2 指令
「おい、大丈夫か?」
アヤメはトロトロの声にゆっくりと目を開けた。そこは森林公園ではなく見慣れた事務所の景色だった。手元には鍵ではなく溶けたチョコの体をうねらせながら丸い目で見上げるトロトロの姿があった。
「お前さんが寝るなんて珍しいな」
「うん、風も光も何だか心地よくて」
アヤメは目を細めながら窓を見る。開け放たれた窓からは温かな光が差し込み光の柱を作る。
「せっかく心配して来てやったってのに。余裕だな」
「心配? 私を疑っていたの間違いでしょ。生憎、私の気持ちは変わらない」
「本当にやるんだな」
「ええ、準備も整ったわ」
彼女は手元にある書類をトントンとまとめた。
「手作りの指令書か。同じ手作りならクッキーとかのがあいつは喜ぶだろうけどな」
「クッキーなら舞の方が得意よ」
皮肉への返答にトロトロは呆れ顔をした。
「昔のお前さんなら冗談でもそんなこと言わなかったぞ」
「そうね、でも不思議と気持ちが落ち着いているのよ。こんな穏やかな気持ちになるのは初めてだわ」
トロトロは大きなため息をつく。
「お前さんもつまらない奴になっちまったもんだな。欲のない奴は面白みが欠けるんだよ」
アヤメはふふっと笑うと頬杖をつき夢を思い出した。
「欲ね、欲ならあるわよ。2人が何て書いたのか知りたかった」
「ん? 2人?」
トロトロはアヤメの言っていることがわからずに目玉をピョコピョコと上下させた。あやめは微笑んだまま首を横に振る。
「何でもない。トロトロ、奏斗をよろしくね」
トロトロはアヤメと目を合わせずに不満気な顔をする。
「俺は納得いってないけどな……でも、あいつの役には立ってやるつもりだよ」
事務所の外から微かに足音が聞こえると2人は。
「奏斗が来たな。じゃあ俺は行くぜ」
「別にいてくれてもいいのに」
「俺はそんなに野暮な男じゃないんでね」
そう言うとトロトロの体はただの溶けたチョコレートになっていた。アヤメは溶けたチョコレートの入った皿を事務机の引き出しへとしまう。するとそれとほぼ同時に奏斗が事務所へと入ってきた。
「おはよう、アヤメさん」
奏斗が人懐こい笑顔で言うとアヤメも笑顔を返す。
「おはよう、奏斗」
「アヤメさん、今日はいい天気だから裏山の動物たちの様子を見に行って来てもいいかな。最近、何かに怯えているみたいに落ち着きがなくて気になるんだ」
「きっとそれは宅地開発のために大規模な山の切り崩しが始まったからだわ。生き物たちは人間が感じない微弱な振動や山の気を感じとるから」
「人口は減っているのに住宅が増えるなんて変な話だね。それによって生き物たちの住む場所も数も減ってしまっているのに」
「山を切り開かなければ生きていけない人間もいるのよ」
「どうすれば人間も生き物も一緒に生きてけるんだろう」
暗い顔をする奏斗の肩をぽんとアヤメが叩く。
「裏山の様子は私が見ておくわ。今日はあなた宛に本部から司令が来ているのよ」
「僕に?」
奏斗はアヤメからホチキスで止められた書類を手渡された。その一枚目に書いてある1文に彼はその目を輝かせた。
『指令 職員 橘奏斗
異次元の森へ向かい、他支所職員と猫又を捜索せよ』
「アヤメさん! これって僕、異次元の森に行けるの!?」
「そうよ」
アヤメはにっこりと笑って頷く。
「猫又? 猫又って長く生きて妖怪化した猫のことだよね!? 本当にいたんだ!」
奏斗は添付された資料をめくる。そこには簡単ではあるが猫又についての情報が書かれていた。
「小さめの黒ブチ猫で腿に花の模様があるんだね」
「ええ、本体はね」
「本体?」
奏斗はキョトンとし顔を上げた。
「眠り猫って知っている?」
「うん、日光にある眠り猫が有名だよね」
「その猫又の本体は眠り猫のように長い間、眠り続けているの。名は千里。千里は月白のように意識を肉体から飛ばすことができる。千里の肉体は九重会預かりになっていて、彼女の意識が今、異次元の森にあることだけがわかっているわ」
「千里さんの意識を探し出せばいいんだね。でも肉体がないのに見つけるなんて出来るのかな? もしかしてまた橡さんが依代を?」
奏斗が不安そうな顔をする。するとアヤメは首を横に振った。
「それはないわ。橡のような強い妖力の持ち主が異次元の森に関与することはできない。だから千里も意識だけを異次元の森へと飛ばしたのよ。でも長い間本体に戻ることをしないと、こちらの世界の肉体には戻れなくなり、肉体が朽ちれば異次元森にいる意識も消えてしまう。千里はそろそろそのリミットが近づいているの。向こうの世界にも彼女の依代となるものがあるはず。だからその依代を見つけ出して肉体に戻るよう伝えて欲しいのよ」
「そっか、アヤメさんは一緒に行けないんだね」
「ええ、今回の任務は妖狐にはできない。しかも千里が異次元の森で何を依代にどこにいるのかも全くわかっていないわ。ただ一つ言えるのは千里を救うには人間のあなたたちが頼りということだけよ」
奏斗は深く頷く。しかし彼は以前、雷鳥を助けた折に蘇芳が言っていたことを思い出してはっとした。
「ーー確か蘇芳さんは妖怪だけじゃなく人間も異次元の森に行ってはいけないと言っていたはずだよね。僕たちが行っても大丈夫なのかな?」
「妖怪と人間では行ってはいけない理由が違うのよ。妖怪は自然エネルギーそのものだから力の強い妖怪が行けば自然エネルギーが強くなりすぎてしまう。人間はその逆で自然から力を受け取る側だからバランスが崩れるの」
「受け取る側?」
奏斗はアヤメの言い方に違和感を覚えた。
「自然エネルギーが強すぎても弱すぎてもこの世界は成り立たない。妖怪と人間は対極の存在なのよ」
「対極か……」
「出発は3時間後よ。他の人間たちも用意している頃だと思うわ」
資料には各支所の人間の名前が書いてあった。その中にはまだ会ったことない人たちもいた。
「みんなが異次元の森に集まるんだね」
「ええ、異次元の森は途方もなく広いから協力して捜索するのよ。あちらの指揮は月白が取るわ」
「月白さんが!?」
奏斗は嬉しそうにその名を呼ぶ。月白は奏斗にとってとても親しみやすい妖狐だった。
「ええ、月白は意識だけ異次元の森に飛ばすことができるから、あちらでは眠らず頼りになるわ」
「愛美さんも喜んでいるだろうね」
「今頃、遠足に行くみたいに準備をしているでしょうね。お菓子をリュックにパンパンに詰め込んで月白に怒られているんじゃないかしら。あなたもこちらの世界のものはできるだけ持たないように荷物は少なくね」
「うん」
奏斗は用意をするために部屋に戻ると窓辺のひだまりでゆらゆら動いているトロトロの姿があった。
「ずいぶん、早かったな」
「? これから異次元の森に任務に行くから準備するんだよ」
トロトロの言葉に首を傾げながらも呑気に答える奏斗にトロトロはやれやれという表情を浮かべる。ふいにパタンと何かが倒れた音がしてそちらを見るとそれは奏斗の家族が映った写真立てだった。奏斗は写真立てを直すと写真の中で微笑む両親をじっと見つめた。
「最近、会ってないな。異次元の森から帰ってきたら一度帰ろうかな。大人になったアヤメさんを見たら母さんはびっくりするだろうな」
そう笑いながら身支度をする奏斗をトロトロは目で追う。
「姫も難儀な道を選んだもんだ」
トロトロは小さな声で呟く。
「トロトロ、何か言った?」
「いいや、頑張って来いよ」
「うん」
奏斗は笑顔で答えた。
ガチャリ
奏斗は自分の部屋の鍵を閉めると鍵をポケットへとしまった。事務所へ戻るといつもは開け放たれている事務所のドアが閉まっていた。そしてドアの前にはアヤメが待っていた。彼が資料を大事に握りしめているのを見ると手を差し出した。
「それは預かるわ。大したこと書いてないし、紙の情報に惑わされず、あなたが自分の目で見て判断した方がいい」
奏斗は言われるがままにアヤメに資料を渡した。
「心の準備はいい?」
頷くとアヤメは静かにドアを開ける。その先には鬱蒼とした森が広がっていた。奏斗は1歩踏み出そうとしたがすぐにその足を下ろした。
「どうしたの? 奏斗」
アヤメはこの先に行けない。2人の間にある決定的な違いを奏斗はそのままにしたくなかった。
「アヤメさんは人間が自然を受け取る側だと優しく言ってくれたけど、人間は奪う側ってことだよね。そしてアヤメさんは自然に力を与える側だ。僕たち人間がアヤメさんたちに何かお返しすることはできないのかな? 溝をどうにかして埋める方法はないのかな?」
アヤメは少し驚いた顔をしたがすぐに微笑んだ。
「私は優しく言ったつもりはないわ。この世に生まれてきた全ての生き物に一つとして同じものはいない。そしてその全てに意味がある。エネルギーを放出するモノがいれば受け取るモノが必要になる。大事なのはバランスなのよ。そこに善悪はないわ。たまたま受け取るのが人間だったというだけなのよ」
「でも人間は必要以上のものを求めて、受け取りすぎているんじゃないかな」
奏斗は人間が生きて行くために自然が破壊されていることに心を痛めていた。アヤメは奏斗の手を取り握った。
「アヤメさんの手、冷たいね。大丈夫?」
奏斗はその冷たさに心配そうな顔をした。そんな奏斗にアヤメは微笑む。
「ありがとう。こうしているとあなたの手の温かさは私に移っていく。私はもうあなたからたくさんのものをもらった。人間は受け取るだけではなく与えることもできる不思議な生き物よ。受け取ったものをどうするか、誰に何を与えるか。それはあなたたち次第なのよ」
「僕たち次第……そっか、僕も考えてみるよ。自分に何ができるのか」
アヤメは微笑んだ。
「あなたたちならきっと大丈夫よ」
「ありがとう、じゃあ行くね……えっと、アヤメさん?」
そう言いながら、まだ強く握ったままの手を見つめ赤面した。アヤメは握っていた力をゆっくりと弱めていき「ごめんね」と言った。
「アヤメさん?」
「ちょっと寂しくなっちゃっただけ」
奏斗は堪らずに自分の手からすり抜けていく彼女の手を掴んだ。
「すぐに戻ってくるから」
アヤメは微笑み頷く。
「奏斗、鍵だけは大事に持っていてね」
奏斗は自分のポケットの上から鍵を触って確かめる。
「うん、ちゃんと持っているよ」
「鍵は一つしかないから」
「うん、わかった。なくさないようにする。……じゃあ行ってくるね」
奏斗はそう言うと異次元の森へと足を踏み入れた。2、3歩進み振り返るとそこにあるはずのドアはない。奏斗はリュックの肩紐をぎゅっと握りしめ前へと進んだ。
アヤメは閉まったドアの前でふーっと長い息を吐いた。
「約束やっぱり守れなかったな」
そう言って寂しげに微笑む。目をつぶるとこの世界の全てが彼女と一つにあるような穏やかな感覚だった。
ビリッ
書類を破く音が響く。目をゆっくりと開けると金色の獣の瞳がギラギラと光る。顔には隈取が滲み出て、みるみる狐の姿になっていった。アヤメは窓ガラスに映った自分の姿を見て微笑む。
「分かっているわ。お母様」
アヤメはそう言うと黄金の身体を翻し、空へと駆け上がっていった。
今投稿できるのはここまでです。また書き上がり時代更新していきますm(_ _)m