12 虚偽
「奏斗」
狐姿のアヤメは更紗を追いながら背中に向かって呼びかけた。その声は何か考え込んでいるような響きを含んでいた。
「どうしたの? アヤメさん」
アヤメは先程窓から飛び込んだ時のことが気になっていた。空中から飛び込む瞬間、アヤメは手遅れだと感じていた。だからこそ怒りに身を任せ青鈍に襲いかかるつもりだった。
「あなたさっき青鈍の瞳を逃れた……いえ、むしろ奴らの方があなたを恐れて逃げていたわね」
奏斗の瞳は完全に青鈍と対峙していた。しかし、奏斗の心は奪われなかった。奏斗は自分の胸に手を追いた。もう焼けつくような痛みはなく穏やかに温かい。
「黒い心って本当はとても強いんだ。僕は弱いけどこの心が僕を守ってくれたんだよ」
アヤメは奏斗の言葉に驚いたがすぐに目を潤ませて微笑んだ。
「あなたの優しさは強さよ。黒い心を味方につけるなんて誰にでもできることじゃない。受け入れ難い自分の心を受け入れたことであなたは自分にも優しくなれたのよ」
「僕、アヤメさんが言うほど優しくないよ。更紗さんが黒い心を奪われたのは僕のせいだ。そして心を取り戻しても、もう今までと同じ生活には戻れない」
奏斗の声が暗く沈む。天狗の存在を否定する更紗と更紗がいなければ自分が何者か分からない堕津。そこから導き出される答えは一つだった。堕津の正体は天狗であることを忘れた天狗だった。
「奏斗が気にすることはないわ。更紗は堕津の幸せを願い『今』を作り上げた。でもいずれは向き合わなければ相手を本当に幸せにすることは出来ないのよ」
アヤメの言葉にはまるで自分に言っているような決意が感じられた。奏斗はアヤメを抱きしめるように彼女の首へ腕をまわした。
「そうだね。僕は更紗さんにも幸せになってほしいよ」
(そしてアヤメさんにも……)
その想いが通じるよう向かい風を切り裂いて走る彼女の身体へと寄り添った。
更紗を追って飛んでいたはずの堕津は気付けば祠へと戻っていた。どのようにして飛んできたのかもわからない。カラスであるはずの自分の身体はまるで借り物のように違和感があった。
「私は何者なのだ?」
その言葉ばかりが繰り返し頭に浮かぶ。堕津には自分の親も幼い頃の記憶も何もない。
『あなたは堕津という名のカラスです』
更紗がそう言った瞬間から堕津はカラスだった。しかしその更紗が今はカラスの堕津を認識していない。カラスになった理由と同じようにカラスでなくなるにもそれだけで十分だった。そして込み上げる怒りの矛先は奏斗へと向いた。
「あいつだ。あいつのせいだ。あいつが来てからすべてがおかしくなった」
静かな祠の周辺に笑い声が響く。姿の見えない誰かが堕津を嘲り笑っていた。
「誰だ! 誰が私を笑うのだ!」
堕津が叫ぶ。すると近くの木の影からするりと姿を現したのは橡だった。
「これは失礼しました。あなたの生き様がなんとも滑稽で」
「なんだと」
「あなたは何でも人任せ。あなたが自分で選んだのは更紗の作り出した虚偽の姿で生きることだけ」
「虚偽の姿だと!? 私は間違いなくカラスの堕津だ!」
「本当にそうでしょうか?」
橡はにやりと笑い囁くように言う。
「『何故死ねない?』」
堕津はビクっと怯えるように身体を震わした。
「考えたことがないわけではないでしょう? 八咫烏の更紗は不死身。しかしあなたは? 普通のカラスであるはずのあなたには何故、死がない? そしてこの祠に固執する理由は何なのか? そんな疑問が浮かんでもあなたは知ろうとはしなかった。そして更紗の言うことを鵜呑みにし、事態が悪化すれば誰かのせいにする。ふふ、なんてずるい生き方。でも私は嫌いじゃないですよ」
「いい加減なことを言うな! そんなこと知る必要がない! 更紗もそう言ったのだ!」
声を荒げる堕津に橡は指を唇に当ててシッと合図した。
「あなたに怒る資格はない。知らなくていい、そう思っているならなおさらです。覚えていない、知らないというのはそれだけで罪。それはあなたの苦しみを誰かが背負っているということ。あなたの過ちは自分の苦しみをすべて更紗に丸投げしたことです」
「そんなことはない! 私と彼女の日々は平安な幸せな日々だった。間違いなく平安な……」
堕津はそう繰り返しながら、時折見せる更紗の悲しげな顔を思い出していた。しかし、堕津はそれすらも見て見ぬふりをし忘れようとしている自分に気づいていた。
******
私が自分をカラスとして認識して間もなく、私と彼女は夫婦になった。自分のことを何も覚えていなくても彼女と過ごす時間はまるで何年も付き添っていたように落ち着く。だから夫婦になるのも自然な流れだった。
初めて私たちが温めた卵は1つしか孵らなかった。そしてその雛には更紗と同じく足が3本あった。私たちはその子に紗綾と名付けた。
その後、私たちの間には何羽もの子どもたちが生まれた。しかし、彩綾以外の子どもたちは幼いうちに命を落としていった。その命を見送るたびに私の命を分けることができたらと思った。きっと更紗も同じ気持ちだっただろう。彼女は命の灯が消えるたびに「ごめんなさい」と謝った。
群れは私の家族だった。群れは私にとって何にも変え難い。しかし更紗は群れよりも私を尊重した。まるでそう魂に刻まれているかのように私の安全だけを考えているようだった。自分が狙われているのにも関わらず、彼女は私を命懸けで守る。私には彼女がそうまでする理由がわからなかった。
そしてわからないと言えばもう一つ不可解なことがある。巣の近くにある寂れた祠だ。今にも崩れそうなこの祠のそばを私は離れられなかった。祠に近づく人間を片っ端から追い出した。縄張りだからと言うのにはおかしいほどに神経質に祠に執着した。壊れて開くことのない扉の中にとても大事な物があると思っていた。
そして偽物の八咫烏たちが襲いかかってきた時、祠は崩れた。私は奴らの帰った後で更紗と共に祠の中を見た。壊れた祠の扉から中に入るとそこには何もなかった。
「これで分かったでしょう? ここにあなたが守るものなんて何もなかったんですよ」
私には分かった。更紗は嘘をついている。私は祠の染みに目が釘付けになった。
何もない? しかし何かがあったような染みがあるじゃないか。それにそこだけ埃もない。私はそれが何か知っているはずだ。それなのに何も思い出せない。何故だ、何故思い出せない?
考え込むといつも決まって潮の香りがした。ひどい頭痛と耳鳴りの間に波の音も聞こえる。海に行ったことなどないはずなのに青い海が生々しく目の前に浮かぶ。
「ーーよ、お前は唯一の友だ」
大きく響く誰かの声。それが誰かはわからないが私の名を呼んでいる。しかし思い出そうとすると自分の黒い羽が霧に消えてしまいそうだった。
「更紗、私は怖い。私は一体誰なんだ? 教えてくれ」
「あなたは私の夫。カラスの堕津よ」
更紗はそうやっていつも私というカタチを示してくれた。だがそういう時の更紗は何故か泣きそうだった。
「そうだな。私はカラスの堕津だ」
声に出すと海の幻は消え、黒い翼に感覚が戻る。
「ええ、あなたはカラスの堕津よ」
彼女は念を押すようにもう一度言った。更紗は嘘をついている。だがそれでいい。君が望むのだから私は堕津として生きよう。
「君のいう通りここには守るものなど何もなかった。君の怪我が治ったらここを出て皆でひっそりと暮らそう」
私がいうと更紗は嬉しそうに「ええ」と頷いた。
何も覚えていない私には君しかいない。だから君が望むようにすればいい。君がそう望む限り私はカラスの堕津なのだ。
ダガ……キミガノゾマナケレバ……ワタシハ……
堕津の身体は黒いガス状になっていた。もうそこにカラスの面影はない。それは奏斗が新幹線のトンネルで見た自分を失った神々と同じ姿をしていた。