3 協力
柚原健太郎は気持ちの良いさっぱりとした男だった。細身で長身、特別整った顔立ちではないのに人好きする。初対面からすっと懐に入ってくるような男だ。
「長い旅で疲れたでしょう? 是非くつろいで休んでくださいね」
健太郎はそう言ってホットコーヒーをテーブルに置く。事務所にいたのは健太郎1人だった。
九重会の支所はどこも同じ作りであるはずなのに管理する者によって雰囲気が異なる。アヤメの事務所がログハウスのようにナチュラルな感じなら、ここはお洒落なカフェみたいだった。
「そうね、でもそう休んでもいられないのよ。橡の居場所に心当たりはない?」
アヤメが聞くと健太郎は眉を上げて肩をすくめた。
「ないですね。俺自身しばらく橡と顔を合わせていませんから」
「え! 嘘でしょ!? あたしなんて出会ったその日から肌身離さずで、ほとんど離れたことないのにっ」
大袈裟なほどに驚いたのは愛美だった。愛美はその言葉通り寝ている月白を抱っこしていた。
奏斗はアヤメを見る。
「とりあえず市中に出て八咫烏を探した方がいいかもしれないね」
「そうね、私もそうなるだろうと思っていたわ」
八咫烏と聞いて健太郎の目がキラリと反応する。
「八咫烏をご存知でしたか。でも八咫烏を探して橡を見つけ出そうとしても無駄ですよ。市中には八咫烏がそこらじゅうにいて、どこに橡が現れるかなんてわかりません」
「そこらじゅう? そんなにいて騒ぎになんないの? 実際にあたしの友達が写真送ってきてるし!」
愛美がポケットからスマホを取り出して写真を見せる。すると健太郎はにっこりと笑った。
「ああ、これですこれ。今のご時世その写真を見ても信じる人なんていませんよ。きっと面白半分に画像を加工したネタだと思うくらいでしょう。それに多くの人はカラスの足なんて興味のないものを注意して見ないですから」
「信じる人なんていないかぁ……」
すぐに信じてしまった愛美は複雑な気持ちで写真を見る。
「例え信じて捕まえるような人が出てもこの八咫烏はすべて橡の作った偽物ですから、すぐにおもちゃに戻ってしまいますよ。本物の八咫烏は普段足を隠しているので普通のカラスと見分けがつきませんからね」
「詳しいんだね」
「少しだけですけどね」
健太郎は微笑みを返す。
「橡を探しているのなら俺も協力しますよ。俺もそろそろ迎えに行かなきゃとは思っていましたからね」
「迎えに?」
「俺は橡とも仲良くなりたいんですよ。俺の夢はこの世界を争いのない美しい世界にすること。それにはまず近しい相手と仲良くなることが第一歩ですから!」
健太郎は曇りのない声で言い切った。その時、奏斗は新幹線の中でトロトロが言っていたことを思い出した。健太郎はトロトロの言う通り、強い信念を持つまっすぐな男だった。
「まぁ、そうは言っても俺ではまだ力不足で助っ人が必要ですけどね。あ、ちょうどその助っ人が帰ってきたみたいです」
事務所のドアが開くとカランコロンと音が鳴る。それも喫茶店のようだった。そして中に入って来たのは色白の若い女性だった。初めて会うはずなのにそのプライドの高そうな強い瞳を奏斗は見たことがある気がした。
「彼女は雪。実質橡の代わりにこの支所を切り盛りしている妖狐です」
雪は冷たい表情を崩さずにアヤメに向き直る。
「姫、ご息災で何よりでございます」
少し低めの落ちついた声で雪は頭を垂れた。 黒髪黒スーツのアヤメと色素の薄い髪色をした白スーツの雪はまるでオセロのように対照的だった。
「そんな挨拶はいらないわ。すぐに橡のところへ案内しなさい。あなたなら橡の居場所を知っているのでしょう?」
雪はふっと笑みをこぼす。だがその目は笑っていない。
「私に橡様の居場所はわかりません。私がお供するのは橡様からお呼びがかかった時だけですから」
「相変わらず律義なことね」
美女同士が視線をぶつけ合うと迫力がある。愛美ですらもふたりの気迫に気圧されしていた。
「雪」
明るい声が緊迫したふたりの空気を変えた。声をかけたのは健太郎だった。
「何ですか?」
「彼らをあそこへ案内してくれないか」
「あそこですか……いいでしょう」
奏斗はそう言った雪の目が一瞬自分へ向けて鈍く光ったような気がして胸騒ぎを覚えた。
「あそこって?」
「小さな祠ですよ。その近くに昔から土地のカラスが住み着いているんです。彼らなら橡について何か知っているかもしれない。だが行くなら急いだ方がいい。日が暮れると彼らは闇に紛れてしまうから」
奏斗たちが立ち上がり愛美も月白を抱っこしたまま「おいしょ」と立ち上がると健太郎は愛美を手で制した。
「あなたは俺と留守番ですね。彼らは警戒心が強い。力ある妖狐が3匹もいては警戒して追い返されてしまうかもしれない」
健太郎はそう言って眠る月白を見た。
「えーっ」
愛美は不服そうに口を曲げる。
「それにあなたとはもっと詳しい話をしたいんです。何故鹿児島のあなたと神奈川の彼らが橡を追っているのか。俺もちょうど気にかかることがあって、もしかしたらここで繋がるのかもしれない。協力しあって早く解決させましょう」
健太郎から出た優しい言葉に愛美は目を輝かせる。
「ありがとう! あんたいい人だねっ!」
「協力こそが幸せな世界の近道ですから」
「うわっまぶしっ」
大真面目に言う健太郎の笑顔に愛美は思わず目を手で覆った。
雪はアヤメと奏斗を乗せて小型の乗用車を走らせた。小型と言っても高級車であることに間違いはなく、乗り心地は抜群にいいはずだった。それなのに静かな車内はなんとも微妙な空気が流れていた。
アヤメも助手席には乗らず奏斗の隣で窓の外を見ている。ふと視線を感じると雪がバックミラー越しに奏斗を見ていた。やはり雪の目には見覚えがある。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
奏斗が聞くと雪は視線をそらして手荒にカーブを曲がる。その拍子に奏斗はグイッとアヤメの方へ体がもっていかれた。アヤメの体は温かくふわりと良い香りがした。
「ご、ごめん、アヤメさん」
「いいのよ」
アヤメは微笑んだが次の瞬間には雪を睨む。
「雪、わざとやったでしょう?」
「申し訳ありません。手荒な運転をすれば思い出して頂けるかと思いまして」
雪の目がじとりと奏斗を見る。奏斗の脳裏に浮かんだのは雪のように真っ白な妖狐だった。奏斗はあっと小さな声を上げた。
「あなたは雪山で僕を乗せてくれた妖狐だ」
「やっと思い出してくださいましたか。私はあなたを背に乗せた屈辱を忘れはいたしませんのに」
雪は精霊の山でアヤメのところまで奏斗を乗せ、橡と共に去って行った白狐だった。
「す、すみません」
奏斗が恐縮して謝ると彼女は満足そうに笑っていた。
「奏斗、謝ることなんてないわよ。相変わらず執念深い女。あのふたりの執念深さはあなたに似たのね」
「ふふっそれは褒め言葉と受けとりますよ」
「あのふたり?」
意味がわかっていない奏斗は首をかしげた。
「雪は橡と青鈍が幼い頃、世話係をしていたのよ」
奏斗は驚きながら雪を見る。自分と同じか少し上に見える外見をしているが雪はアヤメよりも長く生きている妖狐だった。
「私にとっては姫君も娘みたいなものでございますよ」
「心にもないことを」
アヤメは小さな声で言い、チッと舌打ちをした。そんな姿を奏斗の前で見せるのは珍しいことだった。
車は急な坂を登り振興住宅街に着いた。立ち並ぶ住宅はどれも新しく南フランス風に統一されている。住宅街の中心にある公園のモニュメントにはLa Colline AKUTAと彫られていた。
「こんな新しい場所に祠があるんですか?」
「ええ、住宅街は新しいですが土地としては弥生時代まで遡るとても古い場所です。もうすぐ着きますよ」
そう言って車を止めたのは住宅街の端、ゴミ捨て場だった。明るい住宅街の中にあると思えないほど薄暗く空気が重い。
「住民たちも気味悪がってゴミを捨てに来る以外はあまり近づきません」
雪はゴミ捨て場の裏にまわり背の高い草木を手で払いのける。そこは林になっていて人が1人通れるくらいの道があった。雪はその道を先頭をきって歩いていく。すると遠くでガアガアとけたたましい鳴き声が聞こえた。10メートルほど先に小さな祠が見えると雪は立ち止まった。
「これ以上先は彼らの縄張りです。まもなく彼らは来るでしょう」
茂みに埋もれている祠は長く人の手に触れられていないのか酷い状態だった。
「こんなゴミ捨て場の近くに祠があるなんて……」
奏斗が唖然としていると視線だけを彼に移した。
「今の人間にはピンときませんか。AKUTAというのはゴミのこと。ここはそもそもゴミ捨て山だったのです」
「ゴミ捨て山?」
「ええ、その前は天狗の山でした。でもそれを知る者は誰もいません」
「天狗の山が何でゴミ捨て山になってしまったんですか?」
「天狗は山の守神でした。ある時、家族を亡くした人間が故人への届け物を託しました。それを知った人々は同じように天狗に故人への品を持ち押し掛けたのです。しかしその全てを届けるなど無理なこと。そうしているうちに品は溜まり、いつしかゴミ捨て場になってしまったのです」
「そんな、その天狗は?」
「姿を消しました。人との約束も山も守れなかったために消滅したのでしょう」
雪は淡々と語ったが奏斗は人に忘れ去られた天狗を思うと切なくなった。
ガアガア! ガアガア!
気づけば先ほど聞こえたカラスの鳴き声は近くまで来ていた。聞こえる鳴き声も増えて、いつしか奏斗たちを取り囲んでいた。1羽のカラスが降り立ち祠にとまった。2本の足の鋭い爪に掴まれて古い屋根がきしみ、ぱらりと欠けらが落ちる。その姿は3本足の八咫烏ではなかった。カラスは雪と面識があるのか嫌そうな顔をした。
「キツネが何の用だ?」
「用があるのは私じゃないこの男だ」
雪は奏斗を指差した。突然に振られた奏斗は一瞬たじろいだがカラスと真正面から目を合わせた。そのカラスはとても大きく艶やかで王者の気品さえ感じらた。
「この地域に出没している八咫烏について聞きたいんです」
「あの悪趣味なものはキツネが作り出したものだろう。そのようなことは同族であるそやつらに聞け」
それはもっともな言い分だった。奏斗は一度唇をぐっと固くしめ、再び開く。
「それは分かっています。でもその妖狐と会えない今、あの偽物の八咫烏について情報が欲しいんです。いずれあなたたちにも危害が加わるかもしれない。その前にどうにかしたいんです。小さな情報でもいいので何か教えてはくださいませんか?」
奏斗は極力丁寧にカラスに頼み込んだ。その間、カラスは奏斗を見定めるように首を動かしながら見つめる。奏斗はその鋭い視線から目を離さなかった。
「お前は—―」
カラスが何かを言いかけたその時、空で様子を見ていた1羽が激しい鳴き声を上げ大きな声で叫んだ。
「堕津! 奴らが来る!」
堕津と呼ばれた大きなカラスは茶色い瞳で空を睨んだ。奏斗も見上げるが高い木々の間からは夕日色の空が少し見えるだけだった。風は止み、不自然なほどの静寂があたりを包む。
「何が来るんですか?」
堕津は奏斗の問に答えない。そして次の瞬間、堕津を狙って勢いよく黒い何かが飛び込んできた。
「あぶないっ!!」
堕津を守るように小柄なカラスが飛び出て身代わりになる。
「更紗!!」
小柄なカラスの羽根が舞い散り、木の茂みへと投げ出されていた。堕津は怒り、勢いよく飛び立つ。
「小僧、危害ならもうとっくに被っている!」
怒号にも似た鳴き声をあげ堕津は自らを襲った者に向かっていく。あたりは急に暗くなり、気づけばついさっきまで晴れていた空が見えない。
「あれは!」
奏斗は自分の目を疑った。光を隠したもの、それは何百羽もの黒い大群だった。
「あれは八咫烏の群れですね」
雪は冷めた声で言った。アヤメは奏斗を守るように構え、堕津の仲間たちも飛び立ち臨戦態勢に入る。しかし、多勢に無勢であることは明らかだった。八咫烏の群れはまるで一つの生き物のように一糸乱れぬ動きでカラス達に襲いかかる。攻撃的な八咫烏はカラスだけではなく奏斗達にもその鋭い爪を向けた。アヤメは奏斗を守り、雪は自分に襲いかかってきた1羽を片手で鷲掴みにする。八咫烏と雪の目が合うと八咫烏は何か囁くように口を動かし、土へと帰った。
「ああ、カラス達が!」
カラスたちの抵抗もむなしく、反撃を受けた彼らの黒い羽根が雨のように降り注ぐ。生き物が好きな奏斗にとってそれは辛い情景だった。奏斗の悲痛な叫びに反応する様にアヤメの瞳が金色に光る。アヤメは妖狐の姿になり天へと駆け上がった。アヤメに触れた八咫烏は次々と動きを失いぼとりぼとりと落ちていく。落ちた八咫烏は祠にも直撃し、その衝撃で扉が外れそうになっていた。奏斗は落ちてきた八咫烏を拾った。乾燥した土がポロポロと崩れる。
「粘土だ。これは粘土でできたカラスだ」
あたりはアヤメの瘴気で充満し八咫烏は近づくことができなくなっていた。それでも八咫烏の群れは群を成し、大きな一つの生き物のように空を舞っていた。それはまるで空を泳ぐクジラの姿だった。
「あなたやっぱりクジラなのね」
「キツネ姫か。九尾に娘がいるとは聞いていたがまさか本当にいたとはな。だが今お前に用はない。更紗を出せ。私には時間がない」
アヤメはちらりとカラスたちを見た。カラスたちは先ほどやられた更紗を守るように飛び回り、先頭では堕津が威嚇の声を上げる。更紗が特別なカラスであることは誰の目にも明らかだった。
「何故更紗を?」
「更紗だけが知っているのだ。天狗の居場所を」
「天狗の居場所? どんな事情で天狗を探しているのかは知らないけど橡を頼るのは賢明じゃないわ」
「頼る? 利用してやっているのだ。私は奴の弱みを握っているからな」
「弱み?」
その時、どこからともなく立派な鷹が現れ、話していた八咫烏を襲った。砕けた八咫烏は砕け散って落ちていく。
「クジラというのはおしゃべりで困りますよ」
鷹の声は橡のものだった。八咫烏たちは抗議をするように鷹に向かって声をあげる。
「そう焦らないでください。更紗の居場所がわかったなら天狗も近くにいるのでしょう。今日はもうおしまいです。ほら日が沈んでいきますよ」
八咫烏の大群の隙間から見える空は薄暗く、闇に消えかけていく。それはカラスたちも同じだった。もうどこまでが影で、どこまでがカラスなのか判別が難しい。
「仕方がない。更紗、逃げても無駄だということを覚えておけ」
八咫烏の群れは夜の闇に消えて行く。空には鷹だけが残り、その翼にわずかな夕日を反射させながら旋回する。
「橡、今度は何を企んでいるのよ」
「企むとは人聞きが悪い。私もクジラには早く肉体に戻ってほしいと願っているんですよ。是非、協力してくださいね」
鷹になった橡の目が奏斗を捕らえる。奏斗は狙われた獲物のように背中がぞくぞくと凍るのを感じた。
「橡!」
アヤメは反射的に橡に襲い掛かる。すると鷹はアヤメの攻撃を避けて翻り、そのまま奏斗へと急降下した。
ぶつかる。目を閉じた瞬間、鷹の身体は奏斗の前で粉々に砕け散った。
「油断大敵ですよ。ふふ、またお会いしましょう」
あざ笑うような橡の声が響き、奏斗はへたりと座り込んだ。
「奏斗大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。それより……」
人間に戻ったアヤメに起こされながら奏斗は木の上を見上げた。奏斗は先程攻撃を受けたカラスたち、特に更紗が心配だった。
あたりはさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、ただ怒りのこもった鋭い視線が「帰れ」と言っている気がした。
「奏斗、今日は帰りましょう。カラスたちは一度闇に紛れると日が昇るまで出てこないわ」
「うん」
奏斗が諦めてうなずくとアヤメはほっとして表情を緩めた。
祠の前では雪が壊れた扉の中を見つめていた。そこには小さな3体の焼き物でできた人形が祀られていた。それはかなり古くところどころ欠けてひびが入っている。かろうじて分かるのは身体つきから男が1体とそれよりも小さな女が2体ということだけだった。
まるで祠をのぞきこむように生ぬるい風が吹き、ゆったりと木の葉が舞う。雪が手に取ると木の葉は怒りを纏わせて小刻みに震え、パチンと弾けた。
(青鈍様……)
雪は弾けた葉を握りしめ、誰にも気づかれないよう心の中でその名を呼んだ。