく学校からの配布物だったようだ。

 それにしても、その時限りとはいえ二十人前後の人間に渡せるほどタブレットを用意しているとは。時代のデジタル化に驚けばいいのか金持ち学校の資金散布っぷりに戦けばいいのか。



「あ、明野先生ですか?」



 コールをかけていた先は明野だったらしい。繋がった相手に、大道寺は事も無げに告げた。



「ちょっと問題がおこりまして来宮くんをサロンにつれていこうかと思っているのですが。D組の天宮くんも同じなのでよければD組の先生にもお伝えください。帰りの会には間に合わないと思うので」


「おい! 大道寺!」



 瀬長の非難するような声に、天宮と共に小首を傾げてしまう。

 サロン。先程も話題に上がっていたが、あのサロンか。学校にサロンがあるのか。どんな使用用途なんだそれは。それとも単純に応接室を指しているのか。

 通話を終了した大道寺に、瀬長が言い募る。



「サロンは関係者以外立ち入り禁止だろ? なに考えてるんだよ」


「ケースバイケースだよ。制服のよびなんてサロンか保健室くらいしかないだろ? それに」



 言葉を切った大道寺は、俺たちを見ると、それはそれは自信たっぷりの笑みを浮かべた。



「どうせ、この子たちはサロン側の人間だ」



 ……どういう意味だ?



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