5 手当て
「これだけあれば平気かな」
奏斗はリュックに入っていた救護箱の中身を確認していた。部屋の片隅におかれたストーブがじんわりと赤く光る。その前では皿に入ったトロトロが不思議そうに奏斗を見ていた。
「こんな早くからそんなもん引っ張り出して誰か怪我でもしたのかよ」
時間は朝の 4 時、外はまだ真っ暗だった。
「うん。怪我をしているかは分からないけど気になって」
奏斗は八咫烏の攻撃を受けた更紗のことが気になっていた。茂みへと激しく打ち付けられた更紗が無傷であるとは思えなかった。
「カラスが人間を受け入れるとは思えないけどな」
「うん、それでも傷ついている生き物を放って置くなんてできないから」
トロトロは昨日の健太郎の話を思い出した。奏斗は優しい。それに橡が付け込んでいるのかもしれない。でももし奏斗がそのことを知っていたとしても彼はクジラやカラスを見捨てることなどできないだろう。リュックを背負いドアに手をかけた奏斗にトロトロが言う。
「だったら俺も行くぞ」
「ありがとう。でも朝はまだ冷えるし、固まっちゃうよ。手当てをするだけで横須賀でやっていたことと変わらないから大丈夫だよ」
奏斗はトロトロに笑顔を向けた。
「おい! 奏斗――」
引き留めようとしたトロトロだったが少しだけ開いたドアの向こうに黒いハイヒールが見えたので口を閉じた。
ドアの前に立っていたのはアヤメだった。
「アヤメさん」
アヤメは腕を組み、驚いている奏斗のことを甘く睨む。
「一人でどこへ行くつもりかしら? 単独行動はダメだと言ったはずよ」
「ごめん、どうしてもカラスたちが気になって」
奏斗が謝るとアヤメの表情は困ったような微笑みに変わる。アヤメは奏斗相手に怒った顔が長くできなかった。
「そんなことだろうと思っていたわ。もうカラスたちも目覚める。私も一緒に行くわ」
ドアがパタンとしまり2つの足音が遠ざかっていく。
「甘いな」
部屋に残されたトロトロがやれやれと笑いながら呟いた。
車のエンジンをかけると緊張した面持ちでフロントミラーを調整する。運転席に座っているのは奏斗だった。車の鍵は「好きに使ってください」と雪から預かったものだった。奏斗も運転免許がないわけではない。高校卒業と同時に取ったきり、実家でたまに運転する程度だ。しかも高級車とあれば余計にプレッシャーがかかる。でももともと一人で行くつもりであったし、鍵も自分が持っているので奏斗が運転を名乗り出た。
「じゃ、じゃあ、出発するよ」
「ええ」
助手席に座るアヤメは心なしか嬉しそうな顔をしていた。でも奏斗にはアヤメの表情を見る余裕はない。車はゆっくりと発進した。
少し運転すると奏斗も慣れてきた。空が少しずつ明るくなっていくにつれ車内も見えるようになっていた。奏斗は耳を赤くして恥ずかしいそうにもごもごと口を動かした。
「あの……アヤメさん、僕の運転怖い?」
「いいえ、どうして?」
「アヤメさんが僕のことずっと見ているから」
今度はアヤメが頬を染めて視線をそらす。
「ごめんなさい。いつもふわふわしている奏斗がすごく真剣に運転しているでしょ。だから新鮮で......」
奏斗は前を見ながらえへへと笑う。
「僕、ペーパーだから余裕がないだけだよ。僕もアヤメさんみたいにかっこよく運転できたらいいんだけど」
「人間のフリをするために乗っているだけだもの。全然かっこよくないわよ」
「そうかな、アヤメさんはいつもかっこいいけど。でも……かっこよくないアヤメさんもかわいいと思うよ」
奏斗の言葉にアヤメは頬を染める。そんなことを知らない奏斗はアヤメが黙ってしまったので焦っていた。
「アヤメさん、気を悪くしたならごめん! もちろんかっこ悪いアヤメさんなんて見たことないよ! でも見てみたいなっていう気もして、あの、好奇心とかじゃなくて……色んなアヤメさんを見たいというか、どんなアヤメさんもきっと素敵なんだろうなっていう僕の妄想でーー」
「もう、いいってば」
しどろもどろにならながら話し続ける奏斗にアヤメが赤面して俯く。
「なんだかちょっと熱いね」
彼女と同じく頬を火照らせた奏斗が窓を開けた。早朝のひんやりした空気が車内を通り抜ける。
「風が気持ちいい」
奏斗の横顔は清々しく朝焼けに瞳が輝いていた。
「うん」
アヤメはその姿を目に焼き付けるように見つめた。
「いつもとはちがう景色が見えて車もたまにはいいかも」
アヤメが独り言のように言うと奏斗は何かを思いついて明るい顔で助手席を見た。
「ねぇ、アヤメさん、横須賀に帰ったらドライブしよう! 僕が運転するよ」
アヤメは驚いた顔をしていたがすぐに微笑む。
「ほら、前を向いて、危ないわよ」
奏斗は慌てて前を向く。隣の席から「楽しみにしているわ」と言う声が聞こえた。
芥山に着くとゴミを出しに来ている住民と鉢合わせになった。初老の女性はゴミ捨て場に置いてあるホウキを持って脅すように振り上げる。そこには大きなカラスがいた。
青光りする立派なカラス、それは堕津に間違いなかった。
「ゴミを漁るんじゃないよ!」
声を荒げても堕津はぴょこぴょことゴミネットの上を2.3歩動くだけだった。それは人間を馬鹿にしているように見えた。
「おはようございます」
奏斗が声をかけると女性は気まずそうにホウキを下ろした。
「あんたたち見ない顔だね。引越してきたのかい?」
「あ、僕たちはーー」
奏斗が説明しようとするとアヤメがツンと奏斗の袖を引っ張る。
「ええ、まだこの辺りに不慣れなものでして。通勤前にゴミ置き場の場所を確認しに来たんです」
女性はアヤメと奏斗を交互に見て顔を緩ませる。
「あら、新婚さんかい? 奥さんがこんなにべっぴんじゃ旦那も心配だろうねぇ」
真っ赤になる奏斗に女性はにやにやと笑う。アヤメは微笑みを返し女性が持つホウキを見た。
「カラスが悪さをするんですか?」
すると女性が目を離した隙に堕津がゴミから生ゴミを引き抜く。
「ああ、本当嫌なカラスだよっ!」
女性は今度は叩いてしまいそうなくらい近くで堕津に向かいホウキを振る。すると堕津は林の奥へと飛んで行った。
「私はこの場所がこんなにきれいになる前から住んでるけどね、あのカラスはずっとこのゴミ捨て場を荒らしているんだよ。どんな対策を練っても無駄。悪賢くて意地汚いカラスだよ」
夜中のうちに出されたであろうゴミがネットからはみ出て散乱している。女性は慣れた手付きで散らかったゴミをホウキで集めるとまとめてネットの中へと入れた。
「カラスは人の少ない時間に悪さするんだ。だけどね、決められた時間に出さない人も同罪さ。だからあんたたちも夜中にゴミを出すんじゃないよ」
女性が忠告すると奏斗は思わず「はい!」と返事をした。女性は奏斗を見て声を出して笑う。
「あんたたちなら心配なさそうだ! 奥さんもしっかりしていそうだしね」
「お、奥さ……」
奏斗の顔が再び耳まで赤くなる。女性は自分の言葉で何かに気づいたのかカラスの去った林を見て首を傾げた。すかさずアヤメが声をかける。
「どうしました?」
「そう言えばいつもは2羽でくるのに今日は1羽だったね」
「2羽?」
「さっきのカラスより少し小さなカラスだよ、多分番なんだろう」
奏斗とアヤメが顔を見合わせる。堕津の番、それは更紗に違いない。見つめ合っているふたりに女性があらあらとにんまり笑う。
「目で会話しちゃってラブラブねぇ。私も家に帰って父さんの朝ごはん作らなきゃだわ」
女性はホウキを片付けると「またね、新婚さん」と笑いながら帰って行った。
「誤解されちゃったね」
勘違いとはいえ自分がアヤメの夫だと考えるだけで爆発してしまいそうだった。しかしアヤメは顔色一つ変えていない。
「カラスを追い払っていたのに自然保護団体なんて言ったら警戒するでしょ。だからこれでいいのよ」
奏斗は意識してしまった自分が急に恥ずかしくなりごまかすように笑う。
「そっか。そうだよね。任務のためのウソとはいえ、信じてもらえて良かったよ」
「そうね」
アヤメはそう返事をしてどこか寂し気に微笑んだ。
ゴミ捨て場の裏道を進み、祠に着くと祠には堕津が止まっていた。破壊されたままの扉は古い祠を余計にみすぼらしくしていた。祠の中は薄暗く朝日に照らされた埃がキラキラと舞う。
奏斗は祠に違和感を覚えた。
(あれ? 昨日はあったのに……)
祠の中は空になっており黒い染みだけが残っていた。
ガァガァ!
祠を取り囲む木から鳴き声が響く。見上げれば数羽のカラスの姿も朝日に照らされていた。
堕津がバサバサと音を立てて大きな羽を広げた。こうして明るい日の下で見ると堕津が特別なカラスであることがよく分かる。堕津の羽は艶やかでたくさんの色を吸収したような複雑な漆黒だった。
「何をしにきた? 今度は人間の捨てた物を漁るなとでも言いに来たか?」
堕津の足には先ほど抜きとった生ゴミが握られていた。奏斗は堕津ほど美しく気位の高いカラスに生ゴミは不似合いに感じた。
「あなたはもっと誇り高い生き物だと思っていたわ」
アヤメが言うと堕津は嘲笑うように鳴いた。
「人間になりすまして生きているキツネの姫が誇りを語るとは面白い。だが余計なお世話だ。これは生きる為にしていること。家族を守ることに誇りなど必要ない」
「なら更紗を出しなさい。奏斗は傷付いた更紗の手当てに来たのよ」
アヤメの言葉で場の空気が変わった。木の上のカラスたちがどよめく。
「更紗の手当てに?」
「どうして?」
「でも手遅れになる前に……」
戸惑うカラスたちの声が降り注ぐ。しかし堕津がカァ! と鳴くと辺りはまた静まり返った。
「手当てだと?」
「昨日激しく衝突していたのが気になって。もし怪我をしているなら鳥類は飛べなくなることもあるので早く手当てをした方がいいです」
堕津の疑い深い目が奏斗を突き刺す。
「お父様」
木に止まっていた若いメスのカラスが遠慮がちに堕津を呼んだ。
「人間の中には私たちを助けてくれる者もいると聞いたことがあります。お母様のために手当てを受け入れては?」
「こやつはキツネの手下だ。奴らを頼れば相応の代償がいる。上手いことを言って更紗の手当てと引き換えに天狗の居場所を聞き出そうとしているのだ」
「違います!」
奏斗は叫んだが堕津は聞く耳を持たなかった。しかし張り詰める空気の中、カラスは奏斗の前へと降りたった。
「沙綾!」
厳しく名を呼ばれたカラスは振り向かずに、すがるように奏斗を見上げていた。
「どうか私の母を助けて下さいませんか?」
沙綾という名のカラスの瞳には恐れと強い覚悟が感じられた。
「娘といえど勝手なことは許さん!」
堕津が怒鳴り声を上げる。
「では誰が? 誰がお母様を助けて下さると言うのですか? 今助けてもらわなければお母様の命が危ないのに」
「更紗は簡単には死なない」
「でも飛べなくなるかもしれないわ。群のみんなが知っているのよ。お母様の不幸を一番耐えられないのはお父様だわ」
沙綾の声は震えていた。そして再び奏斗をすがるように見つめる。
「天狗を見つけることが出来るのは母だけです。でも天狗なんていません。いないものを探すなど出来ないのです。他のことなら何でもします。だからどうか母をーー」
「やめなさい。沙綾」
沙綾の声を遮ったのは落ち着いた声だった。声の主は木の影から姿を表す。そのカラスは片足でぴょんぴょんと歩き、まだ止まらぬ羽からの出血が翼の色を鈍く濁らせていた。
「更紗」
堕津と更紗は見つめ合う。堕津はそれ以上何も言わなかった。更紗の痛みは相当なものだろう。だが痛みを微塵も感じさせない堂々とした姿は堕津とはまた違った気品が感じられた。更紗はまっすぐに奏斗を見つめる。
「私は手当てを望みません。怪我で朽ちるのならばそれが自然の流れであり、私の運命。気持ちはありがたいがお引き取り願いたい」
しっかりした重い声に奏斗はぎゅっとリュックの肩紐を握る。しかし奏斗は引かなかった。
「確かに自然の流れに人間は手を出してはいけません。でもあの八咫烏は自然のものではなく人為的なもの。しかも九重会のキツネが作り出したものです。九重会のせいで負った怪我なら僕は九重会の者としてあなたの手当てがしたい。もちろん代償を求めるつもりもありません」
カラスたちは奏斗の言葉に驚いていた。堕津は奏斗を睨む。
「古来よりキツネは信用ならない生き物だ。そしてそのキツネを慕う人間はもっと信用できない」
それに反応したのはアヤメだった。アヤメの瞳孔が縦長になり、口に鋭い牙がのぞく。
「黙って聞いていれば……奏斗を悪く言うことは許さない」
「待ってアヤメさん!」
奏斗は半分キツネ化して怒るアヤメを止めた。
「僕は確かにキツネと行動を共にする人間で、沙綾さんが言うような善良な人間でもありません。だから堕津さんが疑うのも無理はないと思います。正直に言ってしまえば僕は自分のために更紗さんを助けたいんです。僕は昨日何も出来ずに見ているだけだった。そして今も諦めて帰れば僕の存在は無意味だ。だから僕は自分の存在意義のために更紗さんを治したい」
「奏斗、そんなことを思っていたの?」
アヤメの瞳が哀しく揺れる。奏斗は困り顔で笑った。
「かっこ悪いよね。でも僕は本当に何も出来ない普通の人間だから少しでも役に立ちたいんだ」
そして再び奏斗は更紗に向き直る。
「更紗さんは僕に助けられるわけじゃない。どうか僕を利用してくれませんか?」
堕津と更紗は再び視線を合わせた。そして更紗は羽ばたき、堕津の隣へと降りる。その飛び方は不安定で痛々しく、翼からは血が滴り落ちた。
「あなたの気持ちは分かりました」
「じゃあ……」
奏斗が期待を込めて見つめると更紗は頷いた。
「あなたと私は似ている。私の存在意義は家族を守ること。でもこの身体ではそれももう難しいでしょう。私の存在意義のために人間を利用させて頂きたい」
更紗はそう言うと丁寧に奏斗へお辞儀をした。
「私の手当てをお願いします」
「ありがとうございます!」
奏斗は全力でお辞儀を返した。堕津も黙って更紗の決断を見守る。
「母をお願いします」
沙綾はほっとしたのか顔つきが穏やかになっていた。
奏斗が手当てのために更紗の翼に触れる。奏斗は獣医師の心得はない。しかしまるで身体が覚えているかのように更紗の身体を触診し、出来る限りの手当てをした。
「血はこれで止まると思います。骨折した箇所にも添木をしたので安静にしていればまた遠くまで飛べますよ」
「安静に……」
沙綾が不安気な声を出す。安静にできるかどうかは八咫烏次第だった。アヤメは両手を空に向かって伸ばす。するとカラスのいるあたりだけ霧に覆われた。
「この霧にはごく少量の私の瘴気を含ませてあるわ。数が多い分、橡の力は分散されている。奴の術を解くには十分よ。この中にいればあなたたちを襲う前に土の塊に戻るわ」
だが安全は確保されたが離れた餌場へ行くのは難しそうだった。
「そうだ! 確かーー」
奏斗はリュックに手を突っ込みごそごそと漁る。
「良かったらこれを食べて。さっきのだけじゃ足りないだろうから」
そう言って取り出したのは愛美からもらったお菓子だった。新幹線で食べなかった分を愛美が「いーからいーから」と半ば強引に奏斗のリュックに詰め込んだのだった。
「そのようなものーー」
堕津は言いかけたが仲間たちはお菓子を期待の目で見つめていた。それは明らかに生ゴミよりもご馳走だった。
「家族のために受けとっておいたら?」
アヤメは肩をすくめて言う。堕津がため息をつくと群の若者たちがお菓子めがけて奏斗に群がる。奏斗は嬉しそうにカラスたちと戯れ、その姿を見てアヤメも笑った。
「噂には聞いていたが妖狐の姫とは思えぬ振る舞いだな」
「私は妖狐でも何でも構わない。ただ彼を守れればそれでいいのよ」
「奴がお前の存在意義というわけか」
アヤメは奏斗を見つめる。強い風が吹いてもその強い眼差しは揺らがなかった。
風に乗って一枚の葉がひらひらとアヤメの前に舞い散りパチンと弾けた。その瞬間、彼女の瞳が金色に光り、瞳孔が三日月のように細くなる。
「奏斗、そろそろ戻りましょう」
アヤメは奏斗の腕を取った。
「う、うん」
奏斗はカラスたちに手を振り、車へと急ぐ。
祠に止まる堕津の影が揺れ、みるみる狐の形に変わっていった。
「堕津! 飛んで!」
陰に気付いた更紗が叫び、堕津は祠を飛び立つ。すると狐の形に変わった陰はすーっと姿を消した。
堕津は空の上から帰っていく奏斗とアヤメを見つけ顔をしかめた。
「またおかしなモノを……」
黒い狐が木々の葉を怪しく揺らしながらふたりの後を追いかけていた。