7 後悔
その日はカラスたちを刺激しないために各自事務所のあるマンションに留まることになった。奏斗は部屋に帰ってもやることがないので何か手伝うことがないかと健太郎に言ったが、いつ忙しくなるかも分からないからとゆっくりするよう勧められてしまった。
健太郎の机には管轄の地域で発生している問題の解決依頼が山積みになっていた。健太郎は八咫烏の件と並行して複数の問題に取り掛かっていた。健太郎は雪との絶妙なコンビネーションで淡々と仕事をこなしていく。そこに奏斗が入るのは返って邪魔になるような気さえした。
手持ち無沙汰に事務所を出るとマンションの廊下には思い詰めた顔の愛美がいた。
「愛美さん」
声をかけると愛美ははっとして作り笑いを浮かべた。
「あれ? 奏斗っちじゃん。姐さんとトロトロ先輩は?」
「アヤメさんは確認したいことがあるって出かけちゃったんだ。トロトロはまだ外には寒いからって中にいるよ。僕は部屋にいても落ち着かないから出て来たんだ」
「そうなんだ。あたしも師匠は事務所で寝かせておいていいっていわれてさ。いざ一人になったら何していいかわかんないし、零とちゃんと話すチャンスかと思ったんだけどチャイム鳴らしても誰も出なくてさ。正直、部屋にいるのかいないのかもわかんない」
愛美はそう言いながら大きなため息をついた。愛美がいる場所は青鈍の部屋の前だったがその扉は固く閉ざされていた。
「愛美さん、せっかくだから近くの山を散策しない?」
奏斗の提案に愛美は首をかしげた。
「散策?」
「うん、僕、横須賀では事務所の周りに住む子たちの話を聞くのが日課だったから。マンションの近くならカラスを刺激することもないし。それにどんな子たちがこの山には住んでいるのか僕も会ってみたいんだ」
「奏斗っちってば真面目〜」
愛美はあはっと笑って見せたがその笑顔にいつものような元気はなかった。奏斗は優しく微笑みを返す。
「気分転換になるんじゃないかな」
「気分転換ね……ま、しょうがないから付き合ってあげるよ」
愛美はそう言いながら青鈍と零のいる部屋の前を離れた。
空は高く澄み、緑も生き生きとその葉をゆらしていた。しかし自然豊かな山は不可思議なほど生き物の気配がなかった。愛美は木陰や木の葉の間に生き物を探したが痕跡はあっても姿をみることはない。
「橡と健太郎ってさ、この辺りでよっぽど嫌われているんじゃないの?」
愛美は近くにあった枝をペンペンとはじきながら言った。
「そんなはずはないよ。九重会に橡さんはほとんど関与していないし、それに健太郎君は自然保護の活動をしていただけあって難しい問題でも解決できているみたいだよ」
その時近くの木からカサカサと微かな音が聞こえた。
「あ、リスみーっけ。こんにちはー!」
愛美は木の洞をのぞき込む。すると小さく身を隠していたリスが震えながら走り去っていった。
「何をあんなに怯えているんだろ?」
「おかしいね。みんな何かに見つからないように必死に気配を隠しているみたいだ」
木々の陰からは時折絡みつくような視線を感じた。奏斗にはその感覚に心当たりがあった。奏斗が警戒していると何も感じていない愛美のお腹がぐうっと緊張感のない音を立てた。
「あはっ! お腹減っちゃった! あたしがお腹空いてるから食べられると思っちゃったのかな」
愛美が笑ながら言うとひもじそうな視線が2人に絡みついた。奏斗はその視線の先、足元の暗がりを睨んだ。そこでは黒い陰が大きな口を開けて2人を待っていた。
「食われるのは僕たちの方みたいだ。愛美さん、『陰』に入らない方がいい」
「影? 影を踏まない方が難しくない?」
2人がいる山道はほとんど木陰になっている。でも『影』と『陰』はちがう。感覚的なものだが奏斗にははっきりとわかった。
気付けば奏斗たちは陰に囲まれていた。青ざめる奏斗に愛美もことの重大さを理解した。
「あたし感じるタイプじゃないからわかんないけど何かいるんだ?」
奏斗は静かに頷く。
「青鈍さんの使い魔がそこらじゅうにいる」
愛美は何の変哲もない影にゴクリと唾を飲んだ。
「ごめん、気晴らしになると思ったのに」
申し訳なさそうな奏斗に愛美は一瞬驚いた顔をしたがすぐに大声で笑った。
「奏斗っち、どんだけお人好しなの? 奏斗っち何も悪くないじゃん。あたしのこと心配してくれて誘ってくれたんでしょ。それに比べてあいつときたらホント最低。青鈍にもいいように使われちゃってさ。なんであんな奴になっちゃったんだろ」
愛美の笑顔が悲しげに変わっていく。奏斗は神妙な顔をしていた。
「確かに零君は青鈍さんを崇拝しているけど、そこに心がないというか自分がないみたいだった。怒っていても心がないから何も響かないんだ。あれが本当の彼だとは僕には思えないよ」
奏斗の言葉に愛美の顔にかろうじて張り付いていた笑顔は消え失せた。愛美は零のことをあまりよく知らないはずの奏斗の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
「奏斗っちの言う通りだよ。あんなの零じゃない。私の知っている零は—―」
愛美の瞳が目の前の暗がりに惹きつけられる。すると愛美の過去の記憶が鮮明に思い出されていった。
愛美と零は同じマンションの隣同士に住む幼馴染だった。愛美は一人っ子で経済的にも不自由のないごく普通の家庭に育った。一方の零の家庭は複雑だった。宗教を通して結婚した両親に愛情はなく、大事なことはすべて両親が信じる教祖様が決めた。零という名も教祖様がつけたものだった。宗教にお金をつぎ込み家計はひっ迫していた。両親は零に必要最低限のものしか与えず、彼はいつも家でひとりぼっちだった。
「零、今日もひとり? それならうちで一緒に食べない?」
愛美が誘うと零は嬉しそうにはにかみながら頷く。零は不足した栄養を補うように愛美の家でたくさんご飯を食べた。
「零、あたしの分もあげる」
そう言って愛美は零に自分の食事も分け与えた。愛美は零が愛美の家でお腹いっぱいご飯を食べるといいことをしている気がして嬉しかった。
学校でも引っ込み思案の零は一人でいることが多かった。必然的に愛美が零の世話をやく。すると先生も友達も褒めてくれた。零も愛美しか拠り所がないので何かあれば愛美を頼った。
しかし中学生になると状況は変わった。明るい性格の愛美はクラスでも目立つ女子のグループに誘われた。そのグループにいるだけで自分は普通よりも特別な人間になれている気がした。零は不登校気味で、いるのかいないのかわからない存在だった。
零が休むと同じ小学校だった子たちが愛美にプリントを預けにやってくる。するとグループの女子たちが面白おかしく愛美をからかった。
「あんた、あいつとデキてんの?」
「そ、そんなわけないじゃん。ただの幼馴染だよ」
愛美がヘラヘラ笑いながら言うとグループの中心にいた女子が愛美の机を蹴って倒した。
「やめてよね。あいつの親、学校の名簿使って怪しい宗教の布教活動しているらしいじゃん。あんな根暗でキモイ奴と付き合っているなら友達やめるから」
その女子の言っていることが常識とでもいうように周りの女子たちも賛同する。
「だから付き合ってないって! あたしだって迷惑してるし!」
「それならいいんだけど。机、蹴ってごめんね」
中心の女子がにっこりと笑う。
「だ、大丈夫だよ」
愛美は倒れた机を直し、すぐに零のプリントをバッグにしまった。
ピンポン
チャイムを鳴らすとまるで待っていたかのようにすぐにドアが開いた。零は愛美を見るなり嬉しそうにはにかんで笑う。
「いつもありがとう」
「いいよ、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように早口で言い、零にプリントを渡した。
「愛美が優しいのは昔から変わらないな」
その言葉がズキリと愛美の心に突き刺さる。
「そんなことない」
俯き落とした視線の先には見慣れない男物の革靴が見えた。薄暗い部屋の奥からはワイドショーの笑い声も聞こえる。愛美は夜中に母が父に話していたことを思い出した。
『お隣の旦那さん、仕事辞めたらしいのよ。その理由がね、例の教祖様がやめろって言ったからだって。それで旦那さんが何もせずにずっと昼間にいるみたいなの。お母さんは布教活動でほとんど家にいないし、零君はお父さんのお世話をしなきゃいけないから学校にも時々しか行っていないみたい』
『お父さんの世話か。零君は生まれる家を間違えたのかもしれないな』
愛美のお父さんが他人事のように言う。こっそりと聞き耳を立てていた愛美は首をひねった。
(布教って何? 家族より大事なの? お父さんの世話? 大人って世話がいるの? 大人なのに?)
たくさんの素朴な疑問が浮かんでは消えた。その疑問に答えてくれる人は誰もいない。
愛美はくたくたに着古した零のTシャツをじっと見つめた。Tシャツはお腹の部分だけ濡れて色が変わっている。視線に気づいた零は恥ずかしそうに頭をかいた。
「ああ、これ? 洗い物をしていたんだ。まだ慣れなくて濡れちゃってさ」
「零が? お父さんがいるならお父さんがやればいいじゃない」
「父さんは何もしちゃいけないんだ。これは俺の修行だから」
「修行? だってあたしたち中学生だよ? 学校に行かなきゃ」
零は「しっ」と人差し指を自分の唇に当てた。ワイドショーの音に混じって誰かが立ち上がる気配がした。換気をしていない部屋からはツンとアルコールの匂いがする。
「ねぇ、今日は久しぶりにうちでごはんを食べたらどうかな? お父さんには外食とかしてもらえばいいじゃん」
それは玄関から向こうの異様な気配から零を救うためにこぼれ出た言葉だった。うまく説明はできないけれど零には逃げる場所が必要な気がした。
「ありがとう。でも夜ご飯の準備も俺の修行だから」
ガチャリとリビングの扉が開く音がする。零は音の方をちらりとみると「じゃあね」と言って慌てた様子でドアを引いた。愛美は閉めようとする零の手を強く掴んだ。
「ねえ、明日は学校に来る?」
愛美はドアの隙間からわざと大きな声で零に聞いた。
「離せよ、愛美」
「やだよ! 約束するまで離さない」
零は驚いた顔をしたが呆れ顔で微笑んだ。
「わかったよ、だから離せ」
「約束だよ」
愛美はへへっと笑い、手を離す。ドアがしまると同時にガチャンと鍵の閉まる音がした。
ドンッ!!
何かが叩きつけられたような大きな音に愛美の心臓が止まりそうになった。ドアを隔てた向こう側からくぐもった怒鳴り声が聞こえた。愛美は何が起きているのかも分からずに立ちすくんでいた。
「うぅ……」
ドアの隙間から消えそうなほどに小さな零のうめき声が聞こえる。愛美ははっとして自分の家へと逃げ込んだ。
家に帰ると隣の家の大きな音が聞こえていたのか愛美の母が心配そうに出迎えた。
「愛美、今の音は何? 何かされたの?」
「お母さん、零が……」
真っ青に血の気の引いた顔で愛美は母の胸に飛び込む。零を助けて欲しいのに言葉が浮かんでこない。震える娘に母は何かを察したのか愛美の背中を優しく撫でた。
「愛美、いいのよ。何も言わなくて。あなたは何も見ていないわ」
「でも零が!」
「小さな頃とはもうちがうのよ。か弱い女の子のあなたに零君は守れないわ。中学生の男の子なら自分で何とかできる。それにこれはよその家庭の事情なの。あなたには関係ない。これからは零君に近づいては駄目よ」
愛美は母の腕の中で自分の耳をふさいだ。
次の日、約束通り零は登校してきた。
「愛美、昨日はごめん」
零が言うと派手な女子たちが顔を見合わせてにやにやと笑う。
「やっぱあんたたちデキてんじゃん」
「やめてよ。そんなわけないじゃん」
愛美の作り笑いがひきつる。明らかに挙動のおかしい愛美に零は怪訝な顔をした。
「何の話?」
すると愛美が話すよりも早く、リーダーの女子が口をはさんだ。
「うちらのグループの女子にはあんたみたいな奴と付き合ってほしくないって話だよ。愛美も幼馴染ってだけであんたと関わらなきゃいけなくて迷惑しているって言ってたよ」
零はまっすぐに愛美をみた。
「愛美、そうなの?」
「そ、それは……」
口の中がカラカラに乾いてうまく話せない。
チッ
愛美に向けられた小さな舌打ちだけがはっきりと聞こえた。
「愛美、何で答えないの? そう言っていたよね?」
目をそらしているのに女子たちが冷ややか視線と見下した微笑みを向けているのがわかる。愛美の額には暑くもないのに汗が流れていた。
「うん……」
愛美は小さな声で返事をした。言ったことにちがいはない。でもそれは本心ではない。女子たちは愛美の返事に意地の悪い笑みを浮かべた。
「良かったね、やっと思っていたことが言えて。あんな根暗でキモイ奴、友達じゃないって言っていたもんね」
「そんなこと—―」
否定しようと顔を上げたが声にするはずの言葉は女子たちの視線にねじ伏せられた。
「そっか。悪かったよ。友達だと思っていて」
その場を立ち去ろうとする零に愛美は思わず手を伸ばした。
「零! 待って」
「触んな!」
突き放すような言い方に愛美は思わず手を引いた。一瞬目が合うと零はそのまま背を向けて去って行く。
「愛美が拒否られててウケる」
「あはは……」
笑いたくもないのにまるで他人みたいな笑い声が自分の口からこぼれる。
「しかも拒否られてるのに笑ってるよ。こんな時でも愛美はバカみたいに笑うんだね」
「愛美はいじられキャラだから拒否られてもおいしくて笑えるんでしょ。私だったら恥ずかしくて死ぬわ」
リーダーの女子が笑う。愛美は何も面白くないのに笑い続けた。いつしか笑うことが自分の身を守る術になっていた。
(何も考えない。何も考えずに笑っていればあたしの居場所はあるんだから。笑え! あたし! 笑え!)
そう自分に言い聞かせなければ零の瞳を思い出して泣いてしまいそうだった。愛美を突き放したその瞳は胸が切なくなるほどに優しく、寂しいものだった。
「愛美さん!」
ぐいっと強く腕を掴まれ、愛美ははっとした。愛美はいつのまにか黒い陰に飲み込まれそうになっていた。奏斗に強く引かれ正気を戻した愛美の身体から黒い陰たちが口惜しそうに離れていく。恐ろしい異形の黒い狐の陰は愛美の目にもはっきりと見えた。
立ちすくむ愛美の身体を奏斗は支え、陰を睨む。すると陰は霞のように消えていった。
「何あれ……」
「あれに捕まると心を奪われてしまうんだ。アヤメさんによるとあれは使い魔だからそんなに力はないみたい。でも青鈍さんの目に捕まったら……」
「逃げられないってこと?」
奏斗は頷いた。愛美は陰の消えていった場所を呆然と見つめた。
「零はあんなに怖いものの近くにしか居場所がなかったの?」
愛美がぽつりとつぶやいた。
「愛美さん?」
奏斗が見ていることに気付くと愛美はすぐにいつもの笑顔を向けた。
「やだ! そんなの奏斗っちの知ったこっちゃないよねー! ごめんごめん! 独り言だから!」
愛美はそう言って大袈裟に笑ってみせた。しかし奏斗は笑顔を返さず真剣な顔をしていた。
「愛美さん、ずっと悩んでいたんだね」
「何言ってんの奏斗っち、悩んでなんていないよ! むしろ頭に来てるだけつーか」
「愛美さんは誰に頭に来てるの?」
奏斗の優しい問いかけにへらへらと笑っていた愛美の目から涙がこぼれた。
「……あたしだよ。あいつがあーなったのは全部あたしのせい。あたしって本当バカ!」
愛美は泣くのを誤魔化すように笑ってみせた。奏斗は自分より少し低い愛美の頭をポンポンと撫でた。
「愛美さん、無理に明るくしようとしなくていいんだよ。怖い時は怖いって言っていいし、悩んでいる時は笑顔をつくる必要なんてないんだ」
愛美は奏斗の言葉に顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。我慢していた分激しい嗚咽が喉から溢れ出す。
「本当はすごく怖いんだ。人と話すのが怖い。それで嫌われることを恐れ過ぎて一番大切な人を傷つけちゃった」
愛美は奏斗の胸元でおいおいと声を上げて泣いた。奏斗は愛美の背中をさする。それは愛美の全てを肯定してくれているように温かかった。
「癖なんだ」
次第に落ちつきを取り戻した愛美は目元の涙をぐいぐい拭うと涙混じりの鼻声で言った。
「癖?」
愛美はこくんとうなずく。
「あたしみたいなおバカな子がさ、悩んでたらウザがられちゃうでしょ。だから明るく笑っていないと嫌われちゃうって思ううちに面白くなくても笑っちゃうようになったの」
「愛美さんのことを大事に想っている人はそんなことで嫌いになんてならないよ。僕は愛美さんには心から笑っていてほしい」
奏斗はまだ愛美の背中をさすっていた。愛美は奏斗の温もりを感じて微笑む。
「ありがとう。あたしは同じように思ってくれていた人の手を乱暴に振り解いちゃったんだ。後悔したって元には戻れないのはわかってる。でもあの時にもし戻れたら……」
愛美はそこまで言うと口をつぐんだ。自分の過ちを思うと罪悪感と切なさの混じった痛みが胸をしめつける。でもあの時に戻ったとしても本当に零を守れるのだろうか。愛美は今の自分もあの頃の自分もそう変わってはいない気がした。
言葉が出てこなくなった彼女の代わりに奏斗が口を開いた。
「愛美さん、昔にはもう戻れないけど今は仲間がいるよ。一緒に零くんの心をとり戻そう」
まだ背に置かれたままの優しいぬくもりは彼女の胸の痛みを和らげた。
「うん、奏斗っち、ありがと。でもそろそろ背中さすってくれなくていいよ。こんなとこ姐さんに見られたら零助ける前に姐さんに殺される」
「え!? ご、ごめん!」
奏斗は触れていた手を慌てて引っ込めた。その必死な姿に愛美は思わず吹き出してしまった。
「奏斗っちウケる! 耳まで真っ赤じゃん! 奏斗っちのむっつりスケベ」
「ち、違うよ」
「ただのスケベってこと?」
「ち、ち、ち、違うっていうのはムッツリじゃないってわけじゃなくて! ただ僕は元気になってほしくて」
慌てて弁明する姿はさっきとは別人のようで愛美はお腹を抱えて笑っていた。
「冗談だよ。でもなんか姐さんが惚れ込んじゃうの分かった気がする」
「え?」
まだ焦っていた奏斗は愛美の言葉を聞き逃していた。
「奏斗っちと姐さんはお似合いだって言ったの。人間と妖狐なんて大変そうだけどふたりともブレてなくてさ。私も周りに何を言われても零を掴んで離さなければよかったな」
そうすれば零にも伝わっていたのかもしれない。愛美は零に触れることの叶わなかった自分の手を空にかざした。心なしかすっきりとした愛美の横顔に奏斗は満面の笑みを浮かべる。
「大丈夫。何度失敗してもチャンスはきっとあるよ。次こそはきっと上手くいく。僕はそう信じているよ」
愛美は奏斗が言ったその言葉がまるで自分に言い聞かせるように聞こえた。そして目の前にいる奏斗が彼であって彼ではない別人のような不思議な感覚に襲われた。
(あれ? 奏斗っちそんなとこに傷痕あったっけ)
愛美は見慣れない奏斗の顔の傷痕に目をこらす。
「愛美さん、どうしたの?」
奏斗が愛美に聞いた瞬間、奏斗の傷痕はなくなっていた。愛美は目をこすって首をかしげる。
「ううん、気のせいみたい。そんなことより帰ってオヤツにしない? 泣いたらお腹減っちゃった! 奏斗っちにあげたお菓子まだ残ってる? あたしのもうなくなっちゃってさ」
「ああ、あれは……カラスに全部あげちゃった」
「ええっ!」
愛美は悲鳴に近い声を上げた。
「ごめんね」
「奏斗っちにあげなきゃよかったぁ。ま、いいや。後悔してもしょうがないってなったばっかりだしね! トロトロ先輩少し舐めちゃお」
そう言って愛美は無邪気な笑顔を浮かべた。奏斗はトロトロの災難を思うと複雑な気持ちで笑顔を返していた。
黒い陰たちが青鈍の漆黒の瞳へと帰っていく。
「のんきじゃのう。ちょいと遊んでやっただけで逃げた気になっておる。姫の心を惑わす愚かな人間、お前もすぐに此奴と同じにしてくれるわ」
暗い青鈍の部屋の片隅では零がガタガタと震えながらうずくまっていた。