13 再会
更紗を追っていた奏斗とアヤメも芥山に着いていた。空は晴れ渡っているのに芥山だけは濃い霧が立ち込め不穏な空気に包まれていた。更紗も身の危険を感じているのか霧の中には入らずに羽ばたきながら上空に留まっている。
「ここに橡さんがいるのかな」
「青鈍の支配下にいる更紗にも橡は見えないはずよ。きっと更紗の心が無意識にここへと惹きつけられているんだわ」
その時、霧が渦を巻き奥から低く重い声が響いた。
「ワタシハ……ダレダ……」
それは行きの新幹線で聞いた忘れ去られた神々の叫びとよく似ていた。
「あれはーー」
目を凝らすと霧の中に2つ光るものが見えた。光りは三日月のように細くなりニィと笑う。
「あなたのおかげでもうすぐ天狗に会うことができますよ」
3本の尾が霧の渦になびく。背の高い木の頂上に立つ橡の瞳は暗がりの中の獣のように光っていた。
「橡さん」
奏斗の言葉を聞いた更紗がすかさずカァーカァーと鳴き声を上げた。それは高く、遠くまで響かせるような声だった。
「青鈍に橡の場所を知らせているんだわ」
それでも分かり切っていたことのように動じない橡をアヤメは睨んだ。
「あんた……わざとなのね」
橡ははぁと小さなため息をついた。
「あの女には会いたくもありませんけどね。厄介なことに天狗を呼び醒すにはあの女と更紗が必要不可欠なんですよ」
「許せないわ。そのために奏斗を」
アヤメの肩が怒りに震えているのがわかった。
「ええ、生き物たらしの彼なら更紗の心にも隙が出る。思った通り更紗は彼に恩義を果たしに行きました。そしてその純粋な心で見事に彼女を揺さぶり、固い心の壁にひびを入れた。そのひびから覗き見える高尚な八咫烏の心の闇をあの女が見逃すはずがありません」
奏斗は唇を噛む。彼は自分を責めた。しかし自分を責めたところで事態は何も変わらない。奏斗には自分がすべきことが分かっていた。
「カァー!」
更紗はまだ青鈍に向かって鳴き続けていた。もう近くまで来ているのかアヤメが警戒を強めていた。
「すぐに青鈍が来るわ」
「あの女がここへ来たとしてもこの深い霧の中で力は使えませんよ。ですが、この鳴き声はどうも耳障りです。彼に黙らせてもらうとしましょう」
霧の奥深くからは苦しみに満ちたうめき声が聞こえていた。橡はうめき声に向かって語りかける。
「さあ、この八咫烏を捕らえなさい。彼女はあなたが何者であるのか誰よりもよく知る者ですよ」
すると霧の中から黒い大きな手が勢いよく現れた。
「……カエセ! ワタシノナヲカエセェェ!」
大きな手は更紗を掴み彼女の翼から羽がはらはらと落ちていく。
「ガァッガアッ!」
苦しむ更紗にも黒い手は力を緩めることはない。
「ワタシハナニモノナノダ……カエセ……ナヲカエセ……」
地鳴りのような低い声でそう言うと手は更紗を濃い霧の中へと引き込んでいった。
「更紗さん!」
「行くわよ! 奏斗!」
アヤメはカナトを乗せたまま深い霧の中へと黒い手を追った。
ヒューと湿った風が橡の髪をすり抜けていく。橡は水色の空にただ一つ浮かぶ灰色の雲を見上げた。それはまるで空を泳ぐ巨大なクジラのようにも見えた。
「もうすぐですよ。それまで耐えて下さいね」
橡がそう呟くと橡は背中から倒れ込むように深い霧の底へと身を投じ、霧の渦は彼女の身体を飲み込んでいった。
「ふぅ……」
愛美はため息をつきながらスマホから目を離した。先程から何度も画面を確認しているが誰からも着信は来ていない。
隣では健太郎が涼しい顔をして運転していた。
「ねえ、連絡遅いと思わない? もし連絡も取れないくらいヤバイ状況だったらどうすんの?」
「心配することはないですよ。もし連絡できないにしても居場所のヒントは必ずあるはずです」
「あんたってさ、その自信どこから来るの? 今だってさ当てもないのにどこかに向かっているみたいだし零や青鈍みたく事務所待機のが良かったんじゃない? 当てずっぽうが毎回当たるとは限らないじゃん」
皮肉を言う愛美に健太郎は口角を上げた。
「誤解を解くために言いますが勘と当てずっぽうは別のものですよ。考えても見てください。機械を使って個人が連絡を取り合うようになったのは最近のことです。それまで人は無意識に相手の行動パターンを予測し連絡のつかない相手を探し出していました。
俺たち人間は無意識の中でコンピューターとは比べ物にならない膨大な情報を処理しています。そしてそこから導き出された答えを勘として認識し、行動してきました。でも今の人間は自分よりも機械を信じる。そして行動するのをためらうんです」
愛美はギクリとしながら目を泳がせた。
「でもさ、もし勘が外れたら取り返しがつかないことになるかもしれないじゃん。それって怖くない?」
「勘はそれを疑った途端に情報が狂い始めるんです。恐怖を感じるということは疑っているということですよね。でも俺は誰よりも俺自身を信じています。だから俺の心が指し示す勘が嘘をつくはずはないんです」
愛美は眉間に人差し指を置いてうーんと考えこんだ。
「うーん、やっばり理解できない。あたしは勘で動ける人間じゃないや」
健太郎は前を向きながらくすくすと笑った。
「そうですか? 愛美さんもかなり勘で生きてきた人間だと思っていましたが」
「あたしが?」
「あなたは普通の人には到底辿りつかない九重会の事務所を探し当てた人だ。それはあなた自身の勘を頼りに突き進んだ結果じゃないんですか?」
「あの時は零だけのことを考えて必死だったんだよ」
「一緒ですよ、俺はいつでも必死です。橡に出会った瞬間から、彼女を救いたいとそれだけを考えて九重会にいます」
愛美は驚き顔を上げた。
「嘘でしょ? あんた、橡のことが好きなの?」
「まぁ、そういうことですね」
「ェェ……」
愛美は心底信じられないという表情を見せた。
「蓼食う虫も好き好きってことじゃないですか? 愛美さんと一緒で」
「ぐぬぬ」
その時、よく晴れた空が大きな陰がよぎったように暗くなった。
「え? 何? 雨雲?」
胸騒ぎを覚えて愛美は窓の外を見上げる。するとそこには大きな黒い雲がポカンと青空の中に浮かんでいるだけだった。
「今のは雨雲ではないですね。まるで何かが走り去ったような素早い陰でした」
健太郎はサイドミラーに視線を移す。そこには黒光りした車が猛スピードでどんどんと近づく様子が見えていた。
「やはり……」
「何? 勿体ぶってないで教えてよ」
その瞬間、追いついた高級車が音もなく2人が乗っている車の横をスレスレで抜いていった。愛美は突然割り込んだ車に肝を冷やした。
「あぶなっ! 何なの!? え、あの車って」
愛美は街でもそう簡単に拝めない高級車に見覚えがあった。
「はい、零君ですね。しかもあの運転の荒さを見るに青鈍はあの車に乗っていないでしょう。するとやはり先程の陰は青鈍のもの。動きに制限のある彼女が早急に向かう場所とすれば、そこにはーー」
健太郎と愛美の目が合う。
「橡がいる」
2人の声が揃った。しかし奏斗からの連絡はまだない。愛美の胸騒ぎは先ほどよりも大きく彼女を不安にさせる。そして健太郎もまた愛美と同じように嫌な予感が頭をよぎっていた。
「やはり連絡できない何かがあったと思って間違いないですね。俺たちも急ぎましょう」
健太郎はそう言うと零の車を追ってアクセルを踏み込んだ。
霧の中を着地するとアヤメは人の姿となり奏斗の手を握った。そこは雲の中にいるような一面灰色の世界だった。
「視界が悪いからはぐれないようにね。自分を失った神は藁をすがる思いで誰にでも襲いかかるから」
視界を奪われた世界で手から伝わる体温だけが温かく、危険な状況にあっても不思議と不安はなかった。
「アヤメさん、堕津さんは芥山の神様だったんだね」
「ええ、堕津は元々この山を守る天狗だった。でも時と共に人々は天狗を忘れ、天狗自身も自分を失っていったの。更紗は自分が何者かわからなくなった天狗にカラスという形を与えたのよ。自分を忘れた堕津にとって更紗は自分の存在意義だった。でも更紗が青鈍に心を奪われたことで、堕津は再び自分を忘れた神に戻ってしまったんだわ」
耳をすませば心の内から苦しみが漏れ出すようなうめき声が聞こえていた。
2人は声のする方へと急いだ。霧の中に黒い人型が浮かぶ。その手にはぐったりとしている更紗の姿があった。
「ワタシハダレナンダ」
黒い人型はすがるように更紗に何度も問い詰める。しかし更紗は残りの力を振り絞り青鈍を呼ぶだけだった。その光景は恐ろしいというよりもひどく悲哀に満ちていた。
「信じられないよ。更紗さんと堕津さんは誰よりお互いを想っていたのに。それに今の更紗さんには堕津さんが映っていないみたいだ」
「これが青鈍の力よ。大切なものを失いたくない気持ちが黒い心を生み出す。いわば大切なものを想う心と黒い心は表裏一体。だからどんな心も誰にも渡してはいけないのよ」
奏斗は背筋が凍るような青鈍の瞳を思い出した。青鈍の深い空洞のような瞳の中には彼女がこれまで手に入れてきた黒い心たちがひしめきあっている。今、その中に更紗や零の心もいる。
「堕津さんを救えるのは更紗さんだけだ」
奏斗はぎゅっと拳を握りしめた。
「それはどうでしょうかね」
霧の中で姿は見えない橡の声だけが響いた。
「橡、何がいいたいの?」
「昔の彼を知っているのは更紗だけではないということですよ」
すると青鈍を思い出した時の何倍もの悪寒が彼を襲った。それは彼女がすぐそばにいること指し示していた。
「橡! 橡! そこにおるのか?」
甲高い少女の声とともに霧が晴れていく。しかし霧の先に現れたのは巨大な黒い狐だった。霧は晴れたのではなくその巨体に遮られただけだった。そしてその側には雪の姿もあった。
「ええ、私はここいますよ、姉様」
橡の声が響く。それは不気味なほどに落ち着いた声だった。青鈍は長い舌を出し恍惚の表情を浮かべる。
「ああ、お前がわたくしを呼んでくれるとはまるで昔に戻ったようじゃ。お前の家族はわたくしだけ」
カァーカァー
天狗に掴まれたまま鳴く更紗の声に青鈍が微笑む。しかしその微笑みは更紗に向けられたものではなかった。青鈍はまるで好物の獲物を前にするように舌なめずりをした。
「これは大きな黒い心の気配じゃ。自我を忘れた神の苦悩か。わたくしにかような馳走を用意するなどさすが橡じゃ」
青鈍はねっとりとしたヨダレをたらすと目を見開いた。すると黒い狐たちが彼女の瞳から這い出してくる。
「いけない! このままじゃ堕津さんまで心を奪われてしまう!
「ダメよ! 危険すぎるわ!」
飛び出そうとした奏斗をアヤメが制する。すると上空から雨のように鋭く黒い物体が無数に降り注いだ。黒い物体が黒い狐たちにぶつかると狐たちは煙のように青鈍の瞳の中へと逃げ帰っていく。
「あれは!」
黒い物体が奏斗の前で弾け散る。それは八咫烏の姿をしていた。天狗は自分を守るたくさんの八咫烏に呆然と立ち尽くす。八咫烏の多くは黒い狐か地面にぶつかり、そのまま土に戻った。
「ナゼダ? ナゼワタシヲタスケル?」
天狗が問うと1羽の八咫烏と目があった。
「それはお前が私の友人だからだ」
その目は懐かしく。その声は天狗の心を穏やかな青い海へと誘う。そして美しい海は眠っていた記憶を懐かく呼び覚ました。