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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第陸話 キツネ姫と黒いモノたち
73/84

11 愛するが故に

 奏斗は眠れずにずっと空を眺めていた。トロトロは物思いにふける奏斗を気遣ったのか「たまには外の泥にでもなってドロドロしてくるわ」といって奏斗を1人にしてくれた。

 次第に空は白み始め、部屋に吹き込む風からは清々しい朝の香りがした。白いシャツに腕をとおし、トロトロがいつ戻ってきてもいいように溶けたチョコレートを袋に入れて胸ポケットにしまう。

「昨日までとは違う新しい1日が始まるんだ」

 奏斗はつぶやいた。


 しかし、それは波乱の幕開けでもあった。真っ赤に染まる東の空に小さな黒い点が浮かび上がり点はポツリポツリとその数を増やしながら大きくなっていく。最初に現れた大きな黒い点がカラスだと判別できた時、同時に怒りに満ちた鳴き声が静かな朝の空に響き渡った。

「ガァ! ガァー!」

 八咫烏の群れに比べれば小さなその群れは怒り狂いながら事務所を目指して飛んできていた。それは堕津の群れだった。

 奏斗が窓から身を乗り出して目を凝らすと胸ポケットのチョコレートが奏斗へ叫んだ。

「奏斗! 窓を閉めて今すぐこの部屋を出るんだ!」

 奏斗は慌てて窓を閉めると部屋を駆け足で出た。

「トロトロ戻って来たんだね」

「ああ、今日は大変な1日になりそうだぞ」

「大変な1日?」

 ガシャガシャーン

 奏斗の部屋の方から窓ガラスが割れた音がした。

「堕津の群れが更紗の匂いを辿って来たんだ」

「堕津さんが僕を狙って来たってこと?」

「詳しいことは後だ。事務所へ行くぞ。話はそれからだ」

 トロトロは早く事務所へ行くように奏斗を急かした。事務所へ行くと雪、そして健太郎と月白を抱いた愛美もいた。

「奏斗っち大丈夫だった? すごい音がしていたけど」

「うん、トロトロが声をかけてくれたから部屋は出ていたんだ。愛美さんはずっとここに?」

「夜明け前に師匠に叩き起こされたんだよ。起こすだけ起こして事務所に行けって言ったと思ったらまた寝ちゃうから、ハァッ!? って感じだったんだけど。みんな集合してるし何が起きたの?」

 戸惑う愛美に答えたのは健太郎だった。


「堕津が怒り狂いながら襲ってきているんですよ。橘君の部屋の次はここにやってくるでしょう」

 事務所の窓はまるで迎え入れるように開け放たれていた。

「え、コワッ」

 愛美は後退りしながら抱っこ紐ごと月白をギュッと守る。すると次の瞬間、バサバサッという激しい羽男と共にカラスの群れが窓からなだれ込んできた。


 怒り狂う堕津は奏斗を見つけると鋭い爪で奏斗を襲う。ダメだと思った瞬間、奏斗は咥えられ目にも止まらぬ速さで堕津の攻撃をよけていた。見えるのは降り積もった雪のように真っ白な毛並みだけだった。瞬時に妖狐の姿となり奏斗を守ったのは雪だった。雪は口を離し、ドンと乱暴に奏斗を床へ下ろした。

「ありがとうございます」

「日が登るまではあなたを守る約束ですので」

「あの……アヤメさんはどこに?」

「姫でしたらもうすぐ戻りますよ」

 雪はそう言うと奏斗をまたぐように立ち、次々と飛びかかってくる堕津の群れを顔で払い除ける。

「人間め、やはりキツネの回し者だったか! 更紗をどこへやった!」

 堕津は怒り狂い叫んだ。奏斗の胸に嫌な予感がよぎる。

「更紗さんが帰っていないんですか?」

「しらばくれるな! お前が更紗を謀ったのだろう! でなければ更紗が無断で群れを抜け出すなどするわけがない!」

 再び襲い掛かろうとする堕津を雪が威嚇する。奏斗は更紗が奏斗の部屋を出てから群れに帰っていないことを理解した。


 カラカラカラ

 乾いた車輪の音が事務所のドアから聞こえてきた。奏斗はその姿を見て言葉を失った。青鈍の肩に止まっているのは3本足の八咫烏だった。

「更紗!」

「騒がしいと思うて来てみれば、お前が探しているのはこのカラスか?」

 青鈍が焦点の定まらない瞳を細めて笑う。

「更紗! どうしたのだ! わたしがわからないのか? 戻ってこい! 更紗!」


 堕津がその名を呼んでも更紗は反応しない。青鈍が腕を上げると更紗はぴょんと腕に飛び移り、なついている様子で青鈍にすり寄った。

「お前、更紗に何をした?」

「こやつは心を捨てたのだ。わたくしはその心をもらい受けただけ。わからぬか? こやつはお前らを捨てたのだ」

「心を捨てただと? 更紗がそのようなことするわけがない。更紗を返せ! 更紗は我らの家族だ」

「しつこいのう。あやつはそう申しているがお前はどうじゃ?」

 青鈍が声をかけると更紗は彼女を見上げる。

「私は青鈍様にお仕えする身。家族などおりませぬ」

 更紗の冷たい目は堕津を見ることさえ拒んでいた。突きつけられた言葉を堕津は信じられなかった。


「今、この者の主人はわたくしじゃ。それにこのカラスは橡が追っているカラスというではないか。なんとちょうど良いことか。さぁ、橡を探し誘き寄せるのじゃ」

「はい、青鈍様」

 すると更紗は堕津をすり抜けて窓の外へと飛び立っていった。

「更紗……」

「お父様! お母様を追いましょう!」

 紗綾の呼びかけにも答えずに堕津は茫然としていた。


「どうやらお前はあの八咫烏がおらねば何も出来ないようじゃの。あの八咫烏がいなくなればお前は何になる? お前は何者じゃ?」

「私は……更紗がいない私は……」

 堕津は何も聞こえないようにブツブツと自問自答を繰り返した。群れのカラスが紗綾に叫ぶ。

「紗綾、我らだけでも更紗を追おう! 今追えばまだ間に合う」

 カラスたちは堕津を置いて次々に飛び立つ。

「お父様、お母様は必ず我らを思い出します。私たちは家族なんですから」

 紗綾もそう言うと更紗を追った。残された堕津の胸元から黒いモヤが滲む。青鈍は黒い心の気配に嬉しそうに笑った。

「捨ててしまえばいい。お前を捨てた更紗もお前自身の醜い心も」


 混乱と共に堕津の黒いものが次第に大きくなっていく。堕津は優しい言葉にすがるように青鈍の方を向く。

「渡してはダメだ!」

 奏斗は叫び堕津と青鈍の視線に割って入った。青鈍の瞳からは黒い狐たちが這い出していたが奏斗の目の輝きを狐たちは恐れた。

「腑抜け共め。お前もそこを退かぬか! そやつの要らぬ心をわたくしがもらい受けてやるのだ」

 青鈍の顔がみるみる醜く歪んでいく。見るに絶えないほど恐ろしい怒りの形相を前にしても奏斗は怯まなかった。

「この世界にいらない心なんてない。それが辛い想いだとしてもその想いの居場所は堕津さんの心の中だけだ」


 奏斗の言葉に青鈍の瞳の中がザワザワと蠢く。青鈍がギリギリと唇を噛み顔はいよいよ狐と化した。

「生意気な人間。調子に乗りおって。カラスより先にお前の心を奪ってやる。力尽くでもな。お前たち、あの男の心を引きずり出せ。出来なければわたくしの中にお前らの居場所はないぞ」

 青鈍に脅されて瞳の中の黒い狐たちが唸りながら這い出す。奏斗の身体は見えない鎖にでも繋がれたように動けなくなっていった。


「健太郎、奏斗っちを助けなきゃ!」

 しかし健太郎は動かなかった。

「無駄ですよ。彼はもう逃れられない」

 彼は全身で絶望的なほどの危険を感じていた。経験したこともないような初めての恐怖が筋肉を硬直させる。

「薄情者! いいよ、あたしだけで助けるから!」

 奏斗の元へ向かおうとする愛美の腕を健太郎は引き止めた。

「愛美さん、今行けば俺たちもやられます。そして更紗や彼のようになってしまう。そうなれば心を取り返すのがいかに難しいかあなたなら分かるでしょう?」

 健太郎の額に冷や汗が浮かぶ。愛美は意志のない操り人形のような零を見た。

「今は近づくべきじゃない。俺の勘がそう言っているんです」

「こんな時まで勘だなんて……冗談やめてよ……」

 泣きそうな声で絞り出す。愛美だってわかっている。しかし敵わない相手でも前に踏み出さなければ過去の二の舞なのだ。健太郎の手を振り払おうとした愛美に雪が冷たい視線を向けた。


「黙って聞いていればなんと愚かでしょう。青鈍様は今、狩りの最中。騒げば獲物を見誤るかもしれませんよ」

「じゃあ黙って見ていろって言うんですか?」

「騒いでいれば助けられるとでも? 騒げば騒ぐほどお前が助けたい人間は離れていっているのに」

 雪の言うそれが零のことであるのは明らかだった。今、青鈍の邪魔をすれば零は愛美を許さないだろう。黙る愛美に雪は追い討ちをかける。

「月白様が何故あなたのような人間を選んだのか理解に苦しみます」

 鋭く冷たい雪の言葉に胸が締め付けられた。愛美は涙ぐみながら抱いている月白を抱きしめる。しかし月白に起きる気配はない。

(私だって分かっている。私じゃ誰も助けられない。姐さん、師匠、誰でもいいから助けてください)

 愛美は祈ることしかできなかった。


 そしてとうとう奏斗に黒い狐たちが襲いかかった。愛美は見ていられずに顔を背けた。もう誰も青鈍を止められない。そこにいた者が皆そうあきらめかけたその時、窓から目が眩むほどの光が飛び込んで来た。

「青鈍ぃ!!」

 怒りに震える声が響き、美しい妖狐が奏斗の前に降り立つ。花菖蒲と形容される見事な6本の尾が金粉を散らしたように朝陽に輝いていた。青鈍に対し戦闘態勢を取るアヤメは絶対的強者。その言葉がよく当てはまっていた。アヤメがそこにいるだけで空気は変わり、事務所は青鈍の恐怖から解放された。

 奏斗に背を向けるようにして守るアヤメの顔は見えない。しかしその毛は怒りで逆立ち、グルグルとうなり声が振動していた。

「アヤメさん、僕は大丈夫だから」

 奏斗が言うとアヤメの逆立った毛が落ち着いていき滑らかに波打つ。そして横目で奏斗の安全を確かめると優しい瞳になった。

「ごめんなさい、遅くなって」

 その声はいつもの穏やかなアヤメの声だった。



 青鈍はちっと小さく舌打ちをした。

「姫はいつもわたくしのものを奪いよる」

「力づくで奪ってもあんたの物にはならないのよ」

「九尾様から生まれただけの小癪な小娘が」

 ギリギリと歯軋りをした青鈍の口から血が滴り落ちる。

「そうね、そのおかげであんたの術に抗うだけの力はあるわ」

「許さぬ許さぬ……」

 青鈍の身体が大きくなり妖狐へと変わろうとするのを零は慌てて止めに入った。

「青鈍様これ以上はお身体が持ちません」

「うるさい! お前はわたくしに従っておればいいのだ」

 ドン

 青鈍はすごい力で零をはたき倒し零は壁に打ち付けられた。

「零!」

 愛美は倒れた零の側へ駆け寄る。

「大丈夫? 零」

 強く打ち付けた背中の痛みに零の記憶がフラッシュバックする。丸まって苦しむ零の背中を愛美がさすると彼は小さな声で呟いた。

「父さん……俺は……」

「お父さん? お父さんがどうかしたの?」

 愛美が聞き返すと零ははっとして彼女を押し除けた。

「触るな!」

 零が青鈍の元へ行こうとした時、もう青鈍の近くには雪がいた。


「青鈍様、鎮まりくださいませ」

 雪は幼子にかたりかけるように優しく言った。半分妖狐になりかけていた青鈍がグルグルと唸り声を上げる。その首元を雪が撫で続けると唸り声はすすり泣きに変わっていった。

「雪、皆がわたくしを邪魔をするのじゃ。わたくしは何も悪いことなどしていないのに」

「ええ、青鈍様。雪は存じておりますよ。青鈍様はお優しいお方です。今は少し戸惑ってしまっただけ。さあ、雪の腕の中で少しお休みくださいませ」



 青鈍の目を逃れた堕津がふらふらと飛んでいく。

「更紗……更紗……君がいなければ私は……」

 ぶつぶつと独り言を言いながら窓の外へ飛び立った。


「俺たちも更紗を追った方がいいですね」

 健太郎はカラスたちが飛び立って行った方向を見た。愛美はハッとして頷く。

「そ、そうだね」

「花菖蒲さん、空から追ってもらえますか? 僕たちでは見失ってしまう」

「ええ、いいわ」

 アヤメが目で合図をする。すると奏斗はトロトロを胸ポケットからテーブルにそっと置き、慣れた様子でアヤメの背に乗った。出て行こうとした背中に健太郎が声をかけた。

「橘くん! 俺と愛美さんは車で追います。場所が分かったら連絡を下さい」

 奏斗は頷いた。妖狐の姿のアヤメは奏斗を背に乗せ優雅に空を駆けていく。愛美はその姿に見とれていた。

「当然のように一緒に行ってしまいましたね」

「そりゃ、好きな人とは片時も離れたくない乙女心ってもんだろ」

 テーブルにおかれたトロトロが言う。愛美はちらりと零を見たが零の目には青鈍しか映っていなかった。

「それで言うと俺は脈なしってことですね」

 健太郎が自嘲気味に笑う。

「え?」

「なんでもないですよ。さぁ俺たちも行きましょう」

 2人はパタパタと事務所を出て行った。



 残されたのは雪と青鈍、零だけだった。テーブルにいたトロトロも彼らと一緒にはいたくないのかどこかに身を隠してしまった。

「零、席を外しなさい」

 雪が言うと零は黙って部屋を後にした。雪は青鈍の口元に残る血をハンカチで丁寧に拭った。

「青鈍様、あまりお力を使ってはお身体に障ります」

 優しい雪の声に青鈍の表情も柔らかくなる。

「雪、わたくしの身体などどうでもいいのじゃ。とうとう橡に会える。わたくしの願いはただ一つ。またあの頃のように姉妹で仲良く共にいたい」

 青鈍と橡の幼い頃の記憶が鮮明に思い出される。母に捨てられ妖狐となったばかりの橡には青鈍しか頼る者がいなかった。何も知らない橡は生き別れていた姉を純粋に慕っていた。

「あの頃は雪も幸せでした」

 雪は気休めでもあの頃に戻れるとは言えなかった。青鈍を信頼していた分、真実を知った橡の絶望も大きかった。一度壊れた信頼関係は戻らない。雪はふたりの関係を誰よりも理解していた。


「橡は気付いていないだけじゃ。かつてわたくしも橡を憎んだ。人間に生まれ親に愛される橡が許せなかった。だがわたくしは間違っていた。弱く脆いわたくしの妹。わたくしを本当に愛してくれたのは橡だけじゃ。話せばきっとあの頃の素直な橡に戻るじゃろう」

「しかし橡様はもうご立派な妖狐でおられます。あの頃の橡様とは違うのです」

 雪の一言で柔らかみを帯びていた青鈍の空気が変わった。

「わたくしを愛していないものは皆、わたくしを否定する。雪、お前もそうじゃ」

「青鈍様、私はお二人のためならば命も賭す覚悟にございます」

「心にもないことを。では何故わたくしの目を見ない? なぜお前の持つ黒い心をさらけ出さない? わたくしを愛していないからその腹の内を見られるのが怖いのであろう?」

「私はーー」

 雪は何か言いかけて口をつぐむと、それを感じ取った青鈍の口元がほころぶ。


「ふっ、お前は母上に命じられて世話をしていただけじゃ。やはり橡だけがわたくしの家族、お前は黙ってわたくしたちのそばにおればよい」

 青鈍はそう言うと人形のように固まり口を閉じた。

「はい、青鈍様」

 雪は静かに返事をした。




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