8 漆黒の姉妹
その夜は薄曇りの静かな夜だった。マンションの事務所がある部屋だけが灯台のように光を放つ。その2つ離れた先の部屋に白い肌がぼんやりと浮かび上がっていた。遠目に見ても分かるほどの大きな瞳に長いまつ毛がかかり、その瞳は月の優しげな光すら受け付けない。まるで彼女自身が闇の化身のようだった。
「こんなにも近づいていいのか? 青鈍の目は心を奪い取るのだろう?」
マンションを見下ろす山肌が不自然にざわざわと揺れた。葉に見えるものはすべて八咫烏だった。
「気の小さいことを言う。大きいのは身体だけですか?」
群れの中心にいる橡が鼻で笑うとどの八咫烏とも分からないカラスが声を立てた。
「失礼な奴だ。海にはお前さんのように無礼な奴はいないぞ」
「ここは陸ですからね。あなたが海でどれだけ畏怖されていようが私の知るところではありませんよ。海では大鯨のあなたも今は小さな偽八咫烏。私が術を解けばただの土の塊ですからね」
「だからこそ私はお前さんの心が奪われて目的が達成できないことを危惧しているのだ。青鈍に黒い心を取られた者は廃人になってしまうと言ったのはお前さんだろう」
橡は皮肉な笑みを浮かべた。
「何も心配はいりませんよ。植物を通して全てを見通すあの目も私だけは映しません。もちろん私の力で作られた器に入っているあなたも同じこと。だからああやってこの土地中に陰を張り巡らして私たちを探しているんです」
時折雲が晴れると雲の中から月が顔をだす。すると黒い狐の形をした陰たちが木の影に慌てて身を隠した。陰は光を避けるように影の中を素早く移動していた。
「陰は所詮、あの女に飼い馴らされた弱い魂の集まりです。それ故、陰に大きな力はありせん。あなたほどの力をお持ちならあの目さえ見なければ心を取られることもないでしょう」
「そうか、だが目を見てしまえば必ず取られてしまうのか?」
「ええ、ほぼ取られるでしょうね」
「ほぼ?」
「あの女が狙うのは他人には見せたくない黒い心です。あの女は目から相手の心に侵入し、孤独な黒い心に甘く囁いて連れ去るんですよ。連れ去られたくなければ持ち主が黒い心を飼い慣らし繋ぎ止めるしかない。しかしそれは口で言うほど簡単なことではありません」
橡は淡々と語ったがそれを一番に恐れているのは橡である気がした。
「お前さんがアレを求めている理由はそれか?」
橡はその問いには答えず、恨めしい威嚇の目を向けた。
「……当たりというわけか。血を分けた姉妹だというのにお前さんは青鈍を心から憎み、彼女は狂気のごとくお前さんを求める。お前さんたち姉妹に何があった?」
「それを知ってどうするというのです? あなたはただ天狗を追えばいい。私のことはあなたに関係のないことですよ」
突き放すような殺気をにじませて橡はクジラを睨んだ。しかしクジラはまるで動じない。
「寂しいことを言う。こうして四六時中一緒にいるんだ。お前さんのことを知りたいと思うのは自然な感情だろう。私はお前さんとも友になりたいのだ。天狗と友になったようにな」
橡は睨むのをやめて鼻で笑った。
「友? 馬鹿馬鹿しい。そんなものは不要です。ただ一つ確かなことは私が今、あなたと取引をしたことを後悔しているということです。私はあの女の話をするだけで気分が悪くなる」
「取引をしなければアレはお前の手には渡らんよ。お前さんが私の腹を裂こうと数千を生きた巨大な身体から小さなアレを見つけ出すのは不可能だからな」
橡がチッと小さく舌打ちをするとクジラはおかしそうに声を立てて笑った。
クジラは今までほとんどの時間を海底でひとり過ごしてきた。人間に見つからないようひっそりと生きる。それが生きていくための術だった。海の生き物たちもクジラを畏怖し近づかない。他者との関わりが極端に少なかったクジラにとって橡の激しい感情の移り変わりは眩しく感じた。
「何がおかしいんですか?」
「他者との関わりは楽しいものだな。お前さんが私を疎ましく思う気持ちも私と出会わなければ生まれなかった。そして私は疎まれてもお前さんに関わりたいと願っている。お前さんといるだけで自分でも想像していなかった感情が泉のように湧き起こるのだ。こんなに面白いことはない」
「理解できませんね」
「私は暗い海底で生きているのか死んでいるのか分からず長い時を過ごした。だが今はお前さんといるだけで生きていると実感する。だから人間は短い命の中で傷つきながらも懸命に他者と関わり合おうとするのだろう」
橡はクジラを拒絶するように冷たい目をしていた。
「人間と関わったことのないあなたに何がわかるんですかね」
その時、八咫烏の影が揺れてボトボトリと鈍い音が足元に響く。葉が枯れ落ちていくように数羽の八咫烏がただの土の塊となって落ちていった。
「私には時間がない。だからわかるのだ……今と言う『時』の大切さが。お前さんも人間であった時はそうだったのではないか?」
橡の眉間がぴくりと動く。人間とは程遠い細長い瞳孔がクジラに無言の圧力をかけた。しかしクジラは話すのをやめなかった。
「そう怒るな。探ったのではない。アレがお前さんのことを教えてくれたのだ」
「アレはただの物ですよ。それが私を語ると?」
「あぁ。ただの物に命を吹き込むお前さんならわかるだろう。海に落ちて来たものに想いが宿っていることは珍しくはない。私はたくさんの想いを見てきたがアレほど強く想いを語るものはなかった。アレは持ち主の……8尾の妖狐漆黒の心そのものだ」
「……そうですか」
橡はゆっくりと目を閉じ、再び目を開いた。すると獣の目をしていた瞳は人間のものになっていた。
「いいでしょう。ではあなたの望む通り小話をしましょう」
「そうこないとな」
「ただ話の前に一つ、あなたは大きな勘違いをしています。アレの持ち主は漆黒ではありません。アレは私のもの。私の墓にいれるために作られたものです」
「お前さんの墓に?」
クジラは驚き声を上げた。橡は静かに頷く。
「アレを創ったのは父です。父は造形に長けた人で神殿に土偶や彫刻を収めていました。アレは死期の迫った病床で私が父に頼んで創ってもらったものです。冥界でも寂しくないようにと」
八咫烏がまた1羽ボトリと落ちて土に還る。
「生き物はいずれ死を迎え土に戻ります。今よりももっと死が身近だった時代でしたから私は死が怖くはありませんでした。死ねばみな行く先は同じ、それが早いか遅いだけのこと……そう信じていたのです。人間として生まれた私には何も知らずに幸せなまま死ぬ権利がありました。しかしそれをあの女が奪ったのです」
橡は冷たい目でマンションの方を見遣る。
「青鈍か」
「あの女は病で死ぬはずだった私に自らの尾を植えつけ、私を妖狐にしました。あの女が余計なことをしなければ私は何の疑いも抱かずに人間として幸せに死んでいたんです」
「だが青鈍はお前さんのために視力を失っている。ただお前さんを助けたかっただけじゃないのか?」
「妖狐として生まれたあの女は隔離され母と世話係の妖狐以外はその存在すら知りませんでした。世界を知らないあの女にとって視力など必要ないもの。誰にも相手にされず死ぬこともできないあの女は、人間というだけで幸せに死ぬ私が許せなかったんですよ」
橡の瞳に憎しみが渦を巻きだす。
「妖狐になってからお前さんはどうしたんだ? 人間とは共に暮らせないだろう?」
「私は父から引き離されて初めて自分が人間ではなくなったこと、そして母が妖狐漆黒であると知りました。漆黒が見せた母性は偽りのもの。漆黒は妖狐と人間が子を成したらどうなるのか実験のために私とあの女を生んだだけでした。だから私が病で苦しんでいても見殺しにするつもりだったのです。しかし私は不死の妖狐になってしまった。それからあの女と私の立場は逆転したのです。漆黒は青鈍だけを可愛がり、妖狐になった私をまるで見えていないように無視しました。そして最期に漆黒はあの女に自分の目を与え、視力を得たあの女は嬉しそうにこう言ったのです」
『よかったのう、橡。お母様はそなたを無視していたわけではない。そなたが見えてすらいなかったのじゃ』
橡は胸に手を当てた。そこには黒い瘴気がもやもやと滲みだしていた。
「あの女の狙いは初めからこの黒い心です。あの女が何より欲しいのは私の不幸です」
クジラは探るように橡に問いかける。
「お前さんは何故母の目がお前さんだけを映し出さないのかを知るつもりなのか」
「漆黒が私を見たくもないほどに毛嫌いしていたことは間違いないでしょう。しかし本人がいなければそれは永遠に憶測の域を出ない。厄介なことに憶測である限り私の黒いモノは真実を求めて大きく成長していくのです。アレは漆黒が最期にわざわざ海へ投げ落とさせたもの。アレを手にすれば憶測は確信に変わり、この黒いモノを飼い慣らすことができる。アレだけが私を開放してくれるんですよ」
重い沈黙の後、クジラが口を開いた。
「橡よ、これは危険な賭けだ。真実が分かれば黒いモノを飼いならすことが出来る保証はない。返って苦しみが増すこともあるだろう。それでもアレを求めるのか?」
「分かったようなことを。私にはもうアレしかないんですよ」
橡は顔を背けた。その横顔は青鈍とよく似ていた。
「大きな不幸を背負う者は大きな幸せを知っている者だ。私はお前さんが心配だよ」
クジラの言葉に橡の眉がぴくりと反応し、ふっと笑みをこぼす。それは懐かしさを噛みしめるような寂し気な笑みだった。
「橡?」
「何でもありませんよ。同じようなことを昔、誰かにいわれた気がしましてね」
橡はそう言うとすぐにいつもの隙のない冷たい目で遠い空を見上げた。強い風が木々を揺らすと橡は柔らかな髪をかき上げた。
「あなたに私の心配などする暇はありませんよ。もう風は吹き始めています。私たちはそれを見るためにここまできたのですからね」
暗闇の中、バサバサという乾いた羽音がマンションへ近づいていた。
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「やっぱりあなただったのね」
背後から声をかけられた雪は声の方に視線を流した。その手元には芥山の祠に置かれていた人形があった。
「花菖蒲様、気配を消しておいでになるとは人が悪い」
「よく言うわ。私がくると分かっていてわざとらしく人形を持ち出して待っていたのでしょ?」
「お気づきでしたか」
雪はアヤメの方に振り返る。
「それは何?」
「これはおふたりを救うものです。彼のお陰でやっと手に入れることができました。私だけではあの場に近づくこともできませんでしたから」
「奏斗の? 利用したのね」
アヤメは怒りを滲ませながら言う。しかし雪は気にしてなどいなかった。
「彼はすごいですね。生き物の心をいとも簡単に開いてしまう。誇り高いあなた様の心もすでに彼のもの。人の心を奪うという点では青鈍様に似ているのかもしれない」
「一緒にしないでほしいわね。弱い心につけ込む青鈍と心を通わせようとする奏斗では全く違うわよ」
「一緒ですよ。ただ青鈍様には誰かと心を通わせる方法がこの方法しかなかっただけ」
雪はその目に涙を滲ませた。
「あんたがあの姉妹にどんな感情を抱いていようが興味はないわ。でも奏斗を危険に巻き込むなら容赦はしない」
「私は手を引いても構いませんが、あなたの想い人はもう自ら足を突っ込んでいます。それにクジラには時間がない。姫も彼の哀しい顔は見たくはないでしょう?」
雪の含み笑いにアヤメはチッと舌打ちをした。
「何が望み?」
「大したことではありません。姫にはクジラの身体のところへと行っていただきたいのです」
「クジラの?」
「ええ、クジラへは『預かり物を取りに来た』と言って頂ければわかります」
「預かり物なら自分でとりに行けばいいじゃない」
「いいえ、橡様が私を監視しているので私はいけません」
「信用されていないのね」
アヤメは鼻で笑ったが雪は感情のない冷たい顔を向ける。
「事態が動いた今、これは急を要することです。姫ならば夜明けまでに戻ることも可能でしょう。それに姫は断らないはずです。この預かりものはクジラを救済したい人間たちの願いを叶えるものでもあります」
アヤメの頭には奏斗や愛美の姿が浮かびため息をつく。
「日の出までは責任を持って人間たちをお守りしましょう」
雪がアヤメの心を読むように提案をした。
「日の出までね」
アヤメは訝しく雪を見たが「わかったわ」と言って妖狐の姿になると窓の外へと駆け出した。
「妖狐の頭領の娘ともあろうお方がまるで人間の番犬ですね」
雪はアヤメが飛び去っていくと呆れたように言った。そして手元にある人形を絹の布で丁寧に包み込む。すると人形の頭の部分が3つ、柔らかな山を作った。
「これでいい、アレさえ手に入ればすべてが揃う」
雪はざわざわと黒い感情が蠢く胸を手で抑えると小さくつぶやいた。