1 蘇芳と舞
『これから登山のシーズンですけどね。山に行く方には是非、雷にも気を付けて頂きたい。先日も長野で遭難中だった男性が遺体でみつかったんですけどね。警察が調べると死因は落雷で、亡くなったのが遺体発見の前日のことだったらしいんですよ』
『えー! じゃあ雷に撃たれなければ助かったってことですか?』
『そうそう。しかも男性の側にはライチョウの羽が落ちていたらしくてね。ライチョウって雷を避けるって昔から言われていますけど、どうもやはり迷信だったみたいですね』
『悲劇ですね。そんな悲劇を起こさないために登山の際は天候の変化にも気を付けて無理しないことが大切なんですね』
『はい。雷は高いところに落ちますからね。くれぐれも高い木の下に避難などしないように。……えー、ではここでお便りを――ガチャ、ガチャ、ビー……』
流れていたラジオは局が変わり、女性ミュージシャンのしっとりとした歌へと切り替わる。小さなラジオを机の片隅に置き直すと浮かない顔でアヤメは頬杖をついていた。
その様子を奏斗は遊びに来た動物たちにごはんをあげながら、心配そうに見つめている。
「アヤメさん、大丈夫?」
「べつに。大丈夫だけど?」
アヤメはつれなく答えた。
奏斗が心配するのには理由があった。アヤメがラジオを流すときは決まって機嫌が悪い時だ。
あれから幾度か蘇芳という妖狐から梅が送られてきたが、彼女はその度に不機嫌になり、ラジオをつける。トロトロが言うにはラジオを流すと色々な話しが耳に入るので気が紛れるらしい。
「もしかして蘇芳って人と関係があるの?」
「蘇芳は人じゃないわよ! それに私は元気だって言っているでしょ!」
ぴしゃりと言われて奏斗は気を落とした。『蘇芳』のことを気にしていたのは奏斗の方だった。トロトロがアヤメの元夫だなんていうので、蘇芳のことがずっと心に引っかかっていたのだ。
するとそのトロトロが奏斗のポケットから顔を出す。
「お、蘇芳が来たぜ。女を連れていやがる」
アヤメはさっきつけたばかりのラジオを乱暴に叩いて切った。
「そんなこと分かっているわよ!」
奏斗がごはんを上げていた動物たちもその迫力に窓の外へと逃げ出してしまった。
「機嫌悪いなぁ。瘴気を出すのだけは勘弁してくれよ」
トロトロがつぶやいた。
すると間もなくしてドアが静かに開き、背の高い男が入ってきた。
「やあ、遅くなったね」
キザっぽいその男は着物を着て、見た目は若い華道家とでもいうような雰囲気だ。キツネらしくつり目ではあるが、その甘いマスクは多くの女性を虜にしてきたにちがいない。
しかし、奏斗はその男よりも、その後ろにいる控えめな女性に驚いて声を上げた。
「舞ちゃん?!」
それはまちがいなく奏斗の幼馴染の舞だった。
「久しぶり奏斗君、アヤメちゃん」
舞はアヤメとも面識があった。彼らが小学生だった頃、アヤメも小学生に化けて少しの間だけ同じ小学校に通っていたのだ。
「久しぶりね、舞」
そう言ったアヤメは先ほどまでの荒ぶる姿が嘘だったように穏やかな笑顔を見せている。
「姫君は私に挨拶はないのかな?」
蘇芳がアヤメに言うと、アヤメはそれを無視した。代わりに奏斗が彼に話しかける。
「あなたが蘇芳さんですか?」
「いかにも私が蘇芳だよ」
そう言いながらも蘇芳はアヤメのことだけをうっとりと見つめていた。
「でも何で舞ちゃんが蘇芳さんと一緒に?」
「君の働きが素晴らしかったからね。九重会は本格的に人間を組織に入れることに決めたのさ」
蘇芳の視線はまだアヤメに注がれていた。すると、とうとうアヤメはキッと蘇芳を睨みつける。
「気持ち悪い目でジロジロ見ないでよ!」
アヤメに一喝されたというのに蘇芳は嬉しそうに笑みをこぼした。
「相変わらず気が強い。気が強い女は美しい。すなわち美しい私の妻にふさわしいということだね」
「そういうところが気持ち悪いって言っているのよ!」
アヤメは鳥肌が立ったのか自分の腕をゴシゴシとさすっていた。
「蘇芳さんはアヤメさんが好きなの?」
奏斗がトロトロに聞くと、トロトロは蘇芳の様子を見ながら答えた。
「好きっていうか蘇芳は女癖が悪いんだよ」
小声で言ったトロトロだったが、蘇芳の冷たい視線を感じるとポケットの奥へと逃げ込む。
「ちょっと、トロトロ」
奏斗がポケットの奥をのぞき込むと、丸い目が少し怯えているようだった。
「悪いが俺はこれ以上話せない」
隠れてしまったトロトロの代わりに舞が蘇芳について話し出す。
「蘇芳様はね、アヤメちゃんとヨリを戻すために87人いた奥さんと全員別れたんだよ」
「87人?!」
奏斗は驚いて声を上げた。
「そんな驚くことじゃないさ。昔は人間だって一人の男に何人も奥さんがいたんだよ。でも僕の奥さんたちは気が強いからね、ひとりひとりと話をつけるのに何百年もかかってしまったよ」
「いくら多くても限度があるでしょ! しかも舞に『蘇芳様』なんて呼ばせているの? 本当にありえないわ。舞も気を付けた方がいいわよ。こいつの女好きは筋金入りだから」
アヤメは全身で嫌悪感を露わにしていたが、それでも蘇芳は気にしない。
「ふふ、その心配はないよ。舞はおとなしくて気が弱いからね。生憎私の好みではないのさ」
アヤメはできるだけ蘇芳から離れるようにして軽蔑の目を向けた。
「そんなことより早く仕事をしましょう! 早く済ましてとっとと長野へ帰ってほしいわ」
アヤメが言い放ったその言葉に食いついたのは意外にも奏斗だった。
「舞ちゃん長野支所なの? 長野だったらたくさん動物もいるよね! もう熊には会った? ねぇ、舞ちゃんはどうやって九重会を知ったの? 僕はね――」
奏斗は久しぶりに会う舞と話したくてしょうがないようだった。アヤメは見たくもないとでもいうようにそっぽをむく。
「人間には人間がお似合いだね」
いつの間にか隣に来ていた蘇芳がアヤメに囁いた。
「あんた、何企んでいるのよ」
「私は『天の思し召し』通りに動いているだけだよ。君だって分かっているだろう?」
アヤメはチッと舌打ちをする。
「分かっているわよ」
舞との話に夢中になっていた奏斗は、ふとアヤメと蘇芳が2人だけで話していることに気が付いた。あんなに蘇芳を嫌がっていたアヤメだが、2人だけで話している時には真面目に話し込んでいる。
ふたりで並ぶ姿は美男美女で文句の付けようがない。
「なんだかんだあのふたり、仲良しよね」
舞の言葉にいつも穏やかな奏斗の心がざわめいていた。