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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第伍話 キツネ姫と雪の雄鹿
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16 嘘

「おばあちゃん、本当に一人で大丈夫なの?」

 ホテルのロビーでタクシーを待つ菊江の背中を月美は優しくさすった。ホテルのロビーは広く、並べられたソファはたくさんのスキー客で賑わっていた。


「おれなら大丈夫だよ。何の心配もないさ。月美はホテルのオーナーに挨拶しに行かなくていいのかい?」

「まだ体調が戻ってないって嘘をついたから少しくらい平気よ」

 月美は少しだけ舌を出していたずらな顔をした。その顔は出会った時とはちがい生き生きとして明るい。

「月美が前のように元気になってよかったよ。これもこの方々のおかげだ」

 菊江が見上げる先には奏斗とアヤメがいた。視線に気づいたアヤメが微笑みを浮かべる。


 月美は菊江の手を握ると奏斗とアヤメを交互に見た。

「この度は本当にありがとうございました。あと……満足に自然調査にご協力もできなくてすみませんでした。もう山頂に行くことはできませんが、また近くにお寄りの際には是非来て下さいね」

 申し訳なさそうな月美にアヤメは爽やかな笑みを返す。来た時と同じ真っ白なコートを羽織ったアヤメはその美しさでホテルに集まった人々の視線を奪っていた。


「気にすることはないわ。ここの自然に人の助けなどいらないことがもう十分にわかったもの」

 アヤメが言うと奏斗も深く頷く。奏斗は不思議そうな表情を浮かべる月美に笑顔を向けた。

「また雪を見に来ます。ここの雪は本当にきれいだから」

 月美は窓の外を見た。白いゲレンデにスキーヤ—たちの色鮮やかなウエアが彩を添えていた。

「そうですね。山を切り崩しても人が立ち入っても変わることなくここでは美しい雪が降ります。まるで誰かのために降らせているような純粋で曇りのない雪……。だから雪の精霊の伝説が生まれたのでしょう。でもこれからも私は雪の精霊なんて信じません」

「月美……」

「おばあちゃん、私やっぱり伝説は嫌いよ。でもね、いつかここの雪を好きになれたら何か変わる気がするの。私はおばあちゃんに言われたから残るんじゃない。私の居場所はここだと自分で決めたのよ」

 そう語る月美は柔らかな顔をしていた。アヤメは彼女の肩にそっと手をおいた。

「あなたならきっといつか受け入れることができるわ。大事なものは同じなのだから」

 月美の目が潤み赤くなる。アヤメの言う『大事なもの』の意味も、こみ上げる涙の理由も月美には分からない。ただ心にあるのは目の前の菊江への想いだけだった。月美は涙が流れる前に握っていた菊江の手をそっと離した。

「私、そろそろ行くね。多分私を待っているみたいだから」

 フロントでは男性がそわそわとこちらの様子を伺っていた。胸には支配人と書かれたバッジをつけている。

「うん。行っておいで」

「ありがとう。おばあちゃん」

 月美は菊江に背を向けて歩き出す。男性は月美と目が合うと優しそうな顔で微笑んだ。月美は微かに頬を赤らめて微笑み返した。男性のネクタイにはたくさんの白いウサギが刺繍されていた。



 ****

 小さな雪の粒が奏斗の眼鏡にぶつかりゆっくりととける。狐姿のアヤメが奏斗を背に乗せて山を越えていく。奏斗は腕で眼鏡についた雪を拭った。

「奏斗、大丈夫? 寒くない?」

「大丈夫。寒くないよ」

 アヤメの背中の乗り心地は雪の精霊のところまで乗った狐とはまるでちがかった。それでもアヤメは金色の瞳で甘く睨む。

「そんなこと言ってしっかりつかまらないから顔に雪が当たっているじゃない。あなたの考えていることは分かっているのよ」

 奏斗はぎくりとした。長い柔らかな毛に覆われたアヤメは冬山の寒さなどものともしないくらいに温かい。特に力の集まるアヤメの首の付け根部分は熱いくらいだった。しかし奏斗はアヤメの力を奪わないよう上体をできるだけ離してつかまっていた。

「離れたって無意味よ」

「ごめん」

「バカね。謝るなんて……。本当なら私を見放してもおかしくはないのに」

「僕がアヤメさんを見放す? 何故?」

 アヤメは小さくため息をついた。

「雷鳥の一件の時、私はあなたに隠し事をしないという約束をしたわ。でもそれはその場を取り繕うための嘘。私は初めからあなたを騙していたのよ」

「それは僕がいけないんだ。監視されているアヤメさんが本当のことなんて言えるわけない。隠し事をしないなんて約束が無茶だったんだよ」

 アヤメの長いまつ毛が物憂げに下がり瞳に影を落とす。

「監視の目なんてたいしたことじゃないわ。自然を守るはずの九重会が自然を壊すのならあなたが九重会ここにいる意味もなくなってしまう。私はどんな手段を使ってもあなたと一緒にいたかったのよ」

 それは奏斗にとって何にも勝るほどに嬉しい言葉のはずだった。しかし彼の心に芽生えたのは猜疑心だった。

『アヤメさんが一緒にいたいのは今の僕? それとも—―』

 奏斗は出かかった言葉を飲み込み、アヤメの身体を両手で強く抱きしめた。

「奏斗?」

「アヤメさん、ごめんね。僕はアヤメさんが真実を言ってくれるのが僕への気持ちだと勘違いしていたんだ。自分のことで精いっぱいでアヤメさんがひとりで苦しんでいることに気付きもしなかった」

「奏斗……」

 アヤメは泣いていた。こぼれた涙は凍り、一粒の雪になる。それはキラキラと輝いてとても美しかった。

「僕が九重会にいる意味は自然を守るためだけじゃない。ここにいればアヤメさんと共に生きることが出来るからなんだ。でももらってばかりは嫌だ。今度は僕がアヤメさんに生きる力をあげたい」

「その力ならもうもらっているわ」

 アヤメの首元は奏斗を燃やすように熱くなる。

「あなたの存在が私にとって永遠を生きる力になる。今までもこれからも」

 アヤメの言葉で目覚めるように彼の黒い感情がうごめく。

『過去も未来もいらない。彼女のすべてを僕のものにしたい』

 奏斗はぐっと胸を抑えた。その禍々しい黒い気持ちをアヤメに知られてしまうのが怖かった。冷たい風に当たって眼鏡のフレームがパキリと小さな音を立てる。

『僕は僕以外にはなれない。そうですよね? 菊江さん…』

 奏斗は心の中で菊江に問いかけていた。



 ****

 それは菊江のタクシーを待っていた時のことだった。月美が仕事に戻り、3人でロビーに座っていると菊江はアヤメをちょんちょんとつついた。

「悪いがね、水を1杯持って来てくれないか? のどが渇いてね」

「ええ、ちょっと待っていて」

 アヤメが水を取りに行くと菊江と奏斗は二人きりになった。菊江はアヤメの姿が見えなくなるのを確認して奏斗を手招きした。

「お前さんに渡すものがある」

 そう小さな声で菊江が手渡したのは雪崩に巻き込まれて失くした奏斗の眼鏡だった。

「菊江さん! これをどこで?」

 菊江のしわしわの顔から若々しい黒く澄んだ瞳がのぞいた。

「精霊から預かったのです」

 耳元で囁くその若々しい声に奏斗は思わず身体を引いた。

「あなたは……お菊さん?」

「ええ。あなたにはまだ必要なものなのだと彼が言っていました」

「僕に必要な物……」

 奏斗は眼鏡をかけた。その瞬間、どこか落ち着かなかった気持ちがすっと収まる。菊江は眼鏡姿の奏斗を見ると確信した。

「やはりそれはあなたに必要なもののようですね」

「菊江さん……菊江さんは全て覚えているんですね」

 奏斗が驚きながら言うと菊江の黒い瞳は再び深い皺の中へと消えていく。

「ああ」

 そう返事をした菊江の声は元のしわがれ声に戻っていた。

「あの雪山で全てを思い出したのさ。だがそれが良いこととは限らん。忘れていた方が楽なこともある。お前さんはまだ思い出していないのなら注意した方がいい。きっと自分が誰なのか分からなくなるでの」

「自分が誰なのか……」

 奏斗の脳裏に思い出されたのは傷の男だった。菊江は奏斗の眼鏡を指差した。

「それは今のお前さんには必要なものだ。だがね、それがなくてもお前さんはお前さんにしかなれない。おれたちが生きているのは“今”だけ。過去は今生きている者のためにある。おれは菊江だ。お菊じゃねぇ。だからおれはこの先も月美の祖母として月美のために生きる」

 それはまるで自分に言い聞かせているような言い方だった。

「菊江さん、どうして僕にそれを?」

「おれとお前さんは似ている。人間であり、人間ではない。もしお前さんも過去を思い出す時が来たら人間の常識が通用しないのかもしれんでの」


 水を持ってきたアヤメが奏斗の顔を見て目を丸くした。

「奏斗、眼鏡見つかったの?」

「うん。雪の中に落ちているのを偶然みつけたんだ」

「良かったわね。それは奏斗のお気に入りの眼鏡だものね」

 アヤメが優しい笑みを浮かべると奏斗は「うん」と小さく返事をした。




お読み頂きありがとうございます! やっとこさ雪の雄鹿が完結しました(深夜にひっそり)

これより物語も終盤に向かっていきます。ゆっくりペースですが出産・育児をはさんだ雪の雄鹿ほどゆっくりペースにはならないはず……と信じて頑張ります。


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