19 それぞれの
奏斗が目を覚ましたのは柔らかなベッドの上だった。目を開けるとアヤメがその時を待ち望んでいたように目を輝かした。
「このまま目が覚めなかったらどうしようかと思った」
アヤメは溢れそうな涙を抑えながらホッとしたように笑う。奏斗はその表情が懐かしく切なさと愛おしさで胸がいっぱいになった。
「君はいつもそればかりだね」
それは奏斗というより彼の魂からこぼれ落ちた言葉だった。アヤメは少し驚いた表情を見せたがすぐに奏斗の温もりを噛み締めるように握っていた奏斗の手を手を自分の頬に当てた。
「奏斗も彼に会ったのね」
奏斗はアヤメの手を握り返した。
「うん、何度生まれ変わっても僕たちは言うよ。心はいつもアヤメさんと共にあるって」
見つめ合うと言葉にしなくてもお互いの気持ちが分かった。こんなにも満ち足りた気持ちになるのは初めてだった。
その時、バンっとドアが勢いよく開く。部屋の中に入ってきたのはぐちゃぐちゃに泣いている愛美だった。
「奏斗っち!!! 起きたの!? 良かったよぉ〜!!」
そう言って愛美が勢いよく奏斗に抱きつく。アヤメと一緒に彼の目が覚めるのを待っていたトロトロがニヤニヤ笑う。
「取られちゃったな」
アヤメは甘くトロトロを睨んだが、その顔は笑っていた。
「あ、本当に起きていたんですね。それにしても愛美さんの行動力はやっぱりすごいですね。橘君が起きた気がすると言っただけで月白さん放り出して飛び出して行っちゃうんで驚きましたよ」
ドアの方には音を聞きつけた健太郎が寝ている月白を抱っこしてやってきていた。
「だってさ、悔しいけどあんたの勘は当たるし! 奏斗っちが超心配だったんだもん」
愛美が口を尖らせて言った。
「なんだかみんなに心配かけちゃったみたいだね。でも僕は大丈夫だよ」
「本当に? 本当は青鈍に捕まって離してもらえなかったんじゃない? 大丈夫?」
「ううん、そんなことないよ」
「青鈍の中に忘れ物とかしてないよね?」
ペタペタと奏斗の身体を触って確認する愛美を引き剥がしたのは健太郎だった。
「愛美さん、ほら、離れて。お触り禁止ですよ」
「あたしは心配してるだけだよ」
ぷーっと頬を膨らませる愛美に健太郎は肩をすくめてみせた。
「まぁ、心配するのも無理ないですけどね。まる3日も目を覚さなければ」
「3日も!?」
奏斗は驚いて窓の外を見た。太陽は高く登り、時計はちょうど正午になろうとしていた。彼はそれが当日中の出来事だと思っていた。奏斗はハッとして身を乗り出す。
「みんなどうなったんですか? 更紗さんと天狗は? 橡さんは? それにクジラの身体は?」
クジラと聞いて愛美の表情が曇るとアヤメは彼女の肩にそっと手をおく。
「そうね、何から話せばいいかしら……」
アヤメは一つ息を吐くとそれぞれのその後の話を話し始めた。
あの日、奏斗が黒いモノたちを解放してしばらく立つと、今度は二つの心が青鈍の目から飛び出した。白く光る心と黒い心、それぞれが天狗と更紗の体へと吸い込まれていった。黒いモヤだった天狗はしっかりと鴉天狗の姿になり、掴んでいた更紗の身体を両手で丁寧に包み込む。更紗は天狗の顔を見れず俯いていた。
「更紗、苦労をかけたな」
先に言葉を発したのは天狗だった。更紗は下を向いたまま小さく震えていた。
「私はあなた様に合わす顔がありません。私のせいであなたは神力も友も全てを失ってしまった」
天狗は少しの間沈黙した。それは自分が失ったものを一つ一つ思い出しているようにも見えた。
「そうだな。私は全てを失った。だからだろうか、私は天狗であることに執着はない」
そう言うと更紗を空へと放した。そして背に生えた大きな翼を広げると身体を覆い隠すように回転した。すると、烏天狗は大きく立派なカラスの姿になった。それは堕津だった。
「更紗、君が気に病むことはない。カラスの堕津は何も失っていない」
「堕津、あなたはそれでいいの?」
「ああ、私はもう神でも何でもない。君が私を堕津と呼び、そばにいてくれる限り、私は君の夫、カラスの堕津だ」
気づけば2羽の周りを取り囲むように群れカラスたちがいた。その中には娘の紗彩の姿もある。カラスたちは鳴き声をあげリーダーの帰還を喜んだ。
青鈍の瞳から黒い狐が橡の元へと帰る。その狐は青鈍を気にかけるように後ろを振り向きながら橡の瞳へと吸い込まれていった。青鈍に抱きしめられていた橡は青鈍の目を見つめながら意識を取り戻した。活動限界がきた青鈍は目を閉じ寝息を立てていた。美しいけれど無防備なその寝顔は隣で眠る母を思い出した。
「雪、いるんだろ? どこからがお前の企み?」
橡が言うと何もなかったところからすーっと雪の姿が現れた。
「企みなど。ただあの人間にならお二人のわだかまりに光が差すと期待しただけにございます。私はお二人の世話係にございますから」
橡は青鈍の腕をゆっくりと解いた。橡の背中をがっちりと掴んでいた細い手首から彼女が強く望むものが伝わってくる。それは『家族』だった。
「雪、この女は『家族』を何も知らない。私は『家族』の偽りや裏切りをたくさん見てきた。それを見るとそれが真実だと安心できるから。でも安心を得ても私の心を納得させることはなかった。それらが私の家族じゃないからだ」
「だからアレを探し求めたのですね」
「廃棄を命じられたのが雪で良かったよ。他の妖狐ならその場で粉砕していただろうからね。雪がアレを海に投げ落としたおかげでアレはクジラの中で大事に保管されていた。でもーー」
橡はそこまで言うと立ち上がり地面を見た。足元には無数の八咫烏の残骸が散らばっていた。
「あと少しのところでクジラとの契約は果たされなかった。今頃、アレはクジラと共に海の底だ」
すると雪は懐から丁寧に布に包まれた物を取り出した。
「橡様が求めていたものはこちらですね」
橡は怪訝な顔をした。
「何故それを? クジラとは全てが終わった後に受け取る契約をしていた」
「クジラの真の目的は天狗に会うことではなく、海に沈む前に誰かにそれを託すことだったのです。芥山での八咫烏の襲撃の際、1羽の八咫烏が『アレを取りに来い』と私に言伝いたしました。何故、アレを海に落とした私を信用したのかは分かりませんが」
それを聞いた橡は呆れたように笑った。
「クジラも私を騙していたというわけか」
「偽りや裏切りが必ずしも悪意の元にあるとは限りません」
橡は雪のその言葉を聞き流し、鼻で笑う。
「クジラの肉体まで距離がある。いつ取りに行ったんだ? お前は青鈍の元にいて動けなかったはず」
「花菖蒲様にお願いをして、とってきて頂きました」
「姫君に小間使いを頼むとは図太い世話係だ」
皮肉を言う橡に雪はそれを差し出す。
「私はお二人のためなら図太くも狡猾になりましょう」
橡はゆっくりと手を伸ばす。それは触れるのを恐れているようだった。布がはらりと落ちていき、焼き物で作られた女性の人形が姿を表す。雪はもう片方の手で包み込むように橡にそれを持たせた。人形からは母、漆黒の心が流れ込んできた。
「ーー!!」
橡は混乱し頭を抑えた。
「それが真実です」
雪は静かに言った。橡は雪を睨みつける。
「そんなはずはない!」
母は父や橡を騙し人間を嫌っていた。その気持ちに証拠を掴めば橡は何もかも捨てて諦めることができるはずだった。しかし、人形から伝わってくるのは橡が抱え切れないほどの彼女に対する情愛だった。
「いいえ、その人形に込められている想いは間違いなく漆黒様のもの。これを天狗の元から盗み、海に投げ落としたのは私です。漆黒様は9尾様の中へお戻りになる際、これを廃棄するよう私に命じました。これがあなた様を苦しめると分かっていたからです」
「きっと母様は人間の私を哀れんで愛情と勘違いしたんだ」
橡は自分に言い聞かせるように呟いていた。雪は首を横に振る。
「いいえ、漆黒様は妖狐になった後も変わらずにあなた様を愛しておられました。橡様が妖狐になられた時、漆黒様には二つの感情が芽生えたとおっしゃっていました。青鈍様が自分の命を賭してまで橡様に嫉妬の念を抱かせてしまった罪悪感と、あなた様が一命を取り留めた安堵の気持ちです。何も知らず人間として生きた橡様が妖狐として生きるにはあまりにも過酷すぎる。それをもってしても、あなた様が生きていることに喜びを感じていたのです」
「じゃあ、何故あんなにも冷たくなったんだよ。母様の視界から消し去りたいほどに」
苦悶の表情を浮かべる橡に雪は無表情のまま淡々と続けた。
「消し去りたかったのではなく、消すしかなかったのです。当時はまだ妖狐も少なく、妖狐が人間に情を移すなどあるまじきことでした。漆黒様は半分人間の血が流れるあなた方を守るためにも妖狐の威厳を保たねばならなかったのです。しかし漆黒様にとってあなた様やあなた様のお父上と過ごした時間は幸せ過ぎました。あなた様を見れば失った時間を思い出してしまう。漆黒様が橡様を視界から退けたのはあなたへの未練を断ち切るためです。すべてはあなた様を守るためにしたことなのです」
「そんなこと」
橡が目を逸らすと雪は人形ごと握る手の力を強めた。
「雪の言うことが信じられませんか?」
雪の表情は相変わらず無表情だったが、触れ合う手からは雪が望むものが流れ込んでくる。それは青鈍と橡の「母になりたい」という強い願いだった。
「私は親もいなければ子もおりません。もちろん親子の情愛など分かりません。しかし乳飲み子の頃から青鈍様をお世話し、妖狐として生まれ変わったあなた様に妖狐として生きる術をお教えました。世話係として長くを過ごすうちにいつしか本当の母なりたいと、おこがましくも願うようになってしまったのです。この願いが叶うことはありません。しかし、あなた様と青鈍様に幸せに生きてほしいという願いは叶えることができる願いです」
「そんな簡単にはいかない」
橡は悲しい目をしていた。
「ええ、あなた様が数多の人を不幸に陥れた過去は変えられません。しかし、これだけは覚えておいてくださいませ。あなた様に用意されているのは、まだ誰も知らない未来です。どんなに長い年月がかかろうとお二人が幸せに微笑む未来を雪は信じております」
はっきりと言い切った雪を橡は驚いていた。
「雪が未来を信じているとは思っていなかった」
雪は眠る奏斗とそのそばに寄り添うアヤメを見た。
「そうですね……。彼らに会わなければ未来など考えてもいなかったでしょう。でも今は彼と姫が切り開く未来を信じてみたくなったのです」
雪が微かに笑みをこぼすと橡も呆れたような笑みを返した。
「雪もあの生き物たらしにやられたってわけか」
橡はそう言うと持っていた人形を雪に返した。
「橡様、良いのですか? これはあなた様がずっと探していたものですのに」
「もういい、それを持っていても母上が戻ってくるわけじゃない。カラスとして生きる道を選んだ天狗にももう必要のないものだろう。だからそれはその女にくれてやればいいよ……他の人形も一緒にね」
「はい」
雪は丁寧に布を巻き直し人形を再び胸元へとしまった。そして雪が顔を上げるとそこにもう橡の姿はなかった。
雪は眠る青鈍を抱き抱えるとアヤメたちの元へやってきた。依然として奏斗の目が覚めるのを祈るように待っていたアヤメは雪が近づくと厳しく睨みつけた。
「奏斗の心が帰ってきてからしばらく経つのにまだ目が覚めないわ。どういうことなの?」
「恐らく彼は黒い心だけでなく、本体ごと青鈍様の中へと入ったため心と身体への負荷が大きかったのでしょう。ただこれは憶測でしかありません。青鈍様の中に本体ごと入る者など初めてのことですから」
「奏斗がこのまま目覚めなかったら青鈍もあんたも無事では済まないと思いなさい」
アヤメは雪の胸ぐらを掴んで脅したが雪の表情は変わらなかった。愛美はあまりの迫力に「ひっ」と息をとめた。
「わかりました。ですが姫、ここで目覚めるのを待っていても埒があきません。一旦、彼も事務所に連れ帰りましょう、零」
名を呼ばれると零が命令が身体に染み付いているように奏斗を抱え、雪の命に従った。愛美はそんな零に不安気に見つめていた。
事務所に帰った翌日、奏斗よりも先に青鈍が目を覚ました。すると青鈍と零はその日のうちに青森支所へと戻ることになった。青鈍が帰ることに一言も口出ししないアヤメに健太郎は声をかけた。
「青鈍を帰してしまっていいんですか? 橘君はまだ起きていませんよ」
「いいのよ、どこにいたって奏斗に何かあれば追いかけて消してやるから」
奏斗の前では見せない物騒なアヤメに健太郎は苦笑いをした。彼は青鈍が目を覚ましてからアヤメの様子が変化したことに気付いていた。アヤメはただ黙って眠る奏斗が目覚める時を待っていた。
「これは俺の勘ですが、橘君は何か変わろうとしている気がします。だから彼の中で納得のいく変化ができたのなら目を覚ますんじゃないでしょうか」
奏斗を見ていたアヤメが視線を上げて驚いたようにじっと健太郎を見た。
「あなた、勘がよく当たるのよね?」
その美しさは神がかっていて青鈍が目で心を奪うならアヤメは命さえも吸い取ってしまいそうだった。健太郎は気圧されて「はい」と返事をするのがやっとだった。
青鈍が目覚めた日の夕方には零は帰り支度を整えていた。少ない荷物運びを手伝っていたのは愛美だった。
「ねぇ、零、もう心は取り戻したんだから青鈍の部下にならなくてもいいんじゃない?」
青鈍の使っている車椅子をたたみ、車に積み込む零に愛美はぼやいた。すると零は手を止めて、少し考え込んだ。
「そうなんだが……青鈍様が俺を苦しみから救ってくれたことにはちがいないんだ。だから俺が今度は青鈍様の力になりたい」
まっすぐと愛美の目を見て言う瞳には輝きが戻っていた。ブーブーと愛美のスマホの音が鳴る。ちらっと見ると地元の同級生からだった。
「返信しなくていいのか?」
零が聞くと画面を開くことなく愛美はスマホをまたポケットにしまう。
「うん、友達だった人たちだから」
零の脳裏に愛美が学生の頃一緒にいた女子たちが浮かぶ。
「お前はそれでいいのか?」
「うん、あの頃は世界が狭くて無理にでも明るくしてないと1人になっちゃう気がしたんだ。だけど今はそのままでも一緒にいてくれる友達がいるから」
愛美がにこっと笑うと零もつられて「そうだな」と笑った。愛美は零の笑顔に嬉しさが込み上げた。まだ零の心の傷が癒えるのには時間がかかるかもしれない。それでもまた一緒に笑いあえることが幸せだった。
「零、また会おう!」
「ああ」
零は運転席へと乗り込んだ。後ろの席では青鈍が遠くを見つめていた。その手元には人形が握られていた。
「青鈍様、これは橡様があなた様にと」
そう言って雪は青鈍の膝の上に4体の人形を置いた。青鈍は机に置いてある観葉植物を通してそれを見つめ手で触れた。
「これは?」
「これはあなた様の父上が病床の橡様に作られたものです。ずっと祠の中にあったので青鈍様の目にも届かなかったのです」
雪は4つの人形を近づけた。すると2人の娘を抱きしめるように母と父の人形が寄り添う形にぴたりとおさまる。
「お父上は、双子のうち1人を妊娠している間に亡くしたと信じておりました。漆黒様がそう伝えていたからです。橡様が生まれた後もお父上はあなた様のことを忘れることはありませんでした。側にはおられなくてもあなた様は家族の一員だったのです」
青鈍は動きにくそうなぎこちない手で4つの人形を握りしめた。その頬には一筋の涙が落ちていた。
「一緒に行くのかと思っていたよ。しかも挨拶もしないなんて」
事務所の窓から青鈍の乗った車を見送ると健太郎は雪に言った。
「今の青鈍様ならそばにいなくても大丈夫です。すぐにお会いできるので挨拶も必要とされないでしょう。私は自分が今いるべき場所にいるだけです」
「それは言えている。この支所は君がいないと回らないからね。頼りにしているよ、雪」
「はい」
雪は無表情で頷く。しかしその顔はどこ晴れ晴れとしていた。
アヤメから大体の事情を聞いた奏斗は自分が寝ている間に状況が目まぐるしく変わっていたことに驚いていた。しかし、それぞれが少しずつでも前に進みだしている気がして嬉しかった。
「クジラは? クジラはどうなったの?」
「クジラは沈んだわ。彼の体の中は人間が海に捨てた物が詰まっていた。あの重い身体ではもう二度と浮かび上がることはできないわ」
アヤメが言うと奏斗はショックを受けた。みんなが救われることを願ったのにクジラを救うことは叶わなかった。そして人間のせいで長い時を生きたクジラの命を奪ってしまうことが悲しかった。アヤメは落ち込む奏斗の手を取った。
「クジラは人間を憎んでいるわけじゃない。人間が好きだからこの道を選んだのよ」
「クジラが人間を?」
アヤメはクジラの元を訪れた時のことを思い出した。意識を失い浮かぶクジラを手で触れるとクジラの想いが伝わってきた。
「彼は天狗の探し物を拾った時から人間が海に落とした物を拾うようになったの。天狗の探し物だった母親の人形には彼女の想いがこもっていた。人間の家族の愛情を垣間見たクジラは人間に興味を抱くようになり、海に人間の物が落ちていればそれを飲み込み、物が持つ人の記憶を集めていたらしいわ。それらと共に海の底へ沈むのは彼が受け入れた運命。でもその前に八咫烏の自由な身体で友と共に空を飛びたかったのよ」
「それじゃあ」
奏斗は顔を上げた。
「クジラの願いは叶ったのよ」
アヤメは哀し気に微笑んだ。
クジラは大きな口を微かに開くとその隙間から小さな人形を吐き出し、アヤメへと託した。アヤメが人形を手に取るとその優しい温かさに涙した。母の想いがこもった人形にはクジラの想いも重なっていた。人形を通して漆黒の記憶を見ていたクジラは会ったことのない橡にも何百年もの時間をかけて深い愛情を抱いていた。
月の光に照らされて白波が静かに浮きだっては消えていく。橡は海を見ていた。この大海原で先日まで妖狐たちが、クジラを救い出すためにてんやわんやしていたとは信じられないほど、海は静かだった。
「人形の記憶を書き足すなんて余計なことをしてあなたは本当に勝手なクジラですね」
すると返事をするようにぷくりと小さな気泡が橡の下で弾けた。橡は人形を触れた時に流れ込んできたクジラの感情を思い出し、ふっと笑う。
「……とは言っても、契約も果たしていないのに約束の品を頂くのは気が引けますし私からあなたに贈り物です」
そういうと橡は八咫烏の焼き物を海に投げた。まるで生きているかのような造形のそれは橡が力を使わずに自分で焼き上げたものだった。八咫烏の焼き物は濃紺の海底へとゆっくり消えていく。橡は焼き物を握っていた手を見つめ固く拳を握った。
「笑えてきますよ。私がこの世界を守りたいと思うなんてね」
そう言ったその顔に笑みはない。潮風が追い風となり、橡の黒い髪をなびかせる。その強い眼差しは未来に向かっていた。