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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第陸話 キツネ姫と黒いモノたち
71/84

9 小さな光

「おい! 奏斗! 大丈夫か!?」

 トロトロの声に呼ばれ、次第に身体の感覚を取り戻していく。目を開けるとベッドの脇ではトロトロが心配そうに奏斗を見ていた。

「何度も呼んだんだぞ! ずいぶんうなされていたが嫌な夢でも見たか?」

「夢?」

「ああ、きっと悪夢だよ! そうにちがいない! 例えば襲われたとか。辛い目に遭うとか、具体的には愛美が目を見開いてペロペロ舐めようとしてくるみたいな! あれは悪夢以外何ものでもない!」

 トロトロは奏斗と愛美が散策から戻って彼女に襲われた時の様を思い出すと身震いした。


「悪夢? ううん、悪夢なんかじゃないよ」

 奏斗は首を横に振り、涙で色の変わった袖を見た。夢の中で感じた感触、音、匂い。それを『夢』と呼ぶには記憶が生々しい。まだこぼれ続ける涙にトロトロが慌ててティッシュを差し出す。

「そんなポロポロ泣くほどの夢なのに悪夢じゃないなんてまだ寝ぼけてるんだろ?」

「これは僕の涙じゃないんだ」

「お前のじゃない?」

 奏斗はチョコの甘い香りがするティッシュで涙を拭いながら静かに頷いた。


 ****

 奏斗が眠りに着くと1匹の狐が夢の中に現れた。狐は黙り目で訴える。

「ついて来いってこと?」

 奏斗は走り出す狐の後を追った。いつしか足元に道ができ舗装されていない山道を走っていた。身体に当たる枝を避けながら先を行く狐を追う。すると道が開け1軒のさびれた小屋の前に出た。狐は小屋の中へと入っていく。

 奏斗もその後へと続いた。


 小屋に入ると狐の姿は消えていた。奏斗は小屋の中をまじまじと見渡す。そこには今は使う人もいない古い道具が立てかけられ、土間や囲炉裏から生活の香りがした。そして不思議なことに奏斗は初めて来たはずのその小屋になんとも言えない馴染み深い愛着を感じた。ささくれだった畳の感触に鼻をつんと刺激する薬の匂い。どれも懐かしく熱いものが込み上げる。

(全部見覚えがある。ここはどこだろう?)


 その時、キキキと扉が軋み、うすぐらい家の中に橙色の夕陽が差し込んだ。

「お待たせいたしました」

 聞き覚えのある澄んだ声と共に現れたのは髪を結いあげて、菖蒲色の着物の上に真っ白な打掛を羽織ったアヤメだった。奏斗はその美しさに見惚れて声を出すことを忘れた。

「そんなに見られたら穴があいてしまうわ」

 綿帽子の下でアヤメは頬をほんのりと染めて恥ずかしそうに言った。奏斗も真っ赤になりながら口を開く。


「すごくきれいだ」


 それは奏斗の声ではなかった。同じ言葉を発しようとした彼よりも先に背後から声が聞こえた。奏斗は自分の他にもう一人、人間がいたことに気付いていなかった。つぎはぎだらけの着物を着た男が奏斗をすり抜けてアヤメに近づく。すると彼女の視線も彼を追う。その時、自分の姿が彼らに見えていないことに気付いた。自分を見つめていたと思っていたアヤメの視線はその男のものだった。

「なんだか恥ずかしいわ」

「よく似合っているよ。私も君にふさわしいようにちゃんと用意するべきだったかな」

 自分のすり切れた袖を見て笑う男をアヤメは甘くにらむ。

「そんなことを言って。あなたは自分の着物を買うくらいなら生き物たちの薬を買うでしょう」

「さすが君だ。私のことをよくわかっているね。家を捨てた私は何も持っていない貧乏人だ。その上に人里を離れ山奥にこもって生き物たちと会話をする変人。祝言を上げると言っても誰も祝福してくれる者はいない。本当にこんな私でもいいのかい?」

 アヤメの熱のこもった目が金色に光る。その目を見れば返事をする前から答えは分かりきっていた。

「そんなあなただから一緒になりたいのよ」

 男はアヤメの頬を優しく撫でた。すると彼女の頬は瞬く間に赤く色づく。

「ふたりだけの祝言で良かったことが一つあるよ」

「それは何?」

「美しい君を独り占めできる」

 アヤメは少し驚いた表情をしてみせたがすぐに「ばかね」とくすりと笑う。

「私は存外嫉妬深いんだよ。私でいいのかと聞いておきながら本当は君を手離すつもりはない。それに美しい君を誰の目にも見せたくない。私だけのものにしたいんだ」

 笑みを含んだ柔らかな声だったがその言葉に偽りはない。少しの沈黙の後、アヤメは男の手に白く細い指を重ねた。

「嫉妬なんて無意味よ。過去も未来も私はあなただけのもの」

「誓うかい?」

「誓うわ」

 男を見つめるアヤメは奏斗が見たことがないほど幸せそうな顔をしていた。大きくわめき騒げば奏斗の声も届き、ふたりの祝言を阻止できたかもしれない。しかし奏斗は何もできなかった。男の顔がアヤメに近づく。

「あや」

 唇が重なり合う寸前に男は彼女の名前を呼んだ。男の横顔は奏斗と瓜二つ、そして小さな傷跡が見えた。

(あの男だ……)

 それは雪山で橡がアヤメに触れ創り出した男だった。アヤメの心が一番に求めている者。それが目の前にいるこの男だった。思考がつながった瞬間、奏斗の心に激しい嫉妬心が蠢き、暴れ出した。奏斗は激しい痛みに胸を抑えてその場にうずくまった。胸が大きく脈を打ち、激しい苛立ちと不快感が押し寄せる。


『アヤメサンハダレニモワタサナイ』


 醜くひしゃげた声が響く。それは紛れもなく自分自身から発せられているものだった。

(駄目だ! 収まれ! こんな醜い心、アヤメさんにバレたらきっと軽蔑される! 嫌われる!)

 抑え込もうとすればするほどに声は大きく、力を強くして黒いもやは形を成していった。

『アノオトコガウラヤマシイ。アヤメサンガミテイルノハボクジャナイ。アノオトコダ。ニクイ、ニクイ、キエロ、キエロ』

 奏斗の胸でざわついていた黒いもやは黒い狐の姿になり、彼の胸から飛び出して行く。黒い狐は男に向かって醜い唸り声をあげた。今にも襲い掛かりそうな狐に奏斗は焦り、手を伸ばす。

「やめるんだ! その人はアヤメさんの大切な人なんだ!」

 しかし、もやでできた黒い狐は霞を掴むように指の間をすり抜ける。顔の造形も見えないほど漆黒の狐が真っ赤な口で奏斗をあざ笑った。

『ソンナコトオモッテナイダロ。キエレバイイトオモッテイル。カノジョノココロカラ、ボクイガイノオトコハキエレバイイ』

「そんなこと—―」

 思っていないとは言い切れなかった。心の奥底ではアヤメの心に残るその男を消してしまいたいと思っていた。

『ノゾミドオリ、ケシテヤルヨ』

 黒い狐がニィと笑い、男にすぅっと入り込む。すると男は胸を抑えて苦しみだし、血を吐いて倒れた。アヤメの白い打掛が血の色に染まる。

「いやぁぁぁ!」

 ふたりの幸せな空気は断末魔によって引き裂かれた。小屋は崩れ去り奏斗たちは暗闇に放り出された。黒い狐は倒れた男から抜け出すと今度は絶望しているアヤメに近づいていく。

『ジャマナヤツハモウイナイヨ。ネェ、ボクヲアイシテ。ボクダケヲアイシテヨ』

「やめろ! アヤメさんに近づくな!」

 奏斗は必死に黒い狐を止めようとするが重い沼地に足が取られるように前に進まない。アヤメは男を見つめたまま黒い狐に見向きもしなかった。

『ドウシテボクヲミテクレナイノ?』

「ちがう! 彼はーー!」

 奏斗は気づいていた。自分が見ていたもの、それは前世の記憶。男は奏斗の前世の姿だということを。それでも奏斗は認められなかった。すると黒い狐が奏斗の心を代弁するかのように低い声で唸る。

『ボクダケヲアイサナイアヤメサンガニクイ』

 黒い狐はアヤメの中へ吸い込まれていく。するとアヤメの着物は黒く染まりまるで喪服のように変化した。視線を上げたその瞳に光はない。黒い狐に乗り移られたアヤメは冷たく奏斗を見た。


「あなたは彼の代わりなのよ」

 目が合った彼女が口にしたのは奏斗が恐れていた言葉だった。それは奏斗の胸に突き刺さり、じわりと黒いもやを生み出す。奏斗はそれが漏れでないようにぎゅっと胸を抑え込んだ。

「そんなことしても無駄よ。汚い心は隠せない」

 奏斗を見つめる彼女の瞳は暗く闇が深くなっていく。それは奏斗の知っているアヤメの瞳とは程遠い。

「アヤメさんはそんな目をしない……君は何者なんだ?」

「ずっと一緒にいたのにまだわからないの? 私はあなた自身よ。あなたが抱く恐れ、嫉妬、憎悪。あなたが心の奥底にひた隠しにして来た黒い部分。この黒い気持ちはこれまで幾度もあなたの命を焼き焦がしてきた。私がいる限りあなたも長くは生きられない。その男のようにね」

 黒いアヤメは倒れている男を指差す。男は黒い炎に包まれ苦しみもがいていた。

(この心をどうにかしなくては僕もいずれ彼のようになってしまう)

 その思いは黒い心にも伝わっていた。

「残念だけど私は消えないのよ」

 黒い心はアヤメの姿のまま寂しげに笑う。奏斗はその表情にはっとした。



「いらないのならわたくしにちょうだいな」

 少女のような笑い声とともに軽く高い声が響く。どこからともなく現れたのは青鈍だった。

「青鈍さん!? どうして?」

 車椅子に乗っていない青鈍はかろやかに降り立った。慌てて視線を合わせないように顔を背ける奏斗に青鈍は薄ら笑いを浮かべた。

「わたくしはお前の魂の悲鳴に呼ばれたのだ。喜ぶがいいぞ。わたくしがお前の不要な心をもらい受けてやる」

「不要な心……」

 それはとても冷たい響きに感じた。その心がある限り、奏斗の命は危険にさらされる。しかし、アヤメの姿を借りた寂しい瞳は奏斗を求めている気がした。

「何を迷うておる? 寿命を燃やすなど、そんな心は厄介でしかないではないか。厄介者は嫌われ者。不要な者は追い出してしまえばいい」

 青鈍の言葉に心がズキンと反応する。自分の心だからわかる。その痛みは黒い心の傷つく痛みだった。


「姫も汚いお前の心を見れば幻滅して離れていくだろう」

「アヤメさんが幻滅して離れていく?」

 奏斗はアヤメを見た。奏斗の知る彼女の瞳は光輝き、誰よりも強く、そして温かい。奏斗にとってアヤメはすべてを受け入れるまなざしを持った女性だった。奏斗はその優しい眼差しが軽蔑に変わるのが怖かった。しかし、奏斗はその恐怖と向き合った。目を閉じざわざわとする胸に手を置く。

(恐れないで。大丈夫だから……)

 自分に言い聞かせそして目を大きく開く。そして青鈍をまっすぐに見つめた。奏斗の視線が青鈍とぶつかる。そして青鈍がニタリと笑った。

「これでわたくしのものだ」

 目が合うと身体の自由が奪われ、もう自らの意思で視線をはずすことはできなかった。彼女の瞳は底もなくどこまでも続く闇。その中に蠢く黒い狐たち。触手のような長い手が青鈍の瞳から這い出ると黒いアヤメへと飛びついた。奏斗は歯を食いしばる。

(絶対に渡さない!!!)

 そう思った一瞬の出来事だった。瞬間移動のごとく奏斗はアヤメの姿をした黒い心を抱きしめていた。黒い心は驚き目を見開く。その黒い瞳に写っていたのは傷のある顔だった。


 さっきまで自分がいたはずの場所には誰もいない。黒い炎に包まれたつぎはぎだらけの袖から伸びるごつごつとした手がアヤメを力強く抱きしめている。奏斗は倒れていた男の身体を借りてアヤメを抱きしめていた。しかしその感覚は慣れ親しんだ懐かしいものだった。

(やっぱり僕は彼なんだ)

 それはパズルのピースがぴったりとはまるように彼の心にストンと入り込んだ。



 青鈍から出ていた触手は抱き合うふたりに近付けずに怯えて揺れる。青鈍は状況が理解できずにゆっくりと首を傾げた。

「何故それを守る? それを渡さなければ其方が死ぬぞ」

 奏斗は抱きしめる力を強めると青鈍に厳しい視線を向けた。

「たとえ命を失ってもアヤメさんへの想いは誰にも渡さない」

 それは奏斗の想いであり、傷の男の想いでもあった。奏斗の腕の中で黒い心は震えていた。

「……ウケイレテ……クレルノ?」

「消そうとしてごめん。でも君が大事だって気付いたんだ。君はアヤメさんを愛することで生まれた気持ちだ。命は消えても魂はなくならない。君はずっと僕の魂に受け継がれてきた存在だ。君を否定するということは僕の魂を否定することになる。だから僕は君を大切にしたい」

 黒い心はその言葉を噛みしめながら奏斗の胸に顔をうずめる。

「ウレシイ」

 奏斗を包む黒い炎は消え、彼女の身体も霞に消える。奏斗が抱いていたのは黒い子狐だった。奏斗は子狐を優しく抱きしめた。

 青鈍の瞳から出ている触手が鞭のようにたわみ、ビュンビュンと空気を震わせながら瞳へと戻っていく。目は充血し口は裂け人からはかけ離れた形相で怒り狂っていた。


「面白くない! 面白くない!」

 青鈍は目頭が切れそうなほどに目を見開いてギリギリと唇を噛んだ。鋭い犬歯が食い込む唇からは血がにじむ。

「よこせお前の心を!」

 次に瞳から這い出して来たのは身体の大きな黒い狐たちだった。青鈍は実力行使で奏斗の心を奪うつもりだった。

「これはまずいかもしれない」

 奏斗が後ずさりすると彼に抱かれていた子狐が「ウ―ッ」と唸り声を上げる。多勢に無勢、そしてかわいらしくなってしまった奏斗の黒い心では剛健な青鈍の狐たちに勝てるとは思えなかった。

 しかし青鈍の黒い狐たちは黒い子狐の瞳に灯った小さな光を見つけると、激しく怯え奏斗に襲いかかるのをやめた。

「この弱虫共が! かような小さな光を恐れる役立たずはいらぬぞ!」

 青鈍が激昂すると狐たちは耳を垂れ、再び奏斗たちに唸り声を上げる。その目は妬みと憎しみが入り混じっていた。



「そこまでじゃ」

 重い空気に軽い老翁の声が響く。暗闇の中、優しい光とともに月が現れた。月だと思われた光は小柄な狐の姿となり、ちょこんと青鈍の前に舞い降りた。その姿はまるで小型犬だった。

「青鈍や、無理強いはするでないよ。ここは彼の世界じゃ。黒い心に光が戻ったならば、もう勝負はついておる。お主は彼に負けたのじゃ」

 白い狐はその見た目に似合わない年寄り染みた話し方をした。青鈍はチッと舌打ちをするといつもの幼女の姿に戻った。

「相変わらず説教くさいのぅ。だがなわたくしの負けではない。わたくしは暇つぶしに戯れただけじゃ」

「理性がすぐ吹っ飛ぶお主の戯れは度が過ぎるでの」

 小さな狐は8本の尾をもふもふと揺らす。

「月白さんですか?」

「おお、こなたが噂の人間かの。想像していたよりあどけない顔をしておる」

「いつの間に起きていたんですね」

「わしは起きてはおらん。だが寝ておるわけでもない。肉体が寝ている間は次元の行き来をしておるのじゃ。そやつに呼ばれてな、ちいと寄ったまでよ」

 月白はそう言うと奏斗に抱かれている子狐を顎で指した。子狐は褒めて欲しそうに奏斗の胸にすりすりと甘える。

「助けを呼んでくれたんだね。ありがとう」

 奏斗はすっかり可愛らしくなってしまった自分の黒い心を優しく撫でた。

「サァ、お前さんは早く現へ戻った方がいい。さすれば青鈍もここへはとどまれん」

 青鈍はふっと微笑む。

「ジイに言われなくとも、こんな居心地の悪い場所に用はない。興も冷めたしの。まぁ、よいわ。おもちゃはたくさんあるからの」

 そう怪しく笑うと青鈍は消えていった。

「相変わらず危うい奴じゃ」

 月白はふぅっとため息をついた。

「月白さん、愛美さんが危ないんじゃないですか? 昼間も狙われて……」

「愛美なら大丈夫じゃ。ワシの肉体がそばにおる。なんなら青鈍が来てからあいつはずっと狙われておった。あやつは辛いことはすぐ手放そうとするでの。あんなチョロい奴もおらんわい」

「じゃあやっぱり散歩していた時も狙われていたんですね」

「お前さんが陰の前で愛美の手を引かなかったら危なかったな。恐らくあれは姫のいないところでお前さんの力量を試したんじゃろう。そして手下で上手くいかないので本体が来たということじゃ。お前さんのように黒いモノを受け入れることができる者は稀じゃ」

 月白はそこまで言うと渋い顔をした。

「だがな、一つ懸念がある。お前のそれは命を燃やすほどに強いぞ」

 奏斗は自分の胸元にいる黒い狐を見た。大人しく抱かれてはいるが黒い狐はじりじりと奏斗の胸を焦がしていた。

「これは僕のだけじゃない。僕になる以前の彼らの気持ちでもある。彼らがいるから今の僕があるんです。黒い心に命を燃やした彼らもアヤメさんへの気持ちは大事にしたいはずです」

「……そうか。ならば大切にすれば良い。その強い気持ちはいずれ姫を守るだろう」

「はい」

 奏斗は黒い狐を自分の胸へ戻すように抱きしめた。その熱は熱すぎるほどにじりじりと命を燃やす。

(ああ、僕はいつも僕自身に嫉妬をして命を燃やして来たんだ。そしてその度に彼女に寂しい思いをさせてきた。次こそは彼女を幸せにしようと生まれ落ちたことを忘れて)


 しかし、思い出そうにも奏斗に前世の記憶はない。それでも奏斗には愛する女性(ひと)を一人残して旅立たなければならない無念が痛いほどわかった。

 彼女と別れる際、彼らは彼女の幸せを強く願った。そしてそれと同時にそれを叶えられない自分への絶望と彼女を幸せにする男への嫉妬心が黒い心を大きくしてしまった。

 気付けば心に刻まれた彼らの想いが涙となってあふれ出し、奏斗はむせび泣いていた。


「奏斗! 奏斗!」

「トロトロ?」

 奏斗は声の方を見上げた。そこには奏斗を導く光が差していた。

「友がお前を呼んでいる。異次元は無限の世界じゃ。元いた場所に戻ることは容易いことではない。だが元いた世界からお前を求める声があればお前は必ず元の世界へ戻ることができるじゃろう」

 奏斗は聴き慣れたトロトロの声に耳を澄ます。すると感覚は次第に研ぎ澄まされていった。そして奏斗は目を開いた。



「お前たちは良い友を持ったな」

 ひとり残された月白はそう呟くと砂が散るように弾けて消えていった。

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