18 救済
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。青鈍の中からぞろぞろと数え切れないほどの黒いモノたちが去っていった。どれだけの黒い心をその小さな体に閉じ込めていたのか、黒いモノたちは夜の海の波間のようにざわざわと光を目指し波打っていた。しかしそれもまばらになり青鈍の中は空になっていく。
すると他の黒い心とは違う白い陰が立ちすくんでいるのが見えた。その側には小さな黒い陰が寄り添っていた。陰たちは青鈍の領域には入れず岩の入り口の前でこちらの様子を伺うように立っていた。
「あれは天狗? どうして出ようとしないんだろう」
「出ようとしないのではない。あれは自力では出ていけぬのじゃ。契約をしているからな」
「契約?」
「あれだけは八咫烏との契約でここに閉じ込めたものじゃ。契約がある限りはここを出られぬ」
奏斗は二つの陰に近寄った。そのうちの黒い方へと手を差し伸べる。
「あなたは更紗さんの心ですね?」
陰は奏斗の言葉を肯定するようにうなだれていた。
「天狗の心を青鈍さんに渡したのは更紗さんだったんだ。その罪悪感があなたという黒い心を生み出した」
奏斗が言うと更紗の黒い心はためらいがちに顔を上げた。
「罪悪感……私はそんな善良なものではありません」
静かに答える更紗を青鈍は冷めた目で見ていた。
「そうじゃな、言うなればそやつは欲じゃ」
「欲?」
「母上が屋敷に来た後、わたくしに隠れて怪しい動きをする雪を千里眼で追っておった。雪は天狗が大事にしておった人形を奪い、天狗はそれを追っていた。そして眷属である故、天狗の命に背くことができず山に留まっているそやつをみつけたのじゃ。わたくしは眷属らしからぬ黒い心の気配に興味をひかれた。そやつの心から滲み出ていたのは人間への激しい嫉妬心、そして憎悪じゃ。八咫烏は自分よりも死んだ人間の遺品を大切にする天狗が許せなかった。そやつは天狗を主人としてではなくひとりの男として慕っておった。わたくしは哀れな八咫烏にあるモノと交換条件で眷属の縛りを解いてやることにしたのじゃ」
青鈍は懐かしそうに笑った。奏斗はその不気味な笑いにぞくりと背後が寒くなった。
「そのあるモノってもしかしてーー」
白い天狗の陰を見る。天狗の陰は他のモノとは明らかに違っていた。
「そうじゃ、天狗が人間を慕う心じゃ。悪い話ではないじゃろう」
更紗は後悔に押しつぶされるように小さく震えていた。
「青鈍の言う通り私は自分の欲のために天狗が一番大切にしていた心を売ったのです。この心は欲そのもの。だから私は償わなければなりません。結んだ契約を破棄できるのならば何でもしましょう」
更紗は青鈍に向かって言った。青鈍は橡と手を繋ぎ奏斗たちの元へとやってきた。
「お前はそれで良いのじゃな」
「青鈍さんが契約を破棄するとどうなるんですか?」
奏斗は不安に駆られ質問をした。
「契約の破棄はすなわち八咫烏が天狗の眷属へと戻るということじゃ。眷属に戻れば神との結婚は許されぬ。今は記憶をなくしカラスの姿になっていようと神は神じゃ。そしてそやつには主人である神を裏切り、その心を売った罪もある。その八咫烏は眷属に戻ったと同時に魂ごと消滅するじゃろうな」
「そんな……」
奏斗は言葉を失った。
「私は消滅してもかまいません。それに私には天狗に会う資格がない」
更紗が言うと白い陰はもやもやと天狗の姿へと変わっていった。そして更紗の黒い陰を自分の肩へと乗せ、彼女を優しく撫でた。
「あなたは人間を想う心なのに私にも優しくしてくれるのですね」
天狗は黙ったまま更紗を撫で続けた。奏斗が感じたのは天狗から更紗への慈しみの心だった。
「きっと天狗はあなたのことも人間と同じように大切に思っていたのだと思います」
更紗は懐かしい天狗の温もりを感じながら涙をこぼした。
「何か方法を探しましょう! 何かきっとあるはずだ!」
奏斗は考えたが普通の人間として生きてきた彼に神々の理を覆す術が浮かぶはずもなかった。
「方法がないわけじゃないよ」
そう言ったのは橡だった。
「どういうことですか?」
「神になるには大きく分けて2つある。あまりに強大な力を持つ故に神と呼ばれる自然霊と人に崇められ神力を得る自然霊だ。9尾は前者、そして天狗は後者。前者は人の信仰に左右されない、だが後者は人の信仰の力がなくなると神力が不安定になり自分が何者なのか分からなくなる。それならば神になる前に戻れば、神ではない天狗に眷属は必要ない。それはつまり天狗と八咫烏が主従関係ではなくなるということだよ」
「主従関係ではなくなれば更紗さんは消滅しないんですね! でも神になる前に戻るなんてそんな簡単にできるんですか?」
「もちろん簡単にできるものじゃない。だけど天狗の持つ人間から得た神力だけ抜き取ることができれば可能性はある」
橡は青鈍を見た。青鈍は呆れたように笑った。
「やはりお前は人間に甘いの」
「青鈍さんならそれができるのですか?」
奏斗から向けられる期待の眼差しに青鈍の笑みは含み笑いに変わる。
「天狗の神力は人の心が生み出したものじゃ。わたくしなら天狗の中にある神力を探すことはできるじゃろう。じゃがわたくしが契約なくして奪えるのはいらないと捨てられた心のみ。万が一奪うことができても心を抜き取れば現状と何も変わらぬ。神力だけを吸い出すことができるのは花菖蒲様だけじゃ」
「アヤメさんが?」
「そうじゃ、じゃがな、一つ問題がある。お前がここにおっては花菖蒲様に伝える術がないといことじゃ。今すぐお前がわたくしの心を出て花菖蒲様に伝えるしか天狗を救う道はない」
奏斗は橡を見た。橡は青鈍と離れる様子はない。奏斗が今出ていけば青鈍はもう奏斗の心を中に入れることはないだろう。
「何を悩んでいる? お前がここを出ていけば天狗と八咫烏は救われるのじゃぞ」
青鈍の狙いは橡を青鈍の外へと出す手立てをなくすことなのは分かりきっていた。
「僕がアヤメさんに伝えたら本当に青鈍さんは協力してくれますか?」
奏斗は下を向きながら聞いた。それは苦渋の決断を迫られ思い悩んでいる様子にも見えた。
「いいだろう。お前が花菖蒲様に伝えさえすればわたくしも協力してやろう」
青鈍は面白いおもちゃをみつけたかのように奏斗の反応を伺っていた。橡と更紗と天狗、天秤にかければ奏斗は更紗たちを取る。そう確信していた。奏斗が自分の思い通りに答えたので青鈍は愉快でたまらなかった。
「僕とも契約を結んだということでいいですね?」
「くどいの。まぁ、良いわ。これはお前とわたくしとの契約じゃ」
奏斗は決意を固め、まっすぐに青鈍を見つめた。その目は何も諦めていない澄んだ目をしていた。
「わかりました。僕がアヤメさんにつたえます」
奏斗はそう言うと自分の胸に手を置き強く願った。
『どうかアヤメさんに伝えてください』
すると瞼の裏にぼんやりと人影が浮かぶ。自分とそっくりな男の姿。彼の額には傷があった。彼は奏斗から光を受け取るとしっかりと頷いた。
『あや』
アヤメはふと懐かしい名で呼ばれた気がした。目の前で眠る奏斗はその名を呼んだ男によく似ていた。アヤメはふいに奏斗の額に触れ、前髪を上げる。そして傷一つないきれいな額をそっとなぞった。
彼の額には小さな傷の跡があった。思い起こせば今でも鮮明に思い出す。優しくまっすぐで愛おしい、奏斗になる前に生きていた魂の形。男はまるで昨日の記憶を思い出すようにアヤメの心の中で微笑んでいた。
『私を呼んだのはあなたなのね』
アヤメが心の中で問うと男は嬉しそうに頷いた。
『あや、久しぶりに君と話せて幸せだよ』
『その名を呼ばれることはもう二度とないと思っていたわ』
アヤメは瞳に涙を溜めて微笑む。
『彼は私を受け入れた。私にはできなかったことを彼が成し遂げたんだ』
『奏斗は無事なの?』
アヤメが聞くと男は胸元から光を取り出す。
『ああ、これは彼からの伝言だ』
男がアヤメに光を手渡すと光は大きく輝きだしアヤメを包み込んだ。
奏斗の額に触れたまま微動だにしないアヤメを愛美は心配しながら見ていた。
「大丈夫かな、姐さん。奏斗っち触ったまま止まっちゃったけど」
健太郎も神妙な顔をしていた。
「花菖蒲さんが焦る気持ちも無理はないですよ。黒い心だけではなく本体ごと青鈍の中に行ったとすれば今の橘くんはかなり危険度が高いです」
「危険度が高いって? どうなっちゃうの?」
それには零が応えた。
「心と魂は密接につながっている。橘奏斗の魂は青鈍様に囚われ、身体は廃人のようになるだろうな」
愛美はごくりと唾を飲んだ。そんなことになればアヤメが黙っているはずもなかった。
「もしかして姐さん、穏やかな顔して本当はめちゃくちゃキレてんのかな」
アヤメは奏斗から手を離し愛美を見た。愛美はその美しすぎる瞳に心臓が止まりそうになった。ふっとその迫力があるほどに美しい瞳が柔らかな弧を描き、優しく微笑む。
「キレてなんかないわよ。でももうそろそろ終わりにしなきゃ」
愛美はホッとして胸を撫で下ろした。健太郎は前のめりにアヤメに近づく。内心、気が気ではないのは健太郎も一緒だった。
「何かわかったんですか?」
「大丈夫、橡も戻ってくる。そうじゃなきゃ奏斗は戻ってこないもの」
アヤメはそう言うと青鈍の元へ向かった。
「青鈍、聞こえているんでしょう? 私は奏斗から私がやるべきことを受け取った。これであなたと奏斗の間になされた契約は実行されるわ」
すると青鈍の瞳がぎこちなくアヤメの方へと動いた。
「なぜじゃ、こやつの心はわたくしの中におるのに何故伝わったのじゃ? 姫が小細工をしたに違いない」
悔しそうに唇を噛む青鈍の耳元にアヤメは顔を寄せる。
「交わした契約は絶対よ、あなたは黙って契約内容を行使すればいいの」
その声は脅すように低く、瞳孔は細長くなり狐のものになっていた。
「ぐうっ」
青鈍は鋭い牙を剥くと大きく目を見開いた。すると黒い陰の周りの木々がざわめきだし落ち葉が天狗の陰を取り囲む。
アヤメは手をかざし、自分の瘴気を陰へと向けた。するとブツブツとつぶやいていた天狗の動きが完全に止まり、その中を狐の形となった落ち葉の塊が鼻をつけて這い回る。狐の動きがある場所で止まりクンクンと陰の奥へと鼻を押し当てる。
「見つけたぞ。ここじゃ。ここにある」
狐は陰の中へ顔をねじ込み、キラキラととした塊を咥えて出てきた。
「それね」
アヤメの瘴気がその輝く塊を取り囲みじわじわと吸い込んでいく。輝く塊から流れ込んできたのは人々の天狗を敬う心と彼らが天狗に託してきた願いだった。それは誰かの幸せを願うものから利己的なものまで様々だった。アヤメはそのひとつひとつを自分の中へと吸収していく。眩い光を放っていた塊から光が消えるとそれは真っ白で柔らかい球体になっていた。
『人々からの友好の心はそのままに。あなたはもう人の願いまで背負う必要はないのよ』
球体は静かに天狗の中へと戻っていく。狐の形をしていた落ち葉ははらはらと舞い散り、天狗を包んでいた瘴気がアヤメの体に吸い込まれていく。そして神でなくなった天狗は本来の姿を取り戻した。それは黒い大きな翼を持つ立派な鴉天狗だった。乱暴に掴まれていた更紗の身体は優しく抱き抱えられていた。
「天狗が戻った!」
愛美は声を上げて喜んだが他の者たちは難しい顔をしていた。愛美はきょとんとしてみんなを見渡す。
「まだだ、青鈍様の中にまだ心が残っている」
零は眉間に深い皺を寄せ青鈍の目を見る。焦点の定まらない彼女の目は静まり返っていた。
「言う通りにしてやったというに何故出ていこうとしない?」
青鈍の中で彼女は他人の心が自分の中にいる居心地の悪さを初めて感じていた。奏斗との契約を行使し、更紗と交わした契約は破棄した。それなのに彼らは彼女の心から出ていこうとはしなかった。
「全てを思い出した以上、友の友を見捨てるわけにはいかぬのだ」
そう言ったのは神ではなくなり自我を取り戻した天狗だった。
「橡、お前はどう思っているのじゃ」
「私はクジラとの約束を果たせなかった。だから私のことは構わないで。それに私は姉様と共にいると決めていたから」
橡は青鈍の手を握ったまま答えた。
「橡もこう言っておる。本人が望んでいることじゃ!」
「橡さん」
「近づくな!」
奏斗が近づくと青鈍は橡を守るように前へと立った。奏斗は青鈍の背をじっと見つめる橡を見て確信した。奏斗は橡の黒い心と会ってからずっと不思議だった。橡の黒い心だと名乗る彼女には何の闇も感じない。むしろ無垢で純粋な存在に思えた。
「君、本当は黒い心じゃないんだね。君はお姉さんを、青鈍さんを想う心だ」
橡は悲しそうに俯いた。
「要らないと思えばどんな心も闇になり黒く染まる。姉様が奪うのは要らない、隠したいと思っている心だけ。だから私は橡にとっての黒い心」
「僕、ずっと考えていたんだ。どんな形であれ橡さんがどうして人と関わろうとするのか。それは人間が、そして家族が大好きだったからだ。橡さんのしてきたことは間違っていたかもしれない。でも橡さんはずっと君を奪われないように守っていたじゃないか」
橡の黒い心は彼女の胸の中で繰り返し聞いてきた声を思い出していた。
『すべてを否定した方が楽、相手の立場に立つよりも見下した方が楽、愛することを捨てた方が楽。私は一人でいきていく』
屋敷を出た橡は誰かと深く関わりを持つことはなかった。橡はいつも幸せが奪われることを恐れて生きていた。奪われるものがなければ失う心配もない。しかし時折襲う強い孤独感を癒やしたのは父母や青鈍と思い出だった。彼女は家族を想う心を捨てられなかった。それは彼女の弱点でもあり唯一の光だった。
「橡さん、戻ろう。ここは君の場所じゃない。橡さんを助けてあげられるのは誰かに愛し愛される幸せを知っている君だけなんだ。橡さんが橡さんでなくなった時、一番哀しい思いをするのは青鈍さんだよ」
橡は青鈍を見た。青鈍もまた橡を見ていた。その顔は屋敷を飛び出したあの時と同じ顔をしていた。橡の心は理解した。自分が一緒にいたところで青鈍の孤独は癒せない。橡は青鈍の手を離した。
「橡? またわたくしを見捨てるのか?」
「私は姉様見捨てるわけじゃない。私だけじゃだめなんだ。姉様が本当に求めているのは憎む心も寂しい心も全ての心を持った橡だから。だから私は帰らなくちゃいけない」
橡は涙ぐみそう微笑んだ。
「そんなの嘘だ。お前もわたくしを憎んでいるのだろう」
青鈍は膝から崩れ落ち震えていた。後ろ髪を引かれる思いの橡の手を引いたのは天狗だった。
「相手を本当に救いたいのなら時に残酷な決断も必要なのだ。さぁ、行こう、橡。我らと共に」
目の前には光の道が現れていた。
「橡!」
名を呼ぶ声に橡は立ち止まり振り返る。
「人間だったあの時、死ぬのがとても怖かった。本当は死にたくなんてなかった。私を憎んでやったことだとしても姉様は私の命の恩人で私にとっては救いの神だったんだ」
橡の姿が光に消えていく。青鈍は声にならない叫びをあげて地面にこすりつきそうなほどに頭を垂れた。
「そんなの嘘じゃ。わたくしだって本当はわかっている。みんなわたくしのそばになどいたくないのじゃ」
その時、温かなぬくもりが青鈍の肩を叩いた。
「青鈍さん、顔を上げて。黒いモノたちで闇に包まれていた青鈍さんの心の中はこんなにも光で満ちていたんだよ」
それは奏斗の声だった。青鈍は顔を上げるとそこは眩しいほどの光の世界だった。青鈍の目の前にいたのは母、漆黒だった。
「母上、いつからここに?」
青鈍が聞くと漆黒は青鈍に優しく微笑みかけた。
「私たちは初めからここにいましたよ」
「私たち?」
どこまでも続く光、目を凝らすとそこにいるのは青鈍を思う者たちの心がいた。そこには橡や雪の姿もある。そして奏斗も優しく微笑んでいた。
「捕らえたわけでもないのにわたくしの中に心がいるじゃと?」
「本来、心に壁はないんです。みんな勝手に作ってしまっているだけ。青鈍さんが望めば心は誰とでも交わることができます」
「でもお母様はーー」
漆黒は不安そうな青鈍を抱き寄せた。
「魂があるものは関わったその瞬間から相手の心の一部になるのじゃ。魂が消滅してもお前の心の中にいる私は消えることはない」
「姉様」
橡が2人の元へ近づく。漆黒は青鈍の心の中で娘たちを強く抱きしめた。
「私たちは離れていても心の中でずっと一緒じゃよ」
「母上、橡……」
青鈍も母を抱き返す。青鈍はたしかにそこに存在する柔らかな感触を噛み締めていた。
奏斗まぶたがピクリと動く。安堵の表情を浮かべるアヤメの顔を愛美は覗きこんだ。
「姐さん、さっき契約がうんたらって言ってましたけど何で奏斗っちと青鈍のやりとりがわかったんすか?」
「奏斗が教えてくれたからよ」
愛美は「えっ」とまだ眠っている奏斗を見た。
「奏斗っち爆睡してるように見えたけど実は起きてました!?」
驚く愛美にクスっと笑う。
「心と心が繋がっているのよ」
アヤメはそう言いながら自分の胸に手を置く。アヤメの心はかつてないほどに満ち足りていた。