15 心の内
天狗が記憶を旅していた時、八咫烏に魂を乗せたクジラは橡と共に青鈍と戦っていた。奏斗はその様子を固唾を飲んで見守っていた。
「まるで八咫烏を従える天狗みたいだ」
それが橡と偽八咫烏に魂を移したクジラの連携プレイへの感想だった。橡はクジラを誘導し上手く青鈍を翻弄する。
「小賢しい!」
青鈍はさらに目から黒い狐を出していた。その中の1匹を見つけると橡の目が光った。それは他のものとは違い白く、背には小さな翼が生えていた。
「あれです!」
八咫烏は指図通りに狐を翼で覆い隠し捕まえる。
「橡、何の真似じゃ?」
「黒い心を奪いすぎて自分が奪った心の主を忘れてしまったのですか?」
青鈍はにやりと意地悪く笑った。八咫烏に囲まれた狐は青鈍に助けを求めるように八咫烏の翼の中でもがいていた。
「わたくしは手に入れた心はすべて覚えておる。特にそやつは特別じゃ。わたくしはそれを捕まえてどうするのか聞いておるのじゃ」
「この心があれば天狗は一時の間、自我を取り戻せる。天狗の心が手に入ればお前ともう話すこともない」
橡は吐き捨てるように言った。
しかし奏斗は橡の言葉が気になっていた。
「一時の間?」
奏斗の独り言のような問いにアヤメは伏し目がちに反応をした。
「青鈍はかつて天狗の心の一部を奪っていたんだわ。でもあの心を取り戻したとしても信仰する人間がいなければ再び自分を忘れ天狗としての形を保っていられなくなる。天狗に戻れるのは短い間だけよ」
「そんな、それじゃあ意味がないじゃないか」
奏斗が泣きそうな声を出すと橡は鼻で笑う。
「意味? 意味ならありますよ。クジラが望んだのは天狗との再会ですからね。天狗を元に戻すことではない……これで何もかもうまくいく」
八咫烏は自分の翼の中で恐怖に震えている白い狐を見た。
「私の望みか」
八咫烏は大きく息を吐いた。そして大きな翼をたたみ狐に退路を作る。すると狐は急ぎ青鈍の瞳の中へと逃げ戻った。橡は驚きを隠しきれず八咫烏を睨んだ。
「何をしているんです? あなたが天狗に会いたいというから、あの女とも言葉を交わしたというのに」
八咫烏はもうほとんどが土に返り、残っていたのは1羽だけだった。今逃せば再度天狗の心を捕まえるのは不可能だった。
「橡よ、たしかに私は天狗との再会を夢見た。しかし少年の言葉で目が覚めた。私がしようとしていることは天狗を再び不幸に陥れる。私が望んだのは天狗の不幸ではない」
「甘いことを。最期のチャンスだったと言うのに」
「ああ、わかっている。たしかに私はこの世から消え去る前にただ1人の友と今一度会いたいと願った……それはもう叶わないだろう。だが今の私には新しい希望がある。お前さんだ。私は新たな友であるお前さんに私の想いを託したいのだ」
八咫烏の声には橡への親しみがこもっていた。
「図々しいにも程がありますね。この先、天狗が蘇る保証もないのに」
橡はため息まじりに答えた。
「お前さんが生きている限り希望はあるだろう」
クジラは幸せそうに目を細めた。
2人の話を聞いていた奏斗は前のめりになりクジラに叫ぶ。
「待ってください! この世から消え去るってどういうことですか? 今、僕たちの仲間があなたを救おうと頑張っているんです! だからーー」
奏斗の言葉を待つことなくクジラは答えた。
「お前さんたちが私の体を救おうとしているのは知っている。だが、私はもう長くないのだ。重くなった私の体はもう呼吸のために水面へ上がることは出来ないだろう。私の魂が戻れば私は海の奥深くへと沈んでいく。そうなればもう二度と浮かぶことはない」
「そんな……」
その事実を愛美が知ればどんなに心を痛めるだろう。しかし当のクジラの目は一点の曇りもなく澄み切っていた。
「私のことはもう良いのだ。最期に八咫烏になりたいという願いが叶い、とても楽しい時間が過ごせた。もう私に悔いはない」
「クックッ」
話を聞いていた青鈍の喉の奥から乾いた笑い声が漏れる。
「ならばわたくしがそなたの心を引き受けてやろう。肉体が滅びてもお前の心はわたくしの中で永遠に生き続けるのじゃ」
青鈍はそう言うと八咫烏に襲いかかった。
「やめなさい! 青鈍!」
アヤメが叫ぶ。八咫烏はその速さに狼狽えた。
「私の姿が見えないはずでは?」
襲いくる青鈍の目は閉じられていた。その代わりに黒く尖った耳がピンと八咫烏の羽音を捉えていた。
「わたくしは姿が見えなくとも声は聞こえるのじゃ」
クジラの目の前で青鈍の瞳が開かれる。しかし青鈍がクジラの心を捕らえようとした一瞬先に視界は遮られた。
「橡」
クジラと青鈍の声が重なる。橡は青鈍が動いたと同時に自分の体を両者の間へと滑り込ませていた。
「勘違いしないでください。私はこの女が求めるものは奪ってやりたいだけ。あなたはすべてを持ち帰って虚しい思い出と共に朽ち果てるといい」
橡の横顔が笑う。しかし顔は笑っていても寂しそうなのは橡の方だった。
「残念だがな、私に虚しい思い出などない。お前さんと出会えて良かったよ」
クジラの声は幸せで満ち足りていた。
「さようなら」
橡は指をパチンと鳴らした。すると八咫烏の身体ににヒビが入り、土のかけらとなって崩れ落ちていく。もうそこにクジラの気配はなかった。八咫烏の最後のかけらが塵となり風に乗って飛んでいく。
「橡」
青鈍は震えていた。青鈍に橡の姿は見えない。しかし触れ合いそうなほどに近い橡の温もりを彼女はしっかりと感じていた。狐姿の青鈍がじょじょに小さな少女の姿に変化していく。青鈍は震える手を伸ばすとそこには彼女が求めていたものがあった。青鈍はその温もりを逃さぬようしっかりと橡の細い身体に抱きついた。
「ああ、やっとわたくしの元へ戻ってきてくれた」
「まったく、取引不成立な上にこの状況。本当最悪ですよ」
橡はかけらの飛んでいった空を見上げ呟いた。橡の薄い胸には小さな青鈍が顔を埋めている。
「みんなから愛される橡。だからお前だけはわたくしを愛して」
「誰がお前なんかを」
青鈍に対する憎悪の感情が激しく湧き出ているのに、その心が少しずつ抜き取られていく感覚に吐き気がした。しかし、こうなってはもう逃れられない。
「分かるぞ、橡。わたくしもお前が誰よりも愛しく、そして誰よりも……憎かった」
青鈍はその腕に筋が立つほどの力を込めた。
「このクソ女」
橡は意識が朦朧としていく中で悪態をついた。それでも青鈍は満足な顔をしているだろうと思うと胸糞悪かった。しかしそれさえも抜き取られ何もかもどうでも良くなっていく。負の感情は全て青鈍の糧となる。視界の片隅にアヤメと奏斗の姿が映った。アヤメは必死に奏斗を守ろうとしているが奏斗は今にも飛び出しそうな強い目をしていた。その様子を見て橡は微かに笑みをこぼした。
(ああ、姫は分かっていない。彼は誰かに守られるほど弱くない)
橡は奏斗に向けて小さく唇を動かす。するとそれを見た奏斗の顔色が変わった。そして橡は青鈍に抱かれながらゆっくりと目を閉じた。
少しずつ抵抗する力を失い、脱力する橡の姿を奏斗は見ていることしか出来なかった。しかし、青鈍に心を奪われる間際に奏斗へと送られたサインに彼は決意を固めた。
「アヤメさん、僕は行くよ」
「駄目よ。青鈍の中に入ればもう二度と抜け出せなくなるわ!」
飛び出そうとする奏斗をアヤメは懸命に引き留めていた。しかし奏斗の意思は強かった。
「それは黒い心が青鈍さんにだけ受け入れてもらえるからだよ。みんな受け入れてほしいだけなんだ。僕は大丈夫。僕の心が大丈夫だって教えてくれているんだよ」
奏斗はアヤメの手を取り自分の胸に当てた。
「行かせてアヤメさん。アヤメさんが知っている僕は昔からそういう人だったはずだよ」
アヤメは驚き涙を浮かべた。
「奏斗、何を言っているのよ」
「僕は絶対に戻ってくる。もう二度とアヤメさんを1人にはさせないから」
奏斗は震えるアヤメを力強く抱きしめた。
その様子を見ていた青鈍は上機嫌に笑っていた。その片手には自分よりも大きな橡の体を軽々と抱えている。
「お前も来るか? 良いぞ。わたくしは誰も拒まぬ」
「僕はあなたたちを救いたい」
奏斗はそう言うと青鈍に向かって目を見開いた。青鈍は奏斗をその目へと誘う。奏斗の瞳から出てきたのは小さな黒い狐と美しく光を放つ銀色の狐だった。2匹は青鈍の目の中へと吸い込まれていく。
「奏斗……」
倒れ込む奏斗の身体を支えるアヤメの顔は青ざめていた。
「花菖蒲様、安心してくだされ、わたくしを救うなど奢り高いこの人間の心も、わたくしが大事に飼いならしましょうぞ」
アヤメは殺意のこもった目で青鈍を睨んだ。その殺意は形を作り青鈍の目の中へと侵入しようとするが青鈍の目前で砕け散る。
「姫君、まことに残念じゃがこの目に受け入れるは黒い心を持つ者のみじゃ。黒い心の消失など神をも越える所業。じゃがそれが仇になりましたな」
「奏斗に何かあったらあんたをぶち殺す」
「ほほ、怖い女神じゃ」
青鈍は小さな少女の姿には似つかない歪んだ笑顔でアヤメを見下ろしていた。
『姉様……』
青鈍の頭の中に彼女を呼ぶ橡の声が聞こえた。青鈍は感動に震えた。
「ああ、橡、今行く。待っておれ」
そして橡を抱きしめながら固まったように動きを止めた。
「姫」
青鈍の意識が完全に外の世界から遮断されたことを確認すると、それまで黙り、青鈍の近くに控えていた雪がアヤメに近づいた。そして「例のものを」と言って手を出した。
「こんな時でも冷静でいられるなんて、ここまで想定内だったってわけね」
アヤメはスーツの胸元からハンカチにくるんだ細長い小さなものを雪に渡す。
「いいえ、物事に想定外はつきものです。まさか橡様がクジラを庇って青鈍様に黒い心を取られるとは思っていませんでした」
淡々と話す雪にアヤメは疑いの目を向ける。
「橡が取られたのは本当に黒い心だったのかしら?」
「要らない心であればそれは当人にとって黒い心です。姫もあの人間への思いを捨て青鈍様に託せば楽になれると思っていましたが、黒い心を消失させたとはそれも私達の想定外でした。そうまでして何を企んでおられるのですか?」
厳しい雪の視線をかわすようにアヤメは笑った。
「母上に逆らうことなど考えていないわ。そんなこと無駄だもの。私は青鈍に取られるくらいなら自分で消そうと思っただけよ」
「その男は嫉妬心も自分の一部と受け入れたというのに、姫がそれを消失させたと知ればその男はどう感じるでしょうね」
アヤメは眠る奏斗を見た。
「奏斗が知る必要もないことよ」
「それもそうですね」
雪はアヤメから預かったものを懐に入れると耳を澄ますように遠くをみた。
「彼らが到着したようですね」
雪の体が透明になって消えていく。
「どこへいくのよ」
「私は人間が嫌いです。特に騒がしい人間が。あとは彼を信じて待つのみ……」
そう言うと雪の身体が消えてなくなる。霧の奥から奏斗とアヤメを呼ぶ愛美の声が聞こえてきていた。
**********
気付いた時、奏斗は目を閉じているのか開いているのかも分からないような暗闇の中にいた。するとすぐに奏斗を覗き込む少女の顔がぼんやりと照らし出される。幼い顔は青鈍とよく似ているが青鈍よりも毒気がなく柔らかな気がした。
「青鈍さん? ここは?」
「自分から入ったのにわからないの? ここは青鈍の心の中。それに私は青鈍じゃない。あんたってさ、本当にお人好しだね」
その呆れたような笑い顔は橡と重なった。
「橡さん!?」
少女は頷く。
「正確には橡が捨てたいと願った心」
「橡さんの黒い心ってこと?」
少女はその問いには答えなかった。奏斗が起き上がると少女の全身が浮かび上がった。その姿は髪の結い方も着物もかなり古めかしく、弥生時代以前ともおぼしい。奏斗は暗闇の中で光を放っているのが自分であることに気づいた。
「僕、光ってる?」
「あんたが黒い心じゃないからだよ。あんたはこの子と一緒に来たんでしょ」
そう言う彼女の胸元には小さな黒い狐が抱かれていた。橡が黒い狐を優しく撫でると狐は気持ちよさそうにあくびをした。
「信じられないよ。あんたは本当に黒い心を自分の一部として受け入れているんだね。そうでもなきゃこんな居心地の悪い場所であくびなんかできない」
確かにそこは暗く空気が澱んでお世辞にも居心地が良いとは言えなかった。しかし同時に心にこんなにも深い闇を抱える青鈍が哀れに思えた。
「青鈍さんの心の中がこんなに暗いものだったなんて……」
「明るさなんて関係ない。他人の心の中なんて居心地が悪いに決まっている。でも本体に拒絶されている私たちはここしか居場所がないんだよ」
「居場所がない?」
奏斗が動くと何もいないと思っていた暗闇がモゾモゾと動きだし奏斗に怯えていた。
「ここにいる心はみんな捨てられて当然だって思っている。戻ってまた拒絶されるのが耐えられないんだ。だけどあんたは捨てなかった。だからみんなあんたが理解できなくて怖いんだ」
「君は僕が怖くないの?」
「私は助けて欲しかったの。ずっと誰かに」
奏斗は橡が黒い心を奪われる直前に奏斗へ向けた唇の動きを思い出した。
『タスケテ』
橡は確かにそうメッセージを送っていたのだった。
「うん。僕はそのためにここへ来たんだ」
奏斗が言うと少女は彼をまじまじと見つめた。その漆黒の瞳は無垢で澄み、とても黒い心だとは思えなかった。
「じゃあ来て」
橡は奏斗の手を引いて歩き出す。暗闇は洞窟のように暗く長く奥へいくほどに空気は重くなっていく。そのあちらこちらに黒い心たちが所狭しとひしめき合っていた。
(これだけの数の中から更紗さんや零くんの心を探すのは難しいかもしれない。それに出来ることならここにいる全ての心を救いたい)
奏斗はぎゅっと唇を噛み締めた。橡は迷いなく奥へ奥へと突き進んでいく。そして硬く閉ざされた岩の扉の前で立ち止まった。
「ここは?」
「ここは私の姉様がいる場所。あなたには私の姉様を助けてほしいの」
すると扉は橡を待っていたかのように軽く開いた。
そこには何もない白い空間の中で少女が泣いていた。今までいた暗闇とは対照的にただ真っ白の空間はひどく殺風景で寂しいものに思えた。
「姉様」
橡が呼ぶと泣いている少女が顔を上げた。長いまつげに雫をこぼし、泣いていたのは青鈍だった。
「橡……」
青鈍はこぼれそうに大きな目を見開いて橡を見る。青鈍は橡しか目に入っていないようだった。
「橡! やっと手に入れた」
青鈍は橡にしがみつくように抱きつく。青鈍に抱かれていた奏斗の黒い狐が逃げて奏斗の中へと入って行った。その間にも青鈍の腕が容赦なく橡の体に食い込んでいた。
「橡さん!」
奏斗が心配して叫ぶと奏斗の存在に気付いた青鈍が怒りに歯ぎしりをした。
「何故お前がここにいる? ここに入ることを許したのは橡だけ。橡しかいらぬのじゃ!」
すると橡は青鈍に強く抱き締められながら手を伸ばし彼女の背に手を置いた。
「私が連れてきたの。私だけじゃ姉様は救えない。だって姉様は私のことが大嫌いだから」
その言葉に青鈍は橡を突き放した。そして頭を抱えて苦しみ出す。
「ちがう、私はお前を愛している。お前だけが私の家族。あの時からおまえだけが!!」
すると真っ白だった景色に色がついていく。それは青鈍の心に深く刻まれた古い記憶だった。