10 更紗の嘘
ズビッと鼻をかむともう涙は止まっていた。咳を切ったように溢れ出ていた涙とともに奏斗の心はスッキリとしていた。
「それで? 何でそんなに泣いていたんだ」
うなされていた時からずっと見守っていてくれたトロトロは奏斗が落ち着くのを見計らって声をかけた。
「うん、それがーー」
奏斗が話し出そうとするとタイミング悪くコツンコツンという音がした。それは固いもので窓ガラスを突くような音だった。トロトロも流石に気になったのか窓の方を向く。するとまたしてもコツンコツンと響き、それが風のせいではないと確信した。
「奏斗の話を聞くよりも先に違う奴の話を聞くことになりそうだな」
奏斗は立ちあがりカーテンを開ける。するとそこにいたのは1羽のカラスだった。カラスは闇に紛れ足もとに巻かれたガーゼだけが白く浮かび上がっていた。
「更紗さん!」
奏斗は驚き窓を開けると更紗はベッドの端へと飛び移り大きな羽をしまった。
「真夜中の来訪をお詫びいたします」
更紗が丁寧に頭を垂れると奏斗は慌てながら手を横にふった。
「いえ起きていたので気にしないでください! それより怪我は大丈夫なんですか? そんなすぐに治るような怪我じゃなかったはず」
奏斗が手当をした時、更紗の翼はとても遠くまで飛べるような状態ではなかった。しかし更紗は近いとは言えない事務所までの距離を自ら飛んでやってきた。驚く奏斗の前で更紗は足に巻かれていたガーゼをスルスルとくちばしで器用に取る。
「ええ、あなたに手当てして頂いたお陰で悪くなることもなく治りました」
確かに治っていなければここまで飛ぶことは出来なかっただろう。奏斗はその治癒力の高さに驚き、一つの可能性が頭をかすめた。
「更紗さん、あなたはもしかして普通のカラスではないのですか?」
更紗は奏斗の疑問に答えるように2本の足を大きく開く。するとその間に羽毛に隠れていたもう1本の足がゆっくりと下りてきた。
「ええ、私は山の神から妖力を授けられた烏。八咫烏と呼ばれるモノです。今宵はあなたに借りを返すため参りました」
3本の足で凛と立つ更紗にはえも言えぬ気品が漂っていた。
「八咫烏ってのは巧妙にその身を隠すとは聞いていたが妖力まで隠すとはねぇ」
トロトロが感心の声を上げる。奏斗は思わず椅子に腰掛け膝に手を置いて背筋を伸ばした。そうしなければ失礼だと感じた。ゴクリと唾を飲み込み更紗に向かう。
「では、天狗の居場所を教えていただけるんですか?」
更紗は少し沈黙してから黒く光る目を奏斗へ向けた。
「いいえ、それはできません。芥山にいた天狗はもう存在しない。存在しないものの居所を教えることなどできません」
予想はしていたが奏斗はがっくりと肩を落した。クジラが会いたがっているのは天狗だ。その天狗がいないとなればクジラに諦めさせるしか術がない。更紗は気落ちしている奏斗に話を続けた。
「しかし私が知っていることをあなたにお話しすることはできます。それは眷属として私が見た天狗の記憶です」
「更紗さんの知る天狗の記憶。そこに何か手がかりがあるかもしれない」
奏斗はトロトロと目を合わせ深く頷く。
「教えてください。天狗のことを」
奏斗が頼むと更紗は静かに天狗のことを語り始めた。
「太古の昔、まだ人々がムラを作って間もない頃、天狗は人と共に暮らしていました。天狗は神でありながら穏やかで心優しく人間を家族のように慈しんでいました。そして人間も彼のために社を作り、崇め祀っていました。
しかし、死のない我らと違い人は世代を繰り返していきます。人が変われば人の想いも変わるもの。それはある人間が死の間際、天狗に家族の形見を託したことから始まりました。人の良い天狗はそれを快く引き受けたのです。するとそれを聞きつけた人々が天狗に手に余る遺品を預けるようになりました。たちまち社は物で溢れ、時に不要な物まで置き去りにする者も現れました。時が経てば預けた人も旅立っていく。想いのこもった物もそれを知らない者にしてみれば芥、すなわち不要な物にしか見えません。
そうしていつしか天狗の山は芥に溢れ、芥山と呼ばれるようになりました。社は芥に埋もれ人々は天狗のことを忘れていったのです。人に忘れられた神はゆっくりと己を忘れていきます。そして天狗もまた徐々に自分が何者であるのか失っていきました」
「自分が何者なのかを忘れた神……」
奏斗は新幹線での耳を塞ぎたくなるような神々の叫びを思い出した。
『返せ、……我の名を返せ』
彼らは人のために失った自我を人に返してもらおうと叫んでいたのだった。そして人に忘れられた天狗にも彼らと同じ運命が待っていた。更紗は自分の記憶を丁寧に言葉に変えていった。それだけで更紗にとっていかに天狗が大事な存在であるかが分かった。奏斗は天狗の苦悩を側で見ているしかできなかった更紗を思うと胸が締め付けられた。
「最後まで天狗を天狗たらしめていたのは天狗が初めに受けとったモノでした。天狗はそれをとても大切にしていました。彼は深い思い入れのあるそれがあれば自分が何のために生きているか思い出すことができたのです。しかし、突然やってきた1匹の妖狐がその一部を盗み逃げていきました。私は妖狐を追いかけようとした天狗を止めました。自分の山を離れればさらに忘却が加速するからです。しかし天狗は言いました。
『アレがなければ遅かれ早かれ私は『私』を忘れる。自分を忘れようとも私はアレを取り返しにいかねばならない』
そう言って天狗は山を去っていったのです」
奏斗は言葉を失った。奏斗はふと祠の中にあった焼き物の人形を思い出した。
「あの、それは祠の中にあった人形ではないですか? 古い焼き物の人形が何体かあったはずです」
「あなたは中を見たのですね。仰る通り、あれは元々仲睦まじい親子を現した焼き物でした。あれは親と子が揃い一つなのです。天狗が姿を消して以来、今もあれは不完全なまま。祠の扉は固く閉ざされ、それを我らが守っていました」
奏斗は眉間に皺を寄せ難しい顔をした。
「どうした? 奏斗」
「更紗さんの手当てをした時には祠の中が空だったんだ」
更紗は探るような目で奏斗を見つめていたがふっとその目を離した。
「きっと混乱に乗じて何者かが持ち去ったのでしょう」
さらりと言う更紗に奏斗は違和感を感じた。
「また盗まれたのに怒っていないんですか?」
「あれはもともと人間が天狗に押し付けたものです。あれがなければ天狗の山は芥山にはならなかったでしょう。私にとってあれは厄を招く不吉なものでしかありません。犯人の目星など、とうについておりますが、私にとってはどうでもいいことです」
奏斗は少し考えてから最後の質問をした。
「あの、更紗さん、もうひとつだけ聞きたいのですが。あの人形の持ち主はどうして天狗にそれを託したのですか?」
「それは天狗とその男が腹心の友であったからです。家族を失い自分も年老いた男は永遠の命を持つ天狗にその人形を預かるよう頼むとすぐに息を引き取りました」
「腹心の友……」
「天狗には物に対する執着がありませんでした。しかし友の死によって彼が遺した物への執着が芽生えてしまった。思えばそれが悲劇の始まりだったのです」
更紗の瞳が悲しげに暗く沈んでいく。
「更紗さん、大丈夫ですか?」
奏斗が思わず声をかけると更紗ははっとした。
「ええ。私が知っているのはここまでです。これで借りは返しました。もう私たちには関わらないで頂きたい」
「ありがとうございます。でも」
奏斗は言葉を濁した。
「何ですか?」
「自我を忘れた神々も存在が消えたわけではありませんでした。だから天狗はどこかに存在しているはず。あなたは天狗に会いたくはないのですか?」
更紗は込み上げる怒りを抑え込むように奏斗を睨む。
「私はもうあのお方の苦しむ姿を見たくはありません」
更紗の言葉に奏斗は口をつぐんだ。今はどんな言葉も綺麗事で他人事で無責任に思えた。すると更紗の鋭い目つきがふと柔らかくなった。
「あなたは優しい。優しさは強さです。私はあなたほど強くない」
「更紗さん」
「誤解しないでください。妖狐が盗みを犯したことに違いはない。だから私は妖狐を信用しない。彼らの手下であるあなたも同じです。キツネたちが私の家族を危険にさらすのならあなたは私の敵になる」
更紗はそう言うと羽ばたき窓の外へと飛び去った。
奏斗は窓から身を乗り出し更紗にむけて叫んだ。
「更紗さん! 僕は妖狐の手下じゃない。僕は九重会に関係なく天狗を探します! 天狗は今も自分を忘れ苦しんでいるはずだから」
更紗はカァと一鳴きすると闇夜に消えていった。トロトロはやれやれと奏斗を見る。
「ずいぶん大胆なことを大声で叫んだもんだな」
「忘れるのは楽だけど苦しいよ。自分が何で苦しんでいるのか分からないならなおさらだ。それが永遠に続くなんて可哀想すぎるよ」
奏斗は自分の胸に手を当てた。あんなにも彼を苦しめた胸の痛みは嘘のように静まり、奏斗の黒いキツネが心地良さそうに寝ている姿が見えた。
「俺が言ったのは妖狐の手下じゃないってとこだけどな」
奏斗はキョトンとしてすぐに笑った。
「僕はアヤメさんの側にいるためなら手下でも何でもいいんだけどね」
「奏斗は九重会の手下じゃなくて姫の下僕だもんな」
奏斗はハハハと困り笑いを浮かべたが、あながちトロトロの言うことも間違っていないと思った。窓には自分の姿が映し出されていた。
(僕の使命は今度こそアヤメさんを幸せにすること)
窓に映る自分が嬉しそうに微笑む。その額にはうっすらと傷痕が浮かんでいた。
『今も天狗は自分を忘れ苦しんでいるはずだから』
更紗の頭の中に奏斗の声がこだまする。
(今も苦しんでいる? そんなはずはない。あの方は苦しみから解放され幸せなはず)
更紗の胸が激しく締め上げられる。ハァハァと荒い息を吐きながら耐えきれずに近くの枝へと止まった。更紗の記憶がフラッシュバックしていく。動かなくなった幼い我が子の前で陀津がぽつりぽつりと言葉をこぼす。
『生まれたばかりの命が消えるのに何故私は死なない? 私は八咫烏でもない。私は何者なのだ』
陀津の体が黒い霧に変わっていく。
『あなたはカラスの陀津、私の夫よ』
それは更紗が何度も陀津に言い、自分へと言い聞かせた言葉だった。その言葉を口にする度に黒い塊がポチャンと心に沈んでいく。
更紗の苦しみは闇に紛れ彷徨うモノを惹きつけた。夜の闇よりも暗い陰が更紗に忍び寄る。陰は更紗の足にまとわりつくと少女の姿に変わった。ニタリと笑うその顔は青鈍だった。
「お主は嘘つきじゃのう」
「嘘つき?」
「ああ、お主からは嘘への罪悪感の香りが漂っておる。天狗が存在しないなど真っ赤な嘘じゃ。天狗は近くにおる」
「いない! 天狗は妖狐を追って海へ行き姿を眩ませた!」
更紗は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
「では何故天狗が海に行ったと知っている? わたくしは知っているぞ、お前は天狗を追った。そしてそこで何をした?」
更紗は青鈍に取り憑かれ錯乱状態に陥っていた。
「それは……私は天狗を救いたかっただけ。自分を忘れてカタチを失うあの方を」
青鈍は更紗を闇で包み込む。
「本当にそれだけか?」
青鈍は更紗の目を覗き込む。すると更紗の喉から漏れ出たのは低く抑揚のない声だった。
《人間のことばかり想うあの方を私のモノにしたかった》
更紗は隠していた自分の心に声にならない悲鳴をあげた。すると黒いキツネが更紗の胸元から滲み出す。
「更紗、お主は充分苦しんだ。もう楽になるといい」
「楽に?」
更紗が朦朧としながら青鈍の言葉を繰り返す。
「ああ、そうじゃ。さぁ、いらない心をわたくしに頂戴な」
「青鈍様……」
更紗が青鈍を呼ぶと青鈍はにっこりと笑う。更紗の目から黒いキツネが這い出して青鈍の瞳へと吸い込まれていく。
「いい子じゃ。もう充分に楽しんだじゃろう、更紗」
青鈍は怪しくにんまりと笑った。