6 追い追われて
「アヤメさん、ごめんね。天狗のことを聞き出すチャンスだったのに」
帰りの車で奏斗は申し訳なさそうに言った。アヤメはきょとんとしていたがすぐに優しい笑みを浮かべる。
「奏斗の目的が達成できたならそれでいいのよ。更沙はきっとすぐに良くなるわ」
アヤメの言葉が奏斗の心をスッと軽くする。奏斗だって自分のしたことが正しいのかは分からない。ただ受け入れてくれる存在がいることが救いだった。
「ありがとう、アヤメさん」
「いいのよ」
赤信号でブレーキを踏むと外の景色に違和感を抱いた。道路の両端に植えられた街路樹が激しく揺れている。
「外は風が強いのかな」
奏斗は首をひねった。風が強いのなら窓からも強く吹きこむはずだし、車が煽られてもおかしくない。何より奏斗たちの車に近い街路樹だけが激しく揺れている。街路樹の影がふにゃふにゃと動き黒い狐の姿になる。するとそれに呼応するように奏斗の胸に灼けるような痛みが走り、目の前が闇に霞んでいく。
「奏斗!」
その瞬間アヤメに強く腕を掴まれてカナトははっとした。そしてそこにいたはずの黒い狐の『陰』はもうない。
「あれに同調してはダメ」
アヤメの澄んだ瞳を見ると不思議と痛みが消えていく。
信号が青に変わり後続の車がプップッとクラクションを鳴らす。アヤメが手を離し奏斗は車を発進させた。アヤメは窓を閉め街路樹の影を睨む。
「奏斗、前を見たまま私の話を聞いて」
アヤメの声から真剣さが伝わる。奏斗はぎゅっとハンドルを握る手に力を込めて頷いた。
「生き物は誰でも心に黒いモノを持っているわ」
「黒いモノ……」
脳裏に黒い狐が現れ、にたりと真っ赤な口で笑う。奏斗はぶんぶんと小さく頭を振った。
「それは自分では認めたくない陰の部分。でもその部分にもちゃんと魂は宿っているの。だから例え目を逸らしたい感情でも他の誰かに渡してはいけないのよ」
「他の誰かって、もしかして……」
奏斗がごくりと唾を飲む。
「ええ、青鈍よ」
アヤメは静かに言った。
事務所に帰ると愛美が不満気に口を尖らせて待っていた。
「ちょっとー! 水くさいじゃないっすか! あたしたちも連れてってくれれば良かったのにっ」
「ごめん、でも朝早かったから起こしたら悪いと思って」
「あたしだって夜明け前には起きてここで待ってたんだよっ。昨日奏斗っちから芥山でのこと聞いて、あたしも力になりたいと思ってたのにさ! そしたら今日も姐さんと奏斗っちふたりで行っちゃうんだもん!」
その言葉通り愛美はいつでも出発できるように月白を抱っこ紐で抱っこしていた。
「まぁ、いいじゃないですか。きっとしばらくは橡も現れませんよ」
健太郎は仕事机の上に肘を立てて手を組み2人の様子を見ていた。そして彼が座るその横には雪が立つ。愛美はすすっとアヤメに近寄ると恨みがましく耳打ちをした。
「健太郎はああ言ってるじゃないすか。でも何故か聞いたらまた勘だとか言うんすよ。こいつ信用できませんよ。勘だけで生きてるんすから」
「聞こえていますよ」
健太郎が笑顔を浮かべながら言うと愛美は「こわっ」と言ってアヤメの後ろに隠れた。
「根拠がないわけじゃないですよ。昨日からどうも胸が騒がしい。これはきっとあの方が橡の存在に気づいたんだと思います」
健太郎が言うと愛美はぶっと吹き出して笑う。
「胸騒ぎって! 何の根拠でもないし! ねぇ、奏斗っちも胡散臭いと思うっしょ?」
話題を振られた奏斗は胸を抑えた。
「実は僕も胸がおかしいんだ。しかもどんどんひどくなって悪い予感がする。愛美さんは何ともない?」
愛美は渋々自分の胸に手を当てたがすぐにその手をぶんぶんと横に振った。
「いやいや恋してたら四六時中胸は痛むもんっしょ! ねぇ姐さん」
そう言って笑ったがアヤメの顔を見て表情が固まった。アヤメの顔はその痛みが恋ではないことを語っていた。
「それは恋じゃないわ。健太郎の予想通り、青鈍が近くまで来ているということよ」
「青鈍って青森支所のっすか?」
「そう。植物を通して見る青鈍の目は橡だけ見えない。でも昨日、私たちが接触したことで橡の存在を確信したのだと思うわ」
健太郎は雪に視線を移したが雪の表情は微動だにしなかった。健太郎はふーっとため息をつき視線を戻す。
「ではここに来るのも時間の問題ですね。一応注意しておきますが青鈍に会ったら目を合わせないで下さい」
「え? 何で?」
愛美は目をぱちくりとさせ奏斗を見る。目が合った奏斗が質問に答えた。
「青鈍さんと目が合うと心の黒いモノを引き込まれてしまうんだ」
「黒いモノ?」
愛美は思わず自分の胸元を見たが抱っこされた月白が気持ち良さそうに眠っている顔しか見えない。
「見ようと思って見えるものではないですよ。黒いモノとはすなわち心の闇です。誰しもが持つ魂の奥底に隠しておきたい部分ということです。橘くんはご存知のようですが彼の言う通り青鈍は目が合った相手の『心の闇』を抜き取ります。そしてそれを青鈍の中に閉じ込めてしまうのです」
「心の闇を取り除いてくれるなら嬉しくない?」
「心の闇は言い換えれば自分の抱えた問題です。それを取られるというのは自分が解決すべき問題を永遠に解決出来なくなってしまうということ。その怖さが分かりませんか?」
健太郎にいつもの人あたりの良さはなく厳しい顔をしていた。
「わ、分かってるよ。だからそんな怖い顔しないでよ。目を合わせなければいいんでしょっ」
愛美は仕方なく返事をすると健太郎の表情が少し和らいだ。
「あと青鈍が来ることで橡との接触は余計に困難になります。そうなればクジラの命も危うい。最悪のことを考えて覚悟はしておいてください」
愛美は困惑し眉間にシワを寄せた。
「青鈍のせいでクジラの命が危なくなるってこと? ここまでくるんだから協力してくれるように頼んだら?」
「それは無理ですね。青鈍にはクジラの命などどうでもいいこと。彼女には橡がすべてなのです。クジラや天狗は橡を誘い出すための道具にすぎない。そして俺たちも青鈍の道具にされないよう気をつけなければなりません」
奏斗の隣で愛美はみるみる青ざめていく。奏斗には疑問があった。
「どうして青鈍さんは橡さんを追い、橡さんは青鈍さんを避けるんですか?」
健太郎は雪を見るとその答えを雪に委ねた。今まで黙っていた雪が口を開く。
「おふたりは家族を想う心が誰よりもお強いのです」
奏斗は雪の答えに余計にわけがわからなくなった。家族を想う心が強いのならばどうして青鈍は橡だけ見えないのか。何故に橡は青鈍を嫌い、身を隠すのか、分からないことだらけだった。
「ふたりの過去に何が—―」
奏斗が言いかけた時、アヤメが奏斗の口に手を当てそれを制した。見ればこちらを見ていた雪が事務所の入り口を向いている。
「来たわ」
アヤメも入り口を睨み神経を尖らせていた。
ドアの向こうからカラカラと車椅子のタイヤの音が微かに聞こえた。ドアは開き車椅子から美しい着物を着た足元がのぞく。車椅子には青鈍が乗っていた。伏し目がちな漆黒の瞳に長いまつ毛がかかる。健太郎は立ち上がり、深々とお辞儀をした。
「遠いところをわざわざお越し頂きありがとうございます、青鈍様」
微動だにしない青鈍の代わりに答えたのは車椅子を押していた零だった。
「白々しい挨拶など不要だ」
無表情の零の瞳に輝きはなく生気もない。
「零……」
愛美は久しぶりに会う幼なじみに思わずその名を呼んだ。しかしその声は零に届かない。零は突き刺すように冷たい視線を健太郎に向ける。
「橡様の居場所がわかったらすぐに伝えるように言っていたはずだが」
健太郎はいつもの穏やかな笑みを浮かべ肩をすくめた。
「そちらが一方的に言っていただけで約束はしていませんよ。それに青鈍様が来れば橡は雲隠れしてしまうのでそんな情報提供は無意味かと思いますが」
「青鈍様のご命令に意味がないと?」
「解釈はお任せしますよ。ただあなたの崇拝している妖狐様方の行動を制限するなど普通の人間の俺にはできません」
「お前……」
激しい嫌悪感から零の眉間に深いシワが刻まれる。しかし健太郎は全く気にしてはいなかった。
「いくら姉君様といえど妹の橡にだって権利がある。会うのも会わないのも彼女が決めることです」
「人間ごときが青鈍様に意見するなど万死に値する」
零はポケットに手を入れるとカチャという金属音がした。愛美はハラハラとうろたえ、奏斗はいざとなれば飛びかかって止める覚悟を決めた。しかし、零を止めたのは雪だった。
「やめなさい。お前こそあの方々が選んだ人間を傷つけようとするとは何様か」
雪が冷たく言い放つ。すると零ははっとして雪に土下座をした。
「申し訳ございません」
雪の声に反応して人形のように微動だにしない青鈍の口角が微かに上がる。
「雪」
青鈍がかすれるような小さな声で呼ぶと雪は冷静な彼女からは想像できないほど優しく微笑んだ。
「青鈍様」
「わたくしは早く橡に会いたい」
わずかに動く口からは期待の色が伺えた。
「橡様はクジラと共に天狗を探しておられます」
「天狗か。懐かしいのぉ」
それに反応したのは健太郎だった。
「青鈍様は天狗をご存知で?」
「お前、人間ごときが青鈍様に話しかけるな!」
零は声を荒げたがすぐに胸を抑えてうずくまる。
「ちょっと零、大丈夫?」
「触るな!」
駆け寄る愛美に冷たく言い放つ。その目はどこまでも暗く闇に満ちていた。
「邪魔をするな。わたくしは気分がよいのじゃ。もっと橡の話がしたい」
青鈍がそう言うと零は開放されたようにはぁはぁと立ち上がった。
「申し訳ございません……青鈍様」
謝る零を無視して青鈍は健太郎との話を続けた。
「して、橡は天狗を探しておるとの話じゃったの」
「はい。天狗のいるところに妹君も必ず現れるでしょう。彼女を探すのであれば天狗を追うのが早いかと」
青鈍は目を見開きニィと不気味な笑みをこぼす。それは背筋が凍るような笑みだった。
「とうに天狗などおらぬ。おらぬと分かれば橡はわたくしを頼るしかないじゃろうなぁ」
青鈍の闇に包まれた瞳が轟々とうごめいた気がした。




