4 勘
愛美は抱っこひもから寝ている月白をそっとソファに下ろした。そしてリュックから薄手のブランケットを取り出すと月白の身体にかける。ブランケットと抱っこひもはいつも寝ている月白と行動する愛美には必須アイテムだ。
チワワほどの大きさしかない月白はよく子犬と間違えられる。しかし、ブランケットからのぞく、くるんと弧を描いた8本の尾は紛いもなく妖狐である証だった。
「今日は起きていないんですか?」
健太郎は愛美の向かい側に座り、眠る月白を見た。
「うん、最近は数日起きないこともあるんだ。あたしが九重会に入ったころは必ず1日に1回は起きてたのに」
愛美は不安気な横顔で月白を撫でる。いくら寝てばかりと言っても限度がある。月白の睡眠時間が伸びるたびにざわざわと胸騒ぎがした。健太郎はコーヒーに口をつけ一呼吸つくと難しい顔をした。
「時間がないのかもしれませんね。最近では生き物たちの異常行動も増えている。九重会の各支所も対応に追われていると聞いています。愛美さんのところでも通常では考えられない大きさのクジラが浮上していますね」
「知っていたんだね」
「知っているも何も浮上したクジラの意識が戻らないのは橡のせいですからね。愛美さんもその件でわざわざここまで来たんでしょう?」
健太郎があまりにさらっと言うので愛美は顔をしかめた。
「え、ちょっと待って。どゆこと?」
「クジラの魂は橡の作り出した八咫烏に入って鳥取の上空を飛んでいるってことですよ」
「そんなの、あたしにだって分かるよ! 分からないのは何であんたがそれを知っていてこちらに連絡をよこさなかったのかってことだよ! 橡はあんたの上司でしょ? 知っていて放置していたなんて信じられないんだけど!」
愛美はまくしたてたが健太郎の表情は変わらない。
「橡を止めるなんて俺には無理ですよ」
愛美はバンとテーブルに手をついた。
「止められなくても止めようとするのがあんたの役目っしょ!?」
健太郎には橡をどうにかしようという気持ちが感じられない。愛美はそれが腹立たしかった。
愛美と健太郎の間にある一枚板のテーブルの上では、愛美が手をついた衝撃で溶けたチョコの塊がとろんとゆれる。
「愛美、落ちつけ。健太郎にも何か事情があるのかもしれないだろ?」
トロトロが揺れながら愛美を諫める。トロトロの留守番はアヤメが提案したものだった。
「さすがトロトロさん、冷静ですね」
「ま、まあな」
褒められ慣れていないトロトロはまんざらでもない顔をした。そんなトロトロを愛美は睨む。
「先輩、なに褒められていい気になってんすか?」
「ちがう! いい気になんてなってないぞ! ほら、知っていることを話せ、健太郎!」
トロトロに促されると健太郎の穏やかな目が真剣なものに変わる。
「はい。もちろんそのつもりです。まず誤解しないで欲しいのですが、俺は橡をただ野放しにしていたわけではありません。俺はあなたたちが来ることを事前に知っていたので行動に移す時を待っていたんです」
「事前に?」
「はい。愛美さんは深海にいたクジラが何故姿を現したのかご存知ですか?」
愛美は首をふるふると振った。
「クジラは地上にいる天狗を探すために水面へ浮上したんです。そして橡の力を借りて八咫烏に魂を移し替え地上に出ました。でも天狗を見つけるには横須賀支所の橘奏斗。彼の協力が必要なんです」
「奏斗を待っていたってことか?」
健太郎は静かにうなずく。
「『橘奏斗が来なければ何も動かない』橡がそう言ったのです」
「そんなの奏斗っちを利用しようとしているのかもしれないじゃん」
「そうですね。でも普段なら橡が何を企んでいるのか俺にはまず言いません。その橡がわざわざ橘奏斗を待つように言いに来た。これは何か特別な理由があると思って間違いないです」
トロトロも腕を組み深々と頷く。
「確かに、誰も信用していない橡は計画から実行までひとりでやるはずだ」
「はい。だから俺は橘君を待つことにしたんです」
愛美はまだ納得いかず不満気に口を突き出していた。
「でもさ、それも含めて橡の作戦かもしれないじゃん」
「それはないと思います」
健太郎は迷いなくはっきりと応えた。
「何で言い切れるのさ。もしかしてあんたもグル?」
愛美は健太郎に疑いの眼差しを向けた。すると健太郎は吹き出して笑う。
「ちがいますよ。ただの勘です」
「勘!?」
「俺の勘は当たりますよ」
「何ソレ? うさんくさー」
「本当ですよ。俺は九重会に入る前に世界を旅していたんですが、マフィアに襲われた時も熱帯地域で迷子になった時も、そして野生のグレゴリーに遭遇した時も勘で乗り切りましたから」
愛美はやや引きながら健太郎を見る。
「それってただ運が良かっただけじゃないの?」
健太郎は「そうかもしれません」と言って笑ったがすぐに顔を引き締めた。
「まあ、俺のことはともかくとして……そのことを伝えに来た橡は明らかにいつもとはちがいました。それにクジラが自発的に動いている以上、クジラの望みが満たされなければ肉体に戻ることはないでしょう。だからここは橘君に賭けるしかないんです」
健太郎が愛美をじっと見つめると彼女は諦めてため息をついた。
「分かったよ。でも奏斗っちは何も知らないんだよね?」
「はい。そして花菖蒲さんにもこのことは言わないでほしいんです。きっと花菖蒲さんは橘君を巻き込むことをよく思わないでしょうから」
それにはトロトロも賛成だった。
「そうだな。姫は奏斗のこととなると理性が吹き飛ぶからな。奏斗に危険が及ぶとなれば鳥取を瘴気で包むかもしれないぞ」
「姐さんならやりかね無い……」
アヤメの怒りは愛美にも簡単に想像できた。
「すごいですね。そんなに橘君は魅力的なんですか?」
健太郎の質問に愛美は目をぱちくりさせる。
「まぁ、奏斗っちは確かに優しいけど、あたしはもうちょい毒がある方が好きっつうか、影があってひねくれてる奴が好きっつうか……」
頬を染める彼女にトロトロがすかさず突っ込む。
「お前は好みがピンポイントすぎるだろ」
愛美はえへへと照れ笑いを浮かべ頭をかいた。
「まぁ、そうなんすけどね! 先輩なら知ってます? 姐さんは奏斗っちのどこに惚れ込んでるんすかね?」
「奏斗は覚えていないが姫は生まれ変わるあいつを何度も見てきているからな。今世だけじゃない積み重なる想いが姫の中にはあるんだろ」
「姐さん、不死身っすもんね」
愛美は切なそうに呟いてからビシっと健太郎を指差した。
「健太郎! 奏斗っちに何かあったら姐さんとあたしが許さないからね!」
「わかっていますよ。これは俺にとっても大きな賭けですから」
真剣な健太郎にトロトロもうんうんと頷く。
「そりゃそうだ。奏斗に何かあったらお前の命も危ないからな、しっかり奏斗を守れよ。愛美お前もだぞ」
「いやいや! 先輩もっしょ?」
「俺は逃げるぞ。地球の裏側の溶けたチョコレートに瞬間移動する」
トロトロは身体をトロトロと波打たせてみせた。
「ズルイ! 先輩、ズルイ!」
健太郎はふたりのやりとりに微笑んでいた。その時、ふわりと健太郎の頬を温かな風がすり抜ける。見れば開け放たれた窓から春の風が彼に届いていた。
(あぁ、やっと--)
健太郎は心地の良い柔らかな風に瞳を閉じた。
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それはまだ雪がちらついていた寒い夜のこと。健太郎は各支所の現況報告書に目を通していた。普段ならあまり他の支所のことなど気にしないが昼間に長野支所から橡のことで電話がかかってきたので一応目を通すことにしたのだった。報告書を見てみれば、それは人の不幸が好きな橡らしい1件で、健太郎にとっては橡の近況がわかる唯一の情報だった。
しかし健太郎が気になったのは別の案件だった。それは鹿児島支所が対応中の意識のない巨大クジラの件だった。健太郎は眠ったままのクジラに胸騒ぎを覚えた。クジラの状態は長野で昏睡状態にあった人間に似ている。
「まさか橡が? いや……大きすぎる」
健太郎は首を振りながら書類を机に置く。だが彼自身が一番よく知っていた。そういう時の勘は当たってしまう。報告書が風に吹かれパサっという軽い音を立てて落ちた。窓は閉まっているはずだった。健太郎は事務所の中を吹き抜ける冷たい風に顔を上げた。
開いた窓から雪が舞い込んでいる。緩んだ戸が風で開いたのかもしれない。そう思って立ち上がり窓を閉めた。
しかし、戸を閉めたのに冷たい空気は変わらない。窓の前にいた健太郎が振り返ると事務所の机の上に橡が足を組み座っていた。冷たいと感じたのは風ではなく、橡の凍るような冷たい視線だった。いつの間に……なんていう疑問は浮かびもしなかった。ただただ健太郎の瞳は橡の姿に釘付けになった。
雪で濡れた艶やかな黒髪から物憂げな瞳が漆黒に光る。外は雪が降っているというのに橡は薄いシャツに黒いパンツしか身にまとっていなかった。広く開いたシャツから白い肌がのぞき、凹凸の少ない華奢な身体が妙になまめかしかった。
「久しぶり、健太郎」
先に口を開いたのは橡だった。
「珍しいですね」
落ち着いた口調の健太郎に橡はふっと笑みをこぼした。
「驚かしてやろうと思ったのに。相変わらずつまらない男」
そんなことを言われても健太郎は気にせず微笑みを浮かべる。
「いいえ、驚いていますよ」
そう言うと自分のジャケットを脱いで橡の肩にかけた。男物のジャケットを羽織るとより一層、橡の性別は曖昧になる。ただ匂い立つような色気ばかりが増していた。
「しばらく姿を見ないと思っていたら長野で任務の邪魔をしていたみたいですね。長野支所からクレームがきましたよ」
「そう? 蘇芳は楽しんでいたよ」
「怒っていたのは長野支所の女の子ですよ。橡を支所に引き止めておくように言われました。そんなことができるならもうしていますけどね」
健太郎は諦めているような笑いを浮かべた。
「柏木舞……あの子は大人しそうに見えてなかなか自我が強い。姫と橘奏斗を取り合うだけはある」
「橘君ですか。話は聞いていましたが会ってみたいですね。彼は生き物の心を開くのが上手いとか」
「すぐに会えるさ」
そう言って橡が憂鬱そうな顔をしたのを健太郎は見逃さなかった。
「また何かしたんですか?」
すると窓の外が騒がしいのに気付いた。見れば暗闇に無数の光る目とバサバサという羽音が響く。灰色の空に真っ黒な大きな影が泳ぐ。その姿に健太郎の胸が騒いだ。
「もしかしてあれは……あなたが?」
橡は何も答えないがそれが答えになっていた。良く見れば小さな塊が集まり大きな影を成して空を泳いでいる。
「俺はまた誰かに怒られることになりそうだ。あれには魂が入ってますね。しかもあれだけ大量の傀儡に入る魂の持ち主は只者じゃない」
健太郎は落ちている書類を拾うと鹿児島のクジラの欄を見ながらため息をつく。
「クジラですか?」
健太郎が聞くと橡は恨めしく目を歪めた。その顔は心なしか青ざめて見える。
「あれだけ大きなクジラが人目につかないようにするのに鹿児島支所はだいぶ苦労しているという話です。しかも魂が抜けているとなれば、なおさら消えた魂を探して焦っていることでしょう」
「魂を見つけても目的を果たすまで奴は海には帰らないさ」
「目的とは?」
「私は天狗を探すための身体を奴に与えただけ」
「じゃあ天狗を見つければ海に帰るんですね」
橡は嘲けるような笑みを浮かべた。
「天狗は見つからない。天狗を見つけるには橘奏斗が必要だ」
「橘奏斗?」
健太郎は奏斗の存在を知ってはいたが狐姫に庇護されている男というくらいの認識しかなかった。
「彼が来るまで手出しするな」
健太郎はふーっと息を吐く。
「なんだか妬けますね」
笑顔を浮かべる健太郎を橡は冷たく睨む。
「そんな怖い目で見ないでくださいよ。長野での1件もありますからね。ここまで知っていて放置するなんて無理な話ですよ。まぁ、でも……あなたに触れていいのなら考えなくもないです」
橡の長いまつ毛がぴくりと揺れる。
「私に触れてもお前の願いは叶わない。美しい世界なんて具現化すら出来ない世迷言だ」
「人の心が変わることを一番よく知っているのはあなたでしょ? 俺が今、何を一番に望んでいると思いますか?」
健太郎は橡の頬に手を伸ばす。しかし橡はそれを拒否した。
「触るな、お前が私に見せるものは胸糞が悪い」
「ひどい言われようですね」
健太郎がため息をついた一瞬の間に目の前にいた橡はもうおらず、ジャケットだけが抜けがらのように落ちていた。
「私の能力を知りながら触れようとする奴はまともじゃない」
声の方を見ると窓際に橡が立っていた。3本の尾がゆったりと揺らめく。ひとりでに開いた窓から雪が吹き込んでいた。その風は突き刺すように痛く冷たい。
「橘奏斗が来たら芥山へ連れて行け」
橡の姿は夜の闇に溶け込んでいき、静まり返った暗闇に雪だけがちらちらと白く浮かぶ。
「あなたの言う通り俺はまともじゃないのかもしれない。でもあなたには俺が必要な気がするんですよ」
健太郎は夜の闇に向かい語りかけた。しかしもうそこに橡の気配はなかった。