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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第陸話 キツネ姫と黒いモノたち
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14 潮の記憶

 気付けば私は丸みを帯びた黒い地面の上に座っていた。そこから見える景色は見渡す限り濃い青で潮の香りと水しぶきが心地よい。

「私が八咫烏だったらお前とずっと一緒にいられるのになぁ」

 地面だと思っていたそこから低い声が響く。そこは大きなクジラの背だった。

「私はここで何をしているんだ? 山の神であるはずの私が何故クジラの上に?」

 クジラはゆっくりと大海原を泳いでいた。遠くには影のように岸も見える。ここまでくるのに何故自分が気づかなかったのか理解できなかった。しかし、クジラは私の問いにも落ち着き払い、静かに答えた。


「お前は探し物を追って遥々海まで来たのさ」

「探し物? 私は何を探していると言うのだ?」

 クジラに問いながらはっとする。そもそも私は自分が何者であるのかすらわからない。すると自分の手の形さえ曖昧になっていった。

「私は誰なんだ?」

 クジラはため息をつくように潮を吹いた。

「そうか、とうとう自分の姿さえも忘れてしまったか。だが君は安心していい。君が忘れるのならば何度でも私が教えてやろう」

 初めて会ったばかりのはずなのにクジラの方が自分のことを知っているなどおかしな話だった。それでも自分に記憶がない以上、尋ねる者はこのクジラしかいなかった。

「自分のことが分からないなど情けない」

「気にやむことはないさ。案外、誰しもが自分のことを一番わかっていないのかも知れない」

「何故君は私を知っているんだ?」

「君と私は友人なのだ。人に忘れ去られた君は記憶を徐々に失う。だからすべてを失う前に私に記憶を託したのだ」

 クジラはお伽話でも語るようにゆったりと語り始めた。



 昔、ある山に1人の天狗がいた。天狗は八咫烏を従える立派な山の神だった。しかし神には珍しく、人との距離は近く、まるで友人のように村人たちも天狗のことを慕っていた。そして村人の中でも無二の友と言えるような男がいた。男は焼き物を作る仕事をしていた。男が作る物は普段使うようなただの器もあれば、神々に捧げるような像を作ることもあった。2人が出会ったのは男が社に寄贈する烏天狗の像を造ったことがきっかけだった。

 天狗は真面目で素直な男をとても気に入っていた。しかし同時に心配もしていた。男は口数も少なく仕事に厳しかったので誤解されることも多かった。

 ある時、男に縁談が持ち込まれた。男には親族もおらず稼業を継ぐ後継が必要だと村の長が決めたものだった。男は結婚する気などなかったが、天狗も結婚をすすめた。孤独な男の側には人間の伴侶が必要だと天狗も思ったからだった。

 そうして男は妻を娶った。男の妻はとても美しいが妖しい女だった。天狗は女を警戒したが夫婦は仲睦まじく、可愛らしい女の子を授かった。そして男は誰が見ても幸せな家族を築き上げた。

 一人娘は物心つく頃に父親の仕事に興味を持ち、真似事をするようになった。彼女は幼くして父親の技術を吸収した。彼女が造った物はまるで生きているかのような出来栄えでその腕は父を超えるとも劣らないものだった。しかし、彼女に父親の跡は継げない。男の家系では代々息子、もしくは婿養子が後を次いで来たからだった。男は娘を自分の一番弟子と娘を結婚させることにした。だがことは男の思ったようにはいかなかった。


 娘の婚儀が近づいた頃、村では重い病が流行り娘も感染してしまった。男は娘のことを気に病み、娘が望むのなら自分も共に黄泉の国へと行こうとすら考えていた。しかし娘はそんな父親の気持ちに気付いてか、こう男に願いを託した。

「お父様、私に人形を作ってください。私たち家族の人形を。私の命が尽きた時、それを私と共に葬って欲しいのです。お父様がそうしてくだされば私は黄泉の国へ行っても寂しくありません」

 男は娘の願いを聞き入れ全身全霊、魂を込めるように親子の人形を造った。それは未来永劫共にあるようにと願いを込めて、丈夫な焼き物で出来ていた。だがその人形が娘の墓に入ることはなかった。娘が命を落とすと娘の亡骸が消えた。そして同時に男の最愛の妻も失踪した。

 妻と娘を一度に失った男に残されたのは自らが作った家族の人形だけだった。彼は人形と共に引きこもり誰と会うことも拒んだ。そして死の間際、男は天狗の元を訪れ家族の人形を天狗へと託した。

 それから天狗は彼から託されたものを大事に守り続けた。するとどこからか噂を聞きつけた人間が自分の死の間際に大事な物を彼に預けるようになった。天狗もまたそれを拒むことはなかった。他人から見れば不要な物でもそれらがただのモノではないことを天狗は十分すぎるほど理解していた。

 しかし、社に収められた物はやがては朽ち、みすぼらしく荒れていく。すると社には遺品だけではなくただの不用品を置き去る者も出てきた。そしていつしか社は芥に埋もれ人々は天狗の存在を忘れていった。

 ただ一つの救いは天狗は決して孤独ではなかったことだった。不死の天狗のそばにはいつも1羽の八咫烏がいた。

「私はお前とこれのおかげで私でいられる」

 天狗は男から譲り受けた人形を何百年経とうと大切に持っていた。その人形から思い出される鮮明な記憶とまるで半身のように傍らに寄り添う八咫烏のおかげで天狗は人に忘れられてもその身を保つことができていた。

 穏やかな暮らしが続いていたある日、異変に気づいた八咫烏の鳴き声が山に響いた。社の戸は開き、家族の人形の1体が何者かに盗まれていた。

「誰が持ち去った?」

 天狗が聞くと争ったのか息を切らした八咫烏が応えた。

「狐です。雪のように真っ白な狐が突然現れて」

「今行けば間に合うかもしれない」

「では私も」

 着いて行こうとした八咫烏に天狗は首を横に振った。

「お前にはここで残りの人形を守って欲しい」

「しかし、それではあなたさまが!」

 八咫烏は泣くような悲痛な声を上げた。

「わかっている。今、私は辛うじてこの姿を保っている。いつ自分を忘れてもおかしくない身だ。しかし、あれはあの男に託されたもの。一つたりとて欠けるわけにはいかない。私はこの想いを忘れぬ限り追わねばならぬのだ」

 そう言って天狗は八咫烏を置いて山を去った。幸いにも天狗は狐の痕跡を追うことができた。狐がたどり着いた先は海だった。天狗に追われることに気付いていた狐は彼と対峙した。

「ここまで追ってきたか」

「それは友人から預かった大事なものだ。返してほしい」

 天狗が言うと見定めるように狐は鋭い視線を向けた。そして咥えていた人型を海へ落とした。

「何をする!?」

 人型はトプンという音と共に紺色の底へと沈んでいく。天狗は海面へと追ったが沈んでしまっては手遅れだった。

「この持ち主はとうの昔に死んでいる。死んだ者の未練は消し去ってやるのが残された者の情というものだろう」

 狐はそう言うと元来た方へと身を翻し去っていった。天狗はただ呆然と海面を飛んでいた。大きなものを失った喪失感が天狗の心を襲う。だが不規則に入り乱れる白い泡と波を見ているうちに自分が何をしているのか分からなくなってきていた。


 その時、目の前で小さな泡がたくさん弾け、紺色の海が黒く染まっていった。

「そこで何をしている? お前さんは誰だ?」

 誰かに名を聞かれて頭に「天狗」という言葉が響く。突然の声によって天狗は忘れかけた自分を取り戻した。

「私は天狗だ」

「山にいるはずの天狗が海にいるとは不可解であるな」

「私は探し物をしに来たのだ。お前は海坊主というやつか?」

 すると波が起こるほど体を揺らして笑った。

「海坊主とは愉快な。私はこの海に住むクジラだよ」

 あまりに巨大すぎて全貌が見えない。しかしその声にはおおらかさと優しさが滲んでいた。

「そうか、クジラか」

「お前さん、何を探しているんだい? 長くこの海に住む私なら力になれるかもしれないぞ」

「いいや、探し物は私の手の中に収まるほどに小さな物だ。巨大なお前にはとても見つけられまい。だが一つ願いを聞いてくれないか?」

「ほう、願いとは?」

「会ったばかりでこんなことを言うのは気がひけるが私の話を聞いてほしい」

「そうか、わけがありそうだな」

「ああ、私はいつまで自分のことを覚えていられるかわからないんだ」

 天狗がそう言うとクジラは大きく海面に身をそりだした。黒くフジツボのついた身体が大きな山のように現れる。

「その願い聞いてやろう。私の背に乗るといい。ゆっくりと話をしながら海の散歩に行こうではないか」

 クジラに言われるがままその大きな背に腰をかける。ツルツルとした初めての感触を感じながら天狗は自分のことを話し始めた。





 天狗はクジラの話をまるで他人事のように聞いていた。

「そして、今に至るというわけさ」

 天狗はふふと笑った。

「何かおかしいかい?」

 クジラの問いに天狗は黒い背に反射する自分の姿を見た。そこには見覚えのない顔が映っていた。もうクジラの話を聞いても自分と話の中の天狗が結び付かなかった。ただ、クジラが話し慣れてしまっていることがおかしかった。

「君が私にその話をしてくれたのは何度目だろうね」

「何度だっていいじゃないか。お前さんは私にたくさん話をしてくれたよ。さっきだって君の八咫烏の話をしていたんだ。君の八咫烏は有能で君の体の一部と言っていいほどに長くの時間を共有してきたと君は言った。だから私は少しその八咫烏が羨ましくなったのだよ」

 天狗は哀しく微笑んだ。八咫烏、まるで光が差すように記憶の断片を思い出す。天狗が山を出たのは彼女のためでもあった。

「羨ましい? 彼女の人生は決して羨ましいものではないと思うよ。私は彼女を置いてきた。眷属である彼女は私には逆らえない。私はじきに全てを忘れる。そうなれば今度は忘れることで彼女を傷つけてしまう」

「そうか」

「私は山を出る口実が欲しかっただけなのかもしれない。どのみち記憶を失っては古い友人との約束を果たせなかっただろう。唯一、今の私が出来るのは彼女を眷属の呪縛から解き放ち、彼女の幸せを祈ることだけだ」

「まるで遺言だな」

 クジラがつぶやくと天狗は明るく笑った。

「遺言ができる友ができてよかった。君は間違いなく私の心の友だ。記憶にはなくとも魂の記憶がそう言っている。だから私も人間のように友人である君に想いを託してしまいたくなったんだろう」

「1人海を彷徨っていた私には心の友と呼べる者がいなかったが、友人とはなかなか重いものなのだな」

 クジラは大きな水しぶきを上げた。日の光が反射し虹が出る。天狗は虹に向かっててを伸ばす。

「そうだな。友情は時に人生さえも左右する。私は人が好きだ。人間と友になりたかった。だが人は私を好きにはなってくれなかった。人間の頼みを聞き入れた結果、神聖な山は芥に溢れ、私は山を離れた。私は守るべき山よりも友人を選んだのだ。だからこれはその報いだ」

 虹が消えると同時に天狗の手は黒いモヤになり消えた。急に消えた天狗の気配にクジラは声をかけた。

「おい、天狗、大丈夫か?」

 黒いモヤがクジラの上で儚げに揺れる。

「テングトハダレダ? ワタシハダレダ?」

 かすかに怯えるような声がした。

「お前さん……」


 バサッバサッ

 波音の中に羽音が混ざる。青空に黒いカラスが飛んでいた。カラスはその足にハシバミの枝を掴んでいる。

「やっとみつけました」

 その聡明な声に彼女が天狗が言っていた八咫烏だとすぐにわかった。

「そうか、君が天狗の言っていた八咫烏の更紗だね。だが君は天狗の命には逆らえないはずでは?」

 名前を呼ばれた更紗は露骨に不快感をしめした。

「あなたが誰なのか存じ上げませんが私の大事な方を匿って頂きお礼を申し上げます。ただ余計な詮索は遠慮願いたい。私はこの方を山へ連れて帰ります」

「だが天狗はもう自我を失っているぞ」

 黒いモヤはただゆらゆらと揺れながら「ダレダ?」と自問を繰り返していた。

「青鈍様お願いします」

 更紗が言いながら枝をモヤへと落とす。すると黒いモヤから白いモヤがぬぅっと抜け出し淡く白い狐の姿となった。

「さぁ、わたくしのところへおいで」

 姿の見えない幼女の声が枝から響くすると狐は導かれるようにその場を去っていった。

「更紗、天狗に何をした?」

 モヤは茫然とただそこに漂っていた。見た目にはほとんど変わらない、だが何かが先ほどまでとは大きく違った。今のモヤには己への執念すらなく虚無そのものだった。

 更紗はクジラの問いには答えず黒いモヤに向かって優しく声をかけた。

「あなたさまはもう楽になっても良いのです。山の神になどならなくてもいい。人間への情を捨て自由な魂に生まれ変わるのです」

「更紗、君は……」

 クジラは更紗がしようとしていることを察し、言葉を失った。更紗はモヤに向かいはっきりと叫ぶ。


「あなたは芥山に住むカラスです」

 黒いモヤはまるで答えをもらったかのようにみるみるカラスへと姿を変えていく。

「私はカラス。芥山のカラス」

 モヤは自分に言い聞かせるように何度もその言葉を唱えた。

「そうよ、帰りましょう。私たちの山へ」

 すっかりカラスの姿になると2、3ど羽ばたき、そのままクジラの背を飛び立った。水中にあるクジラの目と更紗の目が合う。

「お世話をかけました。彼は私が彼の居るべき場所へと連れて帰ります」

「更紗、君はそれで幸せなんだね?」

 クジラは天狗の言葉を思い出していた。更紗が幸せならそれでいい。天狗の願いが叶うのならば口出しはしない。そう決めていた。

「余計なお世話です。私たちのことは忘れてください。もう二度とお会いすることもありませんから」

 それが更紗の答えだった。更紗は陸に向かって羽ばたいていく。その後をもう1羽が追っていった。残されたクジラはその姿をいつまでも見つめていた。

「天狗よ、今わかったぞ。これはいつか君の願いを叶えるために私の元へ降り立ったのだ。だからそれまで君の大事な物は私が預かっているよ」

 クジラはゴクリと何かを飲み込んだ。そしてゆっくりと海底へと潜っていった。


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