6 ギンのそよ風
「大丈夫ですか? 菅原さん」
奏斗の声掛けにゆっくりと菅原は頷いた。しかし、まだ具合が悪いのか苦しそうな顔をしながら頭を押さえている。
「一体何だったんだ」
そう言うと目の前にいるアヤメの姿に気づき、地面にすわったまま後ろへと身を引いた。しかし、アヤメにはカマイタチに切られたはずの傷どころか、服も破れていない。
「お前、傷は?」
「傷? 悪い夢でも見ていたんじゃないですか。菅原さん」
怪しく笑うアヤメの目にただならぬものを感じていた。
「菅原さん、カマイタチを起こしていたのはイタチではありません。カマイタチを止める方法がわかったんです」
奏斗が菅原の肩を支えながら言うと彼は驚いて奏斗のことを見た。
「なんだと? どうすればいいんだ?」
奏斗は頂上にある大松を指さす。
「あの木を切るんです」
「それはできない!! あれは大事な木なんだ」
菅原は大きく首を振ったが、奏斗は覚悟を決めたかのような真剣なまなざしを向ける。
「わかっています。でもあの木を切ることを教えてくれたのはあの銀色のイタチ……ギンなのです」
「ギンだと……?」
眉間に皺を寄せ奏斗を訝しく見たが、気を失う前に見た奏斗とはどこか違って見えた。さっきまでの頼りない青年とはまるで別人だったのだ。
「ギンは僕にすべてを教えてくれました。ギンの父親は生まれてすぐにハンターに撃たれ、母親とは森林伐採で離別しました。そして幼いギンは孤独と空腹で生死をさまよっているときにあなたに拾われた。
あなたと一緒にいた数か月間はギンにとって特別なものだったのです」
「バカバカしい。そんなことは俺がイタチを拾ったことがあると知っていれば何とでも言えるだろう」
菅原はまだ信じていないのか、奏斗の話に水を差した。するとアヤメが睨みつける。
「まだ話は終わってないじゃない! 続けて、奏斗」
アヤメに言われると奏斗はまた話し出す。イタチがみせてくれた過去の記憶を奏斗は慎重に言葉に置き換えた。
「ギンはあなたがあの木の下で約束したことをちゃんと覚えています。あなたはギンを山に返す日、別れ際に泣きながらこう言ったそうですね。
『ここは僕のうちが先祖代々守ってきた山だから、なくなることはないよ。僕が必ず守るからね』
でもあなたはその約束を破って山を崩し始めました。だから菅原さんはギンが怒っていると思ったんですよね? でもギンは怒っていません。山を崩すと決めたあなたの決断が辛いものだったとギンも分かっています。だからギンはあの木を切ってあなたに楽になってもらいたいのです」
菅原はイタチと自分しか知りえない事実に言葉を失った。
「まさか……」
「まだ信じてないの? あなたたちが山を削ったせいで、カマイタチはできたのよ。イタチは人間が怪我をしないようにずっと守っていたの。けが人が出ていたらそれこそ工事は再開されないでしょうね。山を崩されれば住むところがないイタチがなんでそんなことをすると思うの? 全部あなたのためでしょ?」
アヤメに畳みかけられると菅原は力を失い地面に手を着いた。
「ギン……。俺はあいつを殺して、せめてもの慰めにあの大松の下に埋めてやろうと思っていたんだ」
奏斗は切なさで言葉がつまったが、言葉を探し話し続けた。
「ギンはそれでもあなたを恨まなかったと思います。彼は人間に両親を奪われ山を追われて、信頼していた あなたに命を狙われても、人間を守る道を選びました。ギンは僕に教えてくれたんです。幼い時、心を救ってくれたあなたはどんなことがあっても恩人であり、大切な人なんだと」
菅原は地面にひれ伏すように自分のしようとしていたことを悔いて嘆いた。ドンドンと地面を叩くと涙が落ちて土の色がそこだけ濃くにじむ。
「風を操るイタチのことだから、今まで何度もあなたに知らせようとしていたはずよ。昔のあなたならきっと分かったでしょうね」
アヤメが淡々と言う。山から吹く風がおさまり、菅原は大松を見上げた。すると優しいそよ風が土埃で汚れた菅原の髪を撫でていったのだった。
アヤメの瘴気にやられて足元がおぼつかない菅原をふもとにある家まで送り届けると、ふたりはまた車まで戻ってきた。菅原を車で送ろうとしたアヤメだったが、彼が黒塗りの高級車に気後れして頑なに乗るのを拒んだのだ。
「なんで僕はアヤメさんの瘴気をあびても元気なんだろう」
奏斗はひとり言のように呟いた。同じ瘴気を吸い込んでいたはずなのに、奏斗の方はむしろ調子がいい。
「私の瘴気はね、出て行くときに身体の中の悪いものも一緒に排出するのよ。便利さにかまけて埃のかぶった第六感の掃除をするようなものね。
奏斗の場合はアナログ人間で勘に頼って生きているようなところがあるし、純粋だからきれいさっぱり掃除できたんだけど、あの男は埃が多すぎて掃除しきれなかったのね。もう一回瘴気を吸えばデトックスできるかも! やってみる?」
アヤメは冗談めいて言ったが奏斗は目を合わせようともしなかった。
「なによ、昔の奏斗ならこういう時『もう、やめてよ、アヤメさん』って情けない声出してたくせに」
それでも奏斗はぷいと目をそらしたままだった。
「何か怒ってんの?」
不機嫌に言うアヤメの胸元には新品のようなシャツがパリッと襟を立てている。しかし、間違いなくアヤメはここで怪我をして血をながしていたのだ。
「僕はアヤメさんが傷つくのは見たくない」
アヤメは大きなつり目を見開いて、そっぽを向いている奏斗を見た。
「なんだ、そんなこと気にしていたの? カマイタチって切られても痛くないしイタチの薬を塗ればすぐ治るのよ。それに私を誰だと思っているの」
アヤメは得意げに笑った。すると奏斗はアヤメの腕を引いて抱きしめる。
「アヤメさんはアヤメさんでしょ! 僕は男としてアヤメさんを守れなかったのが悔しいんだ。僕だってもう小学5年生じゃないんだよ!」
さっきまで余裕を見せていたアヤメの顔は真っ赤に染まっていた。ひょろひょろで細い奏斗の腕にどこにそんな力があるのか、アヤメの身体はすっぽりと奏斗の腕に収まって身動きができない。
「やっぱ人肌はいいぜ~。あ、片方、人じゃねぇや」
奏斗の胸ポケットから声がした。ニヤリとしながら顔を出すトロトロに気付いた奏斗はあわててアヤメから身を離す。
「ご、ごめん! アヤメさん!」
「べ、べつに。あやまらなくていいってば」
パリン
奏斗は落ちていた何かを踏みつけた。それは奏斗の眼鏡だった。どうやら瘴気にやられて倒れた時に落としたらしい。
「え? あれ? 僕目が見えてる! 眼鏡をかけないと全然見えなかったのに!」
「あ! 話しをすり替えようとしてるぞ! こいつ!」
トロトロがからかうと奏斗は「ち、ちがうってば!」と言いながらまた自分のしたことを思い出して赤面していた。
「もう! 早く車に乗らないと置いていくわよ!」
アヤメはもう運転席のドアに手をかけていた。
「ま、まってよ! アヤメさん!」
車の中では放置されていた奏斗の携帯がブーブーと音を立てていたが、夕日色に真っ赤に染まった奏斗の耳にその音は届いていなかった。