1 訪問者
「ママ―見て! 三本足のカラスがいるよ」
小さな男の子がゴミ置き場を指差した。すると母親はカラスに荒らされたゴミ置き場を見て嫌な顔をする。
「いやだわ。またカラスがゴミを漁っている」
カラスよりも散乱したゴミばかりを見ている母親のスカートを男の子はツンとひっぱった。
「ねえ、ママったらあのカラス—―」
ガアガアと濁った鳴き声に男の子の声がかき消される。ゴミ置き場の裏にある林から姿の見えない無数のカラスたちの視線を感じ、母親は身震いした。
「あんまり見てはだめよ。カラスは頭がいいから顔を覚えられたら襲って来るかもしれないわ」
母親は男の子の手を引いて足早に去って行く。だれもいないゴミ置き場にはカラスたちの羽音とゴミを漁る音だけが響いていた。
「あぁ、やっと温かくなってきた。早くもっと暑いくらいにならねえかなぁ」
陽の当たる窓際でつややかな茶色の塊がぼやく。事務所の窓は開かれてカーテンが柔らかくそよいでいた。奏斗は小鳥にエサをやりながらトロトロに微笑む。
「トロトロは夏が一番好きなんだね」
「そりゃそうだろ。俺はとろとろしてないと妖怪トロトロになれないんだからな」
「それもそうだね」
奏斗は笑いながらその先にいるアヤメの姿を見る。奏斗とトロトロの会話を聞いてほんのりと微笑む横顔は女神のように美しく、奏斗の胸を熱くさせる。
「アヤメさんはどの季節が好き?」
奏斗に聞かれるとアヤメは窓から吹き込む風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「私は今の季節が一番好きだわ。生き物たちの空気が華やぐもの。奏斗は?」
奏斗もまた彼女のように風を吸い込む。風はほんのりと花と緑が混じり合う温かな香りがした。
「そうだね。僕も一緒かな」
奏斗とアヤメは見つめ合い柔らかな眼差しを交わし合う。雪の精霊の山から帰ってきてからふたりの間には春の始まりのような空気が流れるようになっていた。
しかし、ふたりの間には目には見えないもう1人の男の存在がいた。男の存在を感じるたびに奏斗は今まで経験したことがないような憎悪に飲み込まれ息ができないほどの胸の痛みに襲われた。
(今アヤメさんの隣にいるのは僕だ。あなたじゃない)
すると男は哀しげな眼差しを奏斗に向けて消えていく。胸の痛みはアヤメへの想いと比例してどんどんと強まっていくようだった。
ピーチッチッ
窓からはまた別の小鳥たちがエサを求めてやってきた。トロトロは腕や頭に小鳥たちを乗せながら餌をやる奏斗の姿を頬杖をつきながら眺める。
「ああ、春はいい季節だよ。でも山は飢えた生き物ばかりだ。今じゃ小鳥までこぞってキツネのところに飯を食べにくる始末さ。昔は春になりさえすれば食べ物に困らなかったのになぁ」
トロトロの言葉は奏斗の胸に突き刺さる。九重会の事務所には季節に関係なくお腹を空かせた生き物たちが訪ねて来た。生き物たちが飢えているのは人間が住む場所を奪っているせいだ。そのことに奏斗は人間の責任を感じていた。そしてさらに自然を守るはずの九重会も人間を利用し自然破壊に加担していたというのは奏斗にとって受け入れ難い事だった。しかし、それでも九重会にいることに迷いはない。
「昔を嘆いていても仕方がないわ。世界は絶えず変化しているのよ」
「変化?」
「ええ、意識が変われば未来は変わるわ。未来は今の私たち次第でいくらだって変えられるのよ」
アヤメは立ち上がり奏斗に止まっている小鳥に手を差し伸べた。小鳥たちは本能で狐の妖怪であるアヤメを警戒する。アヤメの手に乗るなどあり得なかった。
しかし1羽が首を傾げながら少しずつアヤメに近づいた。小鳥がアヤメに触れようとしたその時、窓から突風が吹き、驚いた小鳥たちは一斉に飛び立って行った。
「なかなか上手くはいかないけどね」
アヤメは肩をすくめて微笑むと、窓の桟に小鳥のエサをぱらぱらとまいた。
「アヤメさん……」
エサをまくアヤメの指がぴたりと止まる。奏斗の指先が風に揺れる柔らかな黒髪に触れていた。
「僕はアヤメさんとふたりなら失敗も怖くないよ」
アヤメは目を閉じて奏斗の手に頬を寄せた。
「そうね、私たちは今できることをするだけ。助けを求める者がいる限りね」
アヤメがそう言った次の瞬間、事務所のドアが勢いよく開いた。
「花菖蒲姐さ~ん! 助けてくださ~い!」
気付けばアヤメの髪に触れていた手は二つに結ばれたお団子頭に遮られていた。
「愛美、久しぶりね」
「あ〜ん、姐さ〜ん! 会いたかったっす〜」
勢いよく飛びついてきた彼女をアヤメは驚くこともなく抱きとめていた。
「歩きで来たの? 大変だったでしょう? 言ってくれれば車で迎えに行ったのに」
アヤメは泥で汚れた女性の靴を見て言った。
「そんなことできないっすよ~」
「気を使ってくれたのね。ありがとう」
アヤメは女性のお団子頭の間をよしよしと撫でる。
「あー姐さんいい匂い~。疲れ吹っ飛ぶ~」
女性はふにゃっと幸せそうな顔をした。
呆然と抱き合うふたりを見つめる奏斗にトロトロが囁く。
「残念だったな。うらやましいんだろ?」
「そ、そんなこと思ってないよ! ただちょっとびっくりしただけで—―」
顔を真っ赤にしながらうろたえる奏斗に女性は気づき、丸い目をぱちくりとさせた。
「あなたが橘奏斗!? うわぁ! 本物の『橘奏斗』だ! 初めて会った! カンドー! ねぇ! 奏斗っちって呼んでいい?! 会ったら絶対そう呼ぶって決めてたんだ!」
「だ、大丈夫ですけど……あなたは?」
「 奏斗っちてば、うちらタメだから敬語はナシね! 私は鹿児島支所の柏木愛美。八尾の月白師匠の下で働いてるんだ」
「月白師匠?」
「ここ、ここ」
愛美はアヤメから身を離すと親指で自分の腹部を指差した。アヤメに抱きついていて気づかなかったが愛美は人間の赤ちゃん用の抱っこ紐をしていた。大きく膨らんだ抱っこ紐に入っていたのは赤ちゃんではなく乳白色の妖狐だった。愛美の胸に顔をうずめる妖狐からはすーすーっと規則正しい寝息が聞こえる。
「寝てる?」
「師匠はほとんどこうして寝っぱなし。あ、師匠ってのはさ、何の師匠ってわけでもないんだけど喋り方が師匠っぽいから呼んでいるだけね」
愛美は赤ちゃんにするように抱っこ紐の上から月白の背中を撫でた。
「月白は1日のうち数分しか起きていられないのよ。だから支所で何か困ったときには言ってと伝えてはいたんだけど、月白を連れてここまでくるなんて何かよほどのことが起きたのね?」
愛美はアヤメと会えた嬉しさで本題を忘れていたのかハッとしてアヤメの手を握った。
「そうなんすよ! 大変なんす。うちで解決困難な問題が起きましてね。師匠が起きた時に相談したら『姫のところへ行け』ってそれだけ言ってまた爆睡モード入っちゃって! 結局丸投げじゃないかって言われたらそれまでなんですけど。とりま、コレ見てもらえます?」
愛美はサッとポケットからスマホを出すとアヤメと奏斗に動画を見せた。そこに映っていたのは海原に浮かぶ黒いものだった。
「わぁすごい! ザトウクジラだ! 」
奏斗は歓喜の声を上げたがすぐにその動画の違和感に気が付いた。
「これって動画だよね?」
クジラはまるで静止画のようにピクリとも動かない。群青色の波だけがゆらゆらと揺れていた。
「奏斗っち気付いた? おかしいっしょ? このクジラ、魂が抜けたみたいにずっと眠ったまま昏睡状態から起きないの。色々調べてみたけど病気でもないしただ寝ているだけみたいで。だから寝る妖怪代表の師匠に相談すれば余裕って思っていたのに、まさかの他人任せだし」
アヤメは考え込むように顎に手を当てた。
「魂が抜けたみたいに……」
「そうなんす。しかも一番厄介なのはこのクジラただのクジラじゃなくって」
愛美は動画を止めて指でクジラをズームしてみせた。するとそこに映っていたのはボートだった。奏斗は自分の目を疑った。クジラとボートの対比は明らかにおかしい。
「わかります?」
「これ、ボートの模型とかじゃないよね?」
「んなわけないっしょ。ボートが5メートルくらいだから、このクジラはざっと70メートルくらい?」
「70メートル!? シロナガスクジラだって大きいものでも34メートルくらいだよ! その倍なんて!」
奏斗の声は裏返った。
「奏斗ッちよく知っているね! この大きさのクジラが人間にバレたら大騒ぎだよ。今はうちの妖狐たちが頑張って人間にバレないように根回ししているけどもうそれも時間の問題……。だから人間に見つかる前にまた海の底へ戻ってもらえる方法を探しているんだ。でも意識がない上にこの大きさじゃどうにもこうにも出来なくて」
愛美ははぁっとため息をついた。アヤメは考え込むのをやめて胸の前で腕を組んでいた。その目がきらりと厳しく光を放つ。
「アヤメさん?」
「ねぇ、奏斗。おかしいと思わない? 警戒心の強いクジラが熟睡するなんて」
「そうだね、確かクジラは脳を半分ずつ眠らせる半球睡眠。だから睡眠状態にあっても脳は覚醒しているはず」
「ええ、しかもこのクジラは何百年……いいえ、千を超える歳月を人間に見つからなかった相当な知恵者よ。それが無防備に海上に浮かび魂が抜けたように眠るなんて異常だわ」
奏斗はアヤメの顔を見てはっとした。奏斗は雪山のロッジで魂が抜けたように眠る月美を思い出した。
「もしかして、橡……さん?」
「ええ、その可能性が高いわ。橡がクジラの魂を他の器に入れ替えたのよ。早くクジラの魂を探さなくてはいずれ身体に戻れなくなるわ」
「マジすか。でもどうやってクジラの魂を—―」
愛美が言いかけたその時、彼女のスマホがペロペロ~ンと間の抜けた音を出した。
「すみません、えっと……魂をどうやってーー」
ペロペロ~ン ペロペロ~ン ペロペロ~ン
連続するスマホの通知音に話の続けられない愛美を見兼ねたアヤメがふっと笑みをこぼす。
「大事な連絡かもしれないし、いいのよ」
愛美はスマホの画面をちらっと見て大きなため息をついた。
「ったくこんな真剣な話をしている時に……。すみません、友達がふざけて写真送り付けてきてて。ほんとしょーもない友達ばっかなんすよ。カラスのコラ画像とか興味ないしっ」
「カラス?」
アヤメが聞くので愛美はスマホの画面をアヤメに見せた。そこには大量のカラスと『あんたこういうの好きっしょ?』というメッセージが添えられていた。アヤメは写真を食い入るように見つめた。
「八咫烏ね」
「八咫烏? 八咫烏って3本脚で神の使いって言わているカラスだよね」
奏斗も写真をのぞき込むと映っているカラスの群れはすべて3本足だった。
「どーせ、面白半分で誰かが作ったんすよ。地元の仲間はあたしがオカルト好きってバカにしてるんすから。神の使いがこんな簡単に撮れるわけないし。ホント私の周りはしょーもないの多くて困りますよ」
「お友だちはこの写真をどこで?」
「え! ちょっと待ってくださいね、聞いてみるっす」
アヤメが真面目な顔で愛美に聞くので彼女は驚き慌てて返信した。
するとすぐにまた返事が返って来た。愛美がスマホを手に持っていたので3人は画面をのぞきこむ。
『ウケる! 食いついてきた。マジで信じてんの? SNSでバズってるコラ画像だしww そうだ♡あんた1匹くらい捕まえてきなよ笑 鳥取の○△市にいるらしいから』
「鳥取ね」
アヤメが呟く。
「わ〜マジで恥ずかしいっす! 姐さん、あたしの友達信じなくていいっすよ。ほんといつもふざけてるんで」
愛美はいそいそとスマホをポケットへとしまった。笑う愛美の目が本当は笑っていないような気がして奏斗は気になった。
「橡は鳥取支所だったよな」
窓際から奏斗とアヤメとは違う声がしたので愛美はきょろきょろとその姿を探した。アヤメは深くうなずく。
「ええ、それは誰かがふざけて作った画像ではないわ。でも愛美の言う通り神の使いである彼らが人前に姿をさらすはずがない。必ず奴が関係しているはずよ」
「アヤメさん、鳥取に行くんだね」
「ええ、今すぐに行きましょう」
アヤメはかけてあったジャケットを羽織る。奏斗がリュックを背負いトロトロをポケットへと入れるとそれを見ていた愛美が目を輝かせた。
「やっぱり先輩っぽい話し方だと思ったらトロトロ先輩じゃないっすか! 相変わらずチョコフォンデュっすね」
「食うなよ」
トロトロが言うと愛美は何が面白いのか大きな声でケラケラと笑う。
「すーすー……」
どんなに騒がしくても愛美に抱っこされている月白は少しも動くことはなく眠りの中にいた。